第4話 中国②

 年も明け昭和17年となった。

 暫く済南で過ごし、作戦に参加することもなかった。

 そして兵隊の生活にも馴れて来た。

 時々、故郷から慰問袋が届く。殆どの者は家族からの手紙や懐かしい故郷の食べ物が入っていた。俺は、戦地に向かう前が前だけに家族からのものは気持ちが良いほど一切なく、開けると入っているのは「今日も戦地でご苦労様です」という町内会からの印刷物程度だった。毎回「どうせ今回も同じだろう」と気にもしなくなったが、来れば開けてしまう。そして「やっぱり」と言って閉じる。その繰り返しだった。

 10月1日には上等兵となった。

 そしてその中旬突然訳の分からない寒気に襲われた。軍医に見てもらうと顔色が変わり10月15日済南の陸軍病院に入院するはめとなった。

 病名は「カラアザール」という砂バエの一種によってもたらされる内臓がやられる熱病だった。

 ちょうどその時は、所属する部隊が帰国する時期と重なり一緒に日本に帰るはずだった。もう2年以上も中国を転戦したので無性に日本に帰りたかったが、病気ではそうもいかない。戦友が皆「すまんな、先に帰るぞ」とか言って帰国していったが人生は分からない。その後部隊は転戦となり、多くはアッツ島に送られ玉砕してしまった。自分も病気にならなければ運命を共にしたかもしれない。

運命の切り替えポイントなんかどこでどう仕掛けられているのか、本当に分からないもんだ。

 病院では、顔馴染みの看護婦も出来。意外にのんびり出来た。顔馴染みと言っても恋ではなく、遠くから手を振るくらいの淡い想い出だ。

 ある日病室に入院している下士官がえらい剣幕でやって来た。その下士官は自分には友好的だった。この辺は要領の良さだ。昔から先輩には受けがいい。でもその時はすごい勢いだった。理由は自分のスリッパが無くなったというのだ。それは同じ病室の奴のところにあった。するとそのスリッパで立てなくなるまで手ひどく引っぱたいた。「酷いことをする」と思った。

 軍隊というと良く制裁が話題となるが、暇な時と命が安全な時に発生する。弾の飛んでくる前線では助け合わなければ死んでしまうのでそんなことはやってられない。やれば恨みを買い、士気も下がり誰も助けてくれなくなる。

 制裁は、暇な時バカで臆病な奴がやるもんだ。

 病院では、傷病兵も沢山見た。前線でとてつもない負傷をした兵だ。見てられなかった。そして多くの死も見ることとなった。ほとんどの兵は苦しみの中で「母ちゃん、母ちゃん」と言いながら死んでいった。誰も「天皇陛下万歳」なんていうやつはいなかったよ。

 年も明け昭和18年6月10日に済南陸軍病院を退院した。約8か月に及ぶ入院生活だった。退院する時軍医が「罹ったのは日本では見られない珍しい病気で、何か又内蔵の病気を引き起こすかも知れない。診察例も少ないので何かあったら『カラアザール』に罹ったことがある」と言うようにと言われた。幸いな事にこの歳まで再発することはなかった。


 暫く待機の後、年も明けた昭和19年4月鄭州及び洛陽方面にて河南作戦に参加した。

 鄭州及び洛陽というのは、済南から見れば南西、南京から見れば北西にあたる。より中国の内陸部に入っていくこととなる。

 ここでは、2回危ない目にあった。

 1回目は電柱に、切れた電線を張りなおす作業だった。時々弾が飛んでくる中で電線の補修をする。生まれつき高所恐怖症で、因みにこれは息子たちも同じだ。長男は建設会社に入ったが橋の建設現場に研修に行き、長男だけが這って渡ったそうだ。次男はデパートだが、売り場の上の方に商品を飾ることがあるらしく脚立以上の高さは成層圏だと言っていた。

 この時は、電柱に脚立や頼りない足場釘を使いながらよじ登って作業をした。しかも時々思い出したように弾が飛んでくる。周りは「気をつけろ!」などと言うが「それならやらせるな」と思った。

 でもまぁ、危ないのが戦争だから仕方がない。


 2回目は弾が頭の上をかすめる中、匍匐前進で橋を渡り通信拠点を確保する命令だった。

 自分ともう一人がご指名となり、兵2名と犬一匹(メスの軍用犬で名前は何故か「太郎」と言う)で渡るはめとなった。これまた生きた心地がしなかった。犬は訓練してあるので匍匐前進でさっさと渡ってしまう。渡り終わると伏せをしながら、こっちを向き「早くおいでよ」と尻尾を振っている。遊んでるつもりだ。こっちは、冷や汗流しながら肘と膝をすりむき匍匐前進し、命からがらやっとの思いで渡った。すると、すり寄ってきてよくやったとばかり顔をなめてきた。情けないやらほっとするやらだった。

 作戦は6月に終了し、8月29日には第6方面軍司令部調査通信班要員として転属のため鄭州を出発した。


 9月15日には漢口には入ることとなった。この地域は総称して武漢三鎮と呼ばれている。「鎮」とは中心部の意味で、3つの地域で構成され武昌は政治、漢口は商業、漢陽は工業の中心地である。

 漢口に到着と同時に湖南省栗橋において湘柱作戦に参加した。湖南省栗橋は南京よりさらに南の内陸部に位置している。もう少し下って海に近づけば香港だ。この作戦は長く、12月31日まで続いた。

 年が明けて昭和20年1月1日からは息をつく間もなく、漢口に在りて南部粤漢打通作戦に参加した。

 粤漢は、栗橋よりもさらに内陸部の南に位置する。

 ここではとんでもなく許せない奴に出会った。

 ある時自分の分隊が田舎の道端で小休止していると、歩兵部隊が隊列を組み行軍してきた。ふと見ると大きな桶みたいなものを何人かで担いでいる。『歩兵さんは大変だなぁ』と思い「オイ、そりゃあ何だい?」と聞いたら「連隊長殿の風呂桶であります」と答えられた。「ええっ! まさか」と思ったが、それから宿営地に着くと夕方、浴衣を着て涼んでるオヤジがいた。どこかの連隊長だった。死ぬか生きるかの戦地で「自分が寛ぐ為の風呂桶を兵に担がせている」心底許せなかった。名前も忘れない。戦後、戦友会でこのことを話したら皆は「週刊誌にでも売ってやれ」と言われたが、「俺が見た」というだけの証拠しかないから諦めた。しかし軍隊というところは、そうした人間の卑しさも見えるところだ。

 2月28日に作戦は終了した。


 3月1日、兵長に昇進し分隊長となった。

 昇進をしたので小銃を取り上げられ、拳銃を持たされることになった。

 理由は、「通信兵は小銃撃たないからこれ持ってろ」ということだった。普通兵は拳銃を持たない。士官が持つ。じゃあ何に使うのかというと「通信兵のところまで敵に攻め込まれればもうおしまい。ゲームセット。その前に機密書類を廃棄してピストルで自決しなさい」とのことだ。有難くもなんともない。

 食生活にもすっかり慣れて来た。とにかく料理が脂っこい。脂っこいの物は日本にいる時から苦手なので、たまに外食すると最初の頃は「油少々(ユ、ショウショウ)」と言って頼んでいたが、乾いた土地柄のせいか次第に油の多い方が身体に合ってくるから不思議だ。

 ある時、野生の牛を発見した。「野良牛だ。皆で食べちまおう」という事になり、10メーター近くまで近寄り、拳銃で撃ってみた。するとまったく当たらない。拳銃なんて片手で撃って当たるもんじゃない。西部劇で馬に跨りながら拳銃を撃ち、悪役に当たり倒れたりするが、あれは余程の奇跡だよ。と言うかまぐれ当たり。本当は、両手でしっかり握って腰を落とし、的の少し左下を狙う。何故なら反動で銃口が右上にはね上げられからだ。それでやっと当たるかどうかだ。

 牛は、戦友が小銃を持ってきて仕留めた。軍隊とは面白いもので色々な経歴の奴が集まって来る。その中に牛の解体をやった奴がいて「解体は任せろ」と言う。そいつは牛の後ろ脚を縛り木を利用して逆さづりにすると頸動脈を切り、上手に血液を抜いて解体した。こうすると肉が傷まず鮮度を保てるそうだ。皆で分け合い沢山食べた記憶はあるが、どう料理をしたのかは覚えていない。

 そして昇進日と同時に漢口及び衡陽に於いて湘西作戦に参加し、6月10日に終了した。

 8月2日には第20軍司令部調査通信班基幹要員として配属され長沙にて勤務を命ぜられた。主に本国との通信や全体の統括を行う部門だ。

 長沙は武漢よりやや南の内陸部に位置する。緯度では台湾よりやや北ぐらいだ。

 ある時、急に通信量が増えてきた。

「戦局に何かあったのか」と思ったら終戦となった。


 暫くすると「調査通信というのは、名前からスパイと間違われ、戦犯扱いされるかもしれない」となり、戦争も終わった9月3日急遽電信第5連隊長の指揮下に入り10月10日には電信5連隊に転属を命ぜられ、その中の第5中隊に編入された。

 武装も解除され、全員丸腰となった。

 誰かが「恨みを抱いた敵に襲われたら、どうするのでありますか?」と上官に聞いたら「みんなで大声で喚いて脅せ」と言われた。

「帝国陸軍も落ちたものよ」と皆で愚痴ったものだ。

 戦争も終わったことだし、すぐ復員出来るのかと思ったら「調査通信にいた者は、本部で本国との連絡にあたれ」との命令を受けた。つまり次々と部隊が復員するので本国に「〇月〇日〇時、第○○連隊出発。〇日上海を出港、敦賀〇日〇時入港予定」と打電するのである。

 ふと嫌な予感がして「我々の復員予定は誰が打電するのでしょうか?」と聞いたら、「良い質問だ。我々である」との回答だった。

 実に明快でわかりやすかった。すべての引き上げが終了したのを見届けた後、一番最後に帰る事となった。通信兵になったお陰で命は長らえたが、帰りは一番最後になってしまった。世の中は、本当不公平にならないように出来ている。

 

 本当かどうか分からないが蒋介石が「仇を報いるに徳をもってせん」と言ったらしい。おかげで捕虜の間も滅茶苦茶な目には会わずに済んだ。

 それは、復員するために港に向かう時も実感させられた。

 昭和21年終戦からほぼ一年が経ち、やっと復員命令が来た。

 夜、隊列を組んで集結地に向かうのだが、その時石を投げつけようとする中国人がいた。すると誰かが「止めろ」と止めるのを何度も見た。中には足元を灯で照らしてくれる老婆もいたりして「お前らも大変だった。無事に国に帰るんだぞ」と言っていた。

 胸が熱くなり「何故こんな戦争をしたのか」と虚しさにおそわれた。

 5月11日内地帰還の為集結し、長沙県橋頭を出発した。

 31日岳州出発、水路にて上海に下航。

 6月3日上海に到着。

 6月16日上海を出港した。

 

 船が日本に近づきいよいよ本土が見えて来た。甲板に出て日本の山や緑を見ながら「帰ってきた」との実感に満たされた時、並走する引き揚げ船から「バキーン」という凄まじい音がした。上陸してから判明したのだが船の甲板が古くなり、多くの兵隊がひと所に集まったので甲板が抜け、下に落ちてしまった。そしてその下にいた何名かの兵隊が命を落としたとのことだった。「ここまで生き抜いてきて、こんなことで命を落とすのか」無常というか、運命というか、やるせのない気持ちに満たされた。

 7月27日佐世保に上陸した。

 上陸と同時に伍長に昇進し、同日復員した。

 軍隊もなくなったのに「昇進しても意味はない」と思ったが、戦後に恩給が支給されるかも知れないので少しでも支給額が増えるよう一階級昇進させるそうだ。

 これを俗に「ポツダム昇進」と言うそうだ。

 

 上陸するとアメリカ軍が待ち受けていて「ハバ、ハバ」などと家畜のように追い立てられ、DDTとか言う白い消毒粉を散布されて頭の先からつま先まで真っ白になった。その後何年も無理矢理貯金させられた給料も返還されたが、インフレがひどく殆ど足しにもならなかった。

 佐世保から甲府へ帰る列車の車窓から景色を見たが、焼け野原が目立ち「戦争に負けることは、こういう事か」と思い知らされた。

 甲府に着くとやはり焼け跡が目立ち、昔の風景ではなかった。景色が変わってしまい、思い出しながら家の前まで着くと痩せてしょぼくれた爺さんが七輪で干物らしき物をあぶっていた。

 俺を見つけると驚いたように目を凝らし、それから不思議そうな顔で見つめると「亮作けぇ……」と一言だけ呟いた。

 親爺だった。

 夜は戦地での苦労を労い、貴重な卵かけご飯を食わせてくれた。

 しかしそれまで碌なものを食べていなかったので、その夜は急激な胃痛に襲われ七転八倒の苦しみだった。

 その間、親爺はずっと背中を擦ってくれていた。

 今まで親爺に抱いていた気持ちがとけていくのを感じた。

 昭和15年12月1日に甲府をたってから足掛け7年。

 正味5年9カ月に及ぶ「中国転戦の旅」の終わりだった。

 そして、いつの間にか俺は26歳になっていた。

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