第5話 甲府・銀座
甲府に帰り、暫く何も手につかずボーとして過ごしていた。
親爺や兄弟たちも俺を気遣って何も言わなかった。
早く慣れようと街を歩き回ったり子供の頃慣れ親しんだ野原や川に足を伸ばしてみたりもしたが、中国の戦地での記憶が強烈すぎて故郷となかなかシンクロ出来ないのだ。
実家が豊かではないことは分かっている。
加えて、戦争からの復興がまだまだ進まず景気も悪かった。
『このままではいけない。何かしなければ』
理屈は分かっていた。
しかし何をしたものか見当もつかない。通信兵だったのでモールス信号や無線機の扱いも慣れている。技術を活かして『郵便局にでも勤務するか』そんなことも考えたが求人もない。第一郵便局員の格好をしている自分と仕事がイメージ出来なかった。
そんな時心の中で何かかが沸き上がり始めた。
『このままジメジメしていてもしょうがない。そうだ、東京へ行ってみよう。何かあるかもしれない!』
出征前に勤めていた「玉屋商店」に行ってみることにしたのだ。
甲府駅から列車に乗り込んだ。
12年前故郷を離れる時、いやいやながら乗り込んだ列車なのに不思議に違う。
何年振りかの東京や銀座に心が浮き立っているのだ。
東京に着くと驚いた。
確かにまだ焼け跡は目立つ。しかし街全体が活気づいているのだ。
『でかい街の底力はとてつもない』と思い知らされた。
すぐにでも「玉屋商店」に向かいたかったが、すぐ行くのは勿体ない。
『せっかく生きて日本に帰り、数年振りに東京に戻ったんだ。もう少し周りを見てからにしよう』そう思い日比谷公園に向かうことにした。
日比谷公園は、幸い殆ど変わっていなかった。
懐かしい都会の空気を吸いながら昼飯を摂ることにし、空いたベンチを見つけてそこで昼飯にすることにした。ベンチに持ってきた握り飯の弁当を広げ、『さあ、食べるか』と思った瞬間、黒い影が『サーッ!』と近づきあっと言う間に弁当が包みごとなくなってしまった。
驚いて顔を上げると、薄汚れた粗末な服を着た子供が走り去っていくのが見えた。
「これが浮浪児というものか……」噂では聞いていたが初めて見たのに衝撃を受けた。
俺は腹も立たず、不思議な気持ちで小さな子供の背中が遠ざかっていくのを見詰めていた。
こんなことをしなくても『腹が減っている。弁当を分けてくれ』と言えば全部やったよ。頭くらいは、撫でたかも知れない。
『こんな結末を見るために中国で戦い続けたのか……』
そう思うと、虚しさでポッカリと心に穴を開けられたような気がした。
仕方なく有楽町のガード下の露店で粗末な昼飯をかっ込み「玉屋商店」に向かうこととした。
銀座4丁目の交差点は、日本の警察官と進駐軍のMPが立ち交通整理をしていた。
日本の警察官と比較してMPは格好良く『これじゃ、戦争に負ける訳だ』と妙に納得させられた。
「玉屋商店」に着くと懐かしい仲間と再び会うことが出来た。戦死したとの噂も立っていたらしく皆が驚きと共に歓迎してくれ「とにかく時計の修理が好調で、特殊物を扱える者が少くて困っている。早く帰ってこい」とのことだった。
嬉しかった。『ここには、俺のことを待ってくれる人たちがいる』それだけで心が温かくなるのを感じた。
『待っていてくれる人がいる所に帰るんだ!』
最初に特殊時計の分野に飛び込んだことが生きてきたことを感じ始めた。
『これからの俺は、この分野で生きて行けるかもしれない』まだもやもやしたものだったが、心の中に光が灯り始めた。
後日談だが、その後2~3年してから独立することが出来た。
確かに特殊時計の分野は扱う業者が少なく「船舶時計、航空時計、業務用巡回時計、日銀を始めとする金庫時計、石油を掘るとき使う時計や計器、等」あらゆる特殊な時計や機器が持ち込まれた。競争相手はほぼ皆無に等しく、修理代金も言い値が多く利潤も比較的大きかった。
おかげで結婚をして家族にも囲まれ、30歳で家を建てることも出来た。
15歳の時ウォルサムの副支配人に言われた言葉に今さらながら感謝している。
灯り始めた希望と決意を胸に一端甲府に帰ることにし、列車の硬いシートに座りうつらうつらしていると、ズボンの後ろポケットのあたりがガサガサする。
何のことか分からなかったが暫くしてスリだと理解した。
『これは面白い!』
「玉屋商店」に戻るのに手続きもあり何回か東京と甲府を往復しなければならない。
これは退屈しのぎになる。
家に帰ると早速新聞紙を紙幣の大きさに切り封筒に入れた。列車に乗るとそれを後ろのポケットに入れてわざと見せ、寝た振りをする。後ろのポケットがガサガサとしたら寝返りを打つ。すると手が引っ込む。何回もじらせてから列車が駅に着くころに盗らせてやる。後で見たら「封筒の中は新聞紙」と言う訳だ。
何回か楽しめた。
『小人閑居して不善をなす』というが悪いのは俺じゃない。
甲府を再び出る日、親爺に別れを告げた。
親爺は相変わらず難しそうな顔で「時々は顔を出すんだぞ」とだけ言った。
俺も仕方なさそうに「ああ」と答えた。
甲府駅のプラットホームに見送りは誰もいなかった。
機関車が白い蒸気とともに『ピィーッ!』と抜けるような空に向けて汽笛を鳴らした。
それは、まるで「新しい人生のゲーム」が始まったことを告げるホイッスルのように聞こえた。
15歳で故郷を離れ時計職人の道を歩み、徴兵され中国まで行って来た。
いつの間にか12年の歳月が過ぎていた。
干支で言えば一回りだ。
この12年間が俺の青春だった。
そこで学んだことは「つらいことがあれば必ず明るい未来が待っている」ということだ。
人生は平均の法則。
もう怯えるような悲観や悲壮な決意などはいらない。
明るい何かが俺を待ち受けているに違いない。
きっとそいつは、暖かい笑顔で待ちくたびれているのだろう。
『待っていろ。今行くぞ!もう俺は笹船ではない。この船は俺自身の手で漕ぐんだ!』
根拠のない自信が心に満ち溢れてくるのを感じた。
明日はどんな未来が待っているのだろう。
空は抜けるように青く、霊峰富士は雲のマフラーをたなびかせていた。
人生平均の法則 結城 てつや @ueda1192
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