第3話 中国①
昭和15年12月1日、日曜日、先勝。
電信第10連隊第5中隊現役兵要員として広島に集合し、即日入営した。
いよいよ帝国陸軍二等兵としてスタートすることとなったのだ。
入営すると早速新兵は全員集合し、連隊長か誰か忘れたがとにかく偉い人の訓示を受けることとなった。話の中身は全く記憶に残ってないが勇ましい口調で「お前らは消耗品だ」と言われたのだけは覚えている。これには「えらい所に来た」とビックリした。
時計は様々な部品で構成されている。そしてその部品には意味がある。一つでもなければ時計は正しい時を刻めない。この偉い奴は俺たちのことを部品でもない「消耗品」だという。「消耗品」というのは、時計で言えばオイルや磨き布だ。無くなるか散々使用して使えなくなれば捨てるものだ。
故郷を出て銀座に着いた時も驚いたが、驚くことは世の中まだまだあることを理解させられた。
故郷を出た時に続く第二の荒波を前にして「今度はこの身に何が起きるやら」と暗澹たる気分にさせられた。
その日からは毎日怒鳴られ、右往左往して日も経たない内の4日、水曜日、宇品を出港することになった。
出港するというのは、どこかへ行くという事だ。
少なくとも瀬戸内海、遊覧船の旅ではなさそうだ。
知らされたのは、太沽(ターク―)に上陸し済南に向かうという事だった。前触れもなしにいきなり海外、それも日中戦争に投入だ。
太沽(ターク―)は北京からやや南の天津にあり渤海に面している。そこには嘗て砲台があったが義和団の乱の際に列強連合軍に占領され、撤去されることとなった。清国が滅亡へ向かう記念碑みたいな所だ。
先ずそこに上陸し、さらに下って済南に向かうとのことだった。戦闘の危険は少ない。天津や済南はとっくに日本軍が制圧しており、そこで訓練の後作戦に向かうそうだ。
6日には太沽(ターク―)に上陸した。そこで積み荷を整えて済南へと向かう。
済南に向かうには船で渤海を南下し黄河を遡る。初めて黄河を見た時は大きすぎてとても河とは思えなかった。船が海からいきなり河に入っていくのにも驚かされた。黄河に比べたら甲府の川など春の小川だ。
河口には海軍の駆逐艦も停泊していた。
12日、済南に着隊した。
そこで初めて新兵としての訓練を受ける事となった。
一応軍服は身に着けているがほんの2週間前までは時計屋だ。
小銃の撃ち方から通信機の扱い、それどころか通信の「あいうえお」であるモールス信号すら知らない。
先ずは内務班とやらに分けられ軍隊の基礎から叩きこまれた。
最初は、細かな生活の規則から始まる。
数え上げればキリがないが、部屋を離れトイレに行く時にも「〇〇二等兵厠へ行ってまいります!」と報告を義務付けられる。そして布団のたたみ方も雑だと怒鳴られやり直しをさせられる。酷い時は連帯責任で新兵全員殴られたりもする。実に「阿保くさい」と思ったがよく考えてみると軍隊は、弾丸等危険物だらけで扱い方を間違うと死を招く。そしてすぐ反撃できなければ自分だけでなく仲間も危険にさらされる。規則正しさを身に着け、人と物の所在を常に明らかにしておくことは身を守る上でとても大切なことなのだ。
軍隊の経験は二度としたくないが、この癖は、戦後も仕事で役にたったのは事実だ。
軍隊は、鉄砲を撃つのが仕事なので小銃の訓練も受けた。
立ったり伏せたりしながら小銃を撃ち、その後バラして整備をしながら基本を習得する。
野外で行軍演習を行い。上官の命令で匍匐前進をしたり突撃訓練をしながら射撃訓練をしたこともある。
日本軍は金のない軍隊なので本当にけち臭く、弾を撃った後の薬きょうは持ち帰ることになっていた。訓練終了後は、薬きょうの数を合わせるのだ。10発携行し6発撃てば実弾の残りは4発となる。それを合わせるのだ。毎回弾の棚卸だ。
ある時、誰かの薬きょうが一つ足りなかったので皆で演習をした野原を探すことになった。
殆どイジメの世界だ。広い野外で「見つかるはずがない」と思ったがなんと見つかった。意外とあきらめてはいけないもんだ。尤もそれがそいつの物か、以前に誰かが落とした物かは不明だ。
通信機の扱いも訓練を受けた。
本部用のでかい通信機もあるが大半は携行用の94式5号無線機だ。送信機と受信機に分かれていて大きさはどちらもほぼ同じで横20cm、縦14cm、高さ12cm、重量3キロ程度。通信は、モールス信号からマイクまで使える。電波の届く範囲は10~15キロ程度。運用にあたっては、送信機と受信機に発電機を各1名が担ぎ、4~5名がアンテナなどの部品を担ぐ。そして主としてに2名が運用する。従って10~12名の分隊が基本となり、それが歩兵の小隊や中隊に同行することとなる。
無線のモールス記号は比較的よくおぼえられた。
語呂で覚えるのだ。「あ」は「ツ― ツ― ト ツ― ツ―」だが「あーゆーとこーゆー」と覚える。こういうのは得意だった。
要領の悪い奴がいて、巻き添えを食って制裁を受けるのはたまらなかった。
訓練にも慣れ、しばらくして上官の執務室を掃除していた。
外では歩兵が訓練をしていた。通信兵は、戦闘の前面に出ないし技術職的な側面があり。歩兵ほど規律が厳しくなく歩兵から一線を引くどこかひねくれたところもあった。
自分自身にもそんな風土が合っていた。
その時上官がブラインド越しに歩兵の訓練を見ながら「おい、お前バカになれるか」と聞いて来た。その時は良く分からなかったが、その大学上がりのやる気のなさそうな少尉は、歩兵の訓練を見て自嘲的に言ったのだろう。
年も明けた昭和16年3月、済南において芝罘(チーフー)作戦に参加することとなった。
初めての実戦参加に緊張が走った。
芝罘は三東半島の先っぽにあり済南に行く時とは逆に黄河を下って行く。
俺たちは船団を組みながら黄河をひたすら下って行った。「護衛の船もなしに大丈夫なのかな」と不安がよぎったが二等兵は安全を祈るしか術はない。
乗船して何日目か忘れたが、夜半船で下っている時片側の川岸から猛烈な銃撃を受けた。良い期待は裏切られるが悪い予感は当たるもんだ。物凄い銃撃音と共に曳光弾が光りながらこちらに迫って来る。全ての弾が全部自分に向かって来るように思えた。上官の命令で全員が甲板に伏せ、小銃を構えて応戦した。懸命に小銃を撃ったが何発撃ったかも覚えていない。とにかく生きた心地がしなかった。入隊して半年も経たないうちにいきなり戦闘の洗礼を受けることとなった。
芝罘作戦は意外に早く終わり4月には済南に再び戻った。
そしてよく分からないが5月には、一等兵となった。
まぁ、やることは変わらない。
その後5月には、河南省濮陽方面において開封方面作戦に参加し5月末に終了。
9月には山東省東昌方面において東昌方面作戦に参加し10月に終了した。
行軍は命がけだった。
当時の日本軍は国民党軍に比べれば武装も強力で戦力的には優位だったが、いかんせん中国は広い。拠点は押さえていても途中の街道、いわゆる線が押さえ切れていない。その道のいたるところで国民党のゲリラが待ち伏せをしている。こちらが隊列を組んでいれば手出しができないがそこから離れたら危険だ。
腹を壊したりして道から外れトイレなどをしているうちに隊から離れてしまうとそこを襲われる。
だから生水は絶対に飲んではいけない。必ず沸かして飲む。中にはそそっかしい奴もいて喉の渇きに抗しきれず冷めないうちに飲み舌をやけどした奴がいた。.
戦闘となると通信兵はたいがい一番隊の後方に控える。何故なら通信をやられると本隊に援軍を頼むことも何も出来なくなるからだ。
だから少しでもヤバくなると逃げる。逃げてばかりいた。おかげで命を危険にさらすことは少なかった。
だから小銃を撃ったのは黄河で応戦した時だけで後は一回もない。
そしてある日、「アメリカとの戦争になった」との打電が入った。
「エライことになった。大丈夫か」と思った。
時計を扱っていたから分かったが、当時外国と国産の時計では技術的に大変な開きがあった。加えて当時の通信機は大きい物も多く、トラックで運ぶが国産のトラックは故障ばかりする。一方GMやフォードのトラックはビクともしなかった。「これでは戦争にならないのではないか」と懸念した。
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