現実的な空想

淡島かりす

雪の夜、喫煙所にて無となる

 突き抜けるような寒い夜だった。昼頃から降り始めた雪は強弱の波こそありながらも、日付が変わろうとしている時間まで続いていて、都心の交通網を尽く、文字通り凍結させようとしている。

 少し離れたところにある洒落たホテルの看板から、氷柱がいくつか下がっていた。冷えきった鉄製の手すりに触れないようにしながら、杉野明日香はそれを見て溜息と煙草の煙を吐き出す。外階段の踊り場に備え付けられた灰皿と朽ちかけた椅子にも雪は積もり始めていた。


「帰れないね、これ」

「今日、俺たち夜勤だから関係ないしょ」


 隣から別の煙が漂ってくる。


「関係ないよ? 関係ないけど、こんな雪じゃ客も来ない」


 明日香は、職場、つまりは今煙草を吸っているビルが表に掲げている看板を思い出しながら返す。「24時間365日 お部屋貸します」。お世辞にもあまり治安がいいとは言えない区画に建っているビルは、時間単位で部屋を貸すことを生業にしている。所謂「ご休憩」のあるホテルや、会議室のレンタルとは違う。「ベッドがあるから仮眠出来ますよ。中で何するかは知りませんけど」という、グレーな空気が漂うタイプの貸し部屋である。


「二組だよ、二組。昼から今までさぁ。新記録じゃね?」

「何の」

「知らないけど」

「スギノン、適当すぎ」


 明日香より三つか四つ年下で、確か大学を卒業したばかりである結城智弘が呆れたような声を出す。明日香は、相手が自分のことを下に見ているとまでは言わないが、年上と思っていないことを承知していた。ここで働き出してから五年と少し。三十の壁もそろそろ近い。

 煙を吸う。吐き出す。空から降る雪は止まらない。


「っつーかさ」

「その頭悪そうな話し方、どうにかなんないの」

「結城に頭良さそうな話し方する意味ある?」

「ないけど」


 でしょ、と明日香は短く言って相手を黙らせた。国民的猫キャラクターがデザインされた、足つぼサンダルから足を抜き、反対側の足の脛を擦る。


「暇だから遊ぼうよ」

「何して」

「若人の遊びでいいよ。ミニ四駆とか」

「わこーどの遊びじゃないだろ、それ。寧ろ使い古された遊びの象徴と言うかさ」

「雪合戦とかする?」


 構わずに話を続けていく。智弘も特にそれに異議を唱えるわけでもなく、応対を変える。


「だったら雪だるま選手権しようよ」

「より良い雪だるま作った方が勝ち?」

「そうそう、パリピな雪だるま」

「電飾とか使うの?」

「この店にないだろ」

「あるよ。クリスマスに客が忘れていったやつ」


 煙を吐き出しながら言えば、智弘が思い出したのか眉を寄せた。


「やだよ。あれ、何に巻きついてたんだかわかったもんじゃねぇし」

「そんなこと言っちゃ駄目よー? このお店はあくまでお部屋を貸すだけなんだから」


 短くなってきた煙草を灰皿に落とす。


「でも雪だるまは外出ないといけないから、却下ぁ。寒いし」

「寒いのはあんたが裸足だからだろ」

「靴下濡れちゃったんだから仕方ないでしょ。中で遊ぼうよ」

「と言ってもなぁ。あ、この前店に怪文書届いたじゃん。あれの模倣犯ごっことかは?」

「え、何それ知らん」

 

 明日香は二本目の煙草に火をつける。雪は少し強くなっていた。眼下の道には通行人はいない。いつもはいる、エステの店の呼び込みも見えなかった。当然と言えば当然である。人通りはないし、その店の制服はミニ丈のチャイナドレス。そんな格好で外に立っていたら客ではなくて救急車が来てしまう。


「怪文書って?」

「先週、郵便受けに入っててさ。この店のネオンが特殊なパターンで周りの人間を洗脳してるから今すぐやめろ、みたいな」

「ネオン?」


 はぁ、と明日香は笑いと呆れの中間のような声を出した。


「あれ点滅するようになっちゃったの、放置してるだけじゃん」

「でもほら、洗脳してるんだよ。何しろそういうお手紙が来るくらいだから」

「なんて? 草津良いとこ一度はおいで、的な?」

「何だよそれ。死語?」

「死んでない、生きてるし。ご存命だから」


 智弘と話をしていると、自分がとてつもなく老けているような考えに囚われる。否、実際に二十代の後半なんて大手を振るって「若い」と言える年齢でないことなど十分に自覚している。それでも頭の中身も心の中身も、大学時代から大して成長していない。きっと自分はこのまま無駄に歳を重ねるのだろうという諦観と焦りが胸を刺すのは、只管に降る雪のためだろう。明日香はそう自分を納得させた。


「怪文書作ってさ、どこに送るん」

「隣の個室ビデオ屋だろ。「お前の店の看板にいる、眉毛の太い男のイラストが人を惑わせる」とかさ」

「惑わせるのは確かだね。個室ビデオ屋の象徴的なキャラだし」

「でもあれって、警察が調べたら捕まるのかなぁ」

「わからん。結城が試したら」

「やーだーよっ、捕まったら就職に響く」


 その極めて正常な返答に、明日香は笑った。相手が、怪文書を作るなんて冗談でしか言っていないことが、今の言葉ではっきりしたためである。

 そもそも本気とも思っていないが、かと言ってそれを口にするほど野暮ではないと明日香は考えていた。しかし、こうして明確に言語化されてしまったら終わりである。

 遊びの応酬は終わり、寒々しい風が素足を撫でていく。智弘のほうも、自分の言葉が二人の間にあった「遊び」を終わらせてしまったことに気付いたらしく、煙を吐き出す回数が増えていた。


「くっだらねーの」


 やがて明日香は、男みたいな言葉遣いでそう言った。

 何がくだらないかは言うまでもない。二人とも非常識な遊びに身を投じるには、あまりに現実に生き過ぎていた。子供のように夢と妄想の中に夢中になれるような才能は、はるか前に枯れ果ててしまった。

 こういう事はよくあって、その度に明日香はかつて店にいた同僚たちを思い出す。芸人を目指してると口では言いながら、パチンコで身を滅ぼした男。真実の愛とやらを追い求めてヒモ男のために身売りに走った女。愚かだと笑う一方で、一抹の羨ましさもあった。あんなに無垢に何かに身を投じる人生は、きっと明日香たちには訪れない。


「戻る?」


 智弘がそう訊ねる。明日香は煙草を持った手を少しだけ上にあげた。吸ったら戻る、という意思表示に相手は軽く頷いて階下へと向かう。

 一人残った寒い踊り場で、明日香は先程より不味くなった煙草を、凝りもなく口に咥えた。視界の範囲には誰もいない。車も通らない。誰もいなくなったような真夜中。最早ここには自分すらもいないのだと思いながら、明日香は自分のものでなくなった手で煙草を吸う。

 どうしようもない空虚な気分だが、別に悲しくはない。空っぽな世界に自分の目だけがある。何も無い世界を見て、嗚呼空っぽだなと思うだけだった。

 こんな真夜中でなければ違うのに。何かはわからないが違うのに。誰かに言い訳するように繰り返し、煙草を消費していく。雪が止むか、夜が明けるか、どちらが早いか。智弘と賭けるのもいいかもしれない。

 くだらない思考を雪のように重ねながら、明日香の、明日香ではない時間は夜の静寂しじまに溶けて行った。


END

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