第2話 銀座

 銀座の街に着いた。

 銀座は、はっきり言って「外国」だった。

 俺も地方都市とは言え県庁所在地の中心部で育ったのである。

 一応は、シティー派を自認していたのだが、そんなものは銀座の街を見た瞬間に蒸発した。

 中心部の交差点には和光の時計台があり、開店して間のない三越や老舗の松屋などの巨大店が軒を並べ、街行く人は皆お洒落でお大尽に見えた。

 不安など抱く前にカルチャーショックで眼が点になったり野球ボールくらいの大きさになったりしているうちに、大きな店の前に立っていた。

 店の屋号は「玉屋商店」と書かれていた。

 精工舎で有名な服部一族の経営する時計と精密機器を商う名門の商店である。

 日露戦争の際、軍艦三笠の士官が最初にバルチック艦隊を発見した双眼鏡もこの店で販売された物である。


 着いて挨拶もそこそこに奉公人の定番である角帯を締めてのデビューとなった。これには抵抗感があった。甲府にいる時は曲がりなりにもオーナーの息子である。そんな格好はしたことがなかった。しかも意外に様になってしまうのがシャクに触った。

「人間は環境の動物である」と偉い学者が言っていたが、まさにその通りで気持ちも自然と慣れてしまった。

 店に寝泊まりし、新しい生活が始まった。

 朝から仕事をし、夕食後は時計の勉強をする。と、言えばハードに聞こえるが何となく時計をいじっていれば「よし」とされる意外にいい加減でのんびりしたものだった。

 決して楽ではなかったが誰もが「おしん」や「女工哀史」のような世界で暮らしていた訳ではなかった。


 暫くすると時計の構造にも慣れてきたので店頭の販売にも出るようになった。

 接客は嫌いではなかったし、覚えたばかりの半端な知識を織り交ぜながらお客と話すのは楽しかった。そして、いつしか顔見知りのお得意様も出来て来た。

 その中にウォルサムの副支配人をしている如何にも紳士然とした人がいた。その人が「君は店頭にいるだけじゃそこまでだよ。これからは技術の時代だ。君は特殊物を覚えなさい」と熱心に勧めてくれた。その人も丁稚から副支配人まで叩ぎあげて来た人で、その生き方が俺と重なって見えたようだ。

 程なくして配属となり、各専門分野に分かれることとなった。

 一応希望を聞かれるが、自分としては本当は腕時計や置き時計など花形部門に行きたかった。子供の頃、紳士がまぶしそうに懐中時計をスーツのベストから取り出す様は憧れだったからだ。

 しかしウォルサムの副支配人の言葉が妙にすんなり入ってきて、結局軍や業務用を扱う特殊時計の分野を希望して踏み込む事となった。希望する者も少なく人気のない部門で疑問も残ったが、この分野に一歩踏み入れたことが後の自分を支える大きな力になるとは当時は思いもしなかった。

 特殊部門の時計や計器は、機種も様々で初めて見る物ばかりだった。当時は、日本語で書かれた特殊物の解説書などはなく、自分で試行錯誤しながら手探りで修理をするしかなかった。たまに外国語で書かれたそれらしい解説があると学歴のある人の所へ行っては翻訳して教えてもらった。その度に「大学を出た人は大したものだなぁ。学問の力は凄い」と思い知らされた。

 慣れてくると先輩社員と一緒に現場へ出向き修理をした。段々要領を飲込んできたので一人で行くことも珍しくなかった。技術も人間関係も飲込みは早かった。とはいえ毎日軍や企業へ出向き、直立不動で「玉屋商店、時計の修理にまいりました」と言っては、オイルの匂いのする部屋の片隅でドライバーやペンチと格闘する潤いのない現場ばかりだった。

 だから店に帰ってきて一般時計部門の同僚と話すと、「今日はお得意様の屋敷に行き、修理が終わると蕎麦や茶菓子が出てきて大そう旨かった」などと自慢話を聞かされ、正直面白くなかった。

 僅かな回数だがピンチヒッターが回ってきてお金持ちの屋敷に出張修理に出かけたことがあった。出張修理が終わるとそこの奥さんが「そば」の出前を取ってくれた。

「お、これか!」と嬉しかった。そばを食べ終わるとお茶を出してくれ「生れは何処だ?」と聞かれた。「甲州」だと答えると「甲州の人は、お金を儲けるのが上手だからお金持ちになるわよ」と励ましてくれた。励まされた経験は殆どがなかったので、妙に記憶に残っている。


 休みの日には決まって大久保に出かけた。別に風俗があった訳ではない。当時の大久保は陸軍病院や陸軍の連隊があり閑静な街だった。そこに親戚の叔母さんがいたのである。俺たち親戚は、「連隊の叔母さん」と言って慕っていた。そこへ行っては、故郷の話をしたり店の話をしたりしてはご馳走になって帰るのである。お袋から離れてしまった寂しさをそこで満たしていたのかも知れない。

 「連隊の叔母さん」には戦後結婚してからもお世話になった。女房が盲腸炎で入院し、そこへ持ってきて子供たち二人が麻疹になってしまった。個人商店なので仕事を休む訳にもいかず二進も三進もいかなくなってしまった。その時も気持ちよく駆け付け、毎日の食事から洗濯まで何かと世話をやいてくれた。

「連隊の叔母さん」の優しさと笑顔を思い出す度に自然と感謝の気持ちと共に涙が出てきてしまう。


 そんなことを繰り返しているうちに数年がたった。仕事にも慣れイッパシの銀座人になってきた。初めて来たときは、大人しいので「ねこ」と呼ばれていたが未成年ながら酒も覚え「小虎」くらいにはなってきた。店が終わっては街に繰り出し馴染みの店に行き一杯やる。話も上手になり結構人気もあって顔が利く店も増えてきた。

「早くお金を貯めてお袋をお伊勢参りに連れてってやるんだ」大切な心の支えであったはずの小さな誓いすら、いつしか忘れてしまっていた。

 その時、甲府から連絡が来た。

 お袋が危篤という。

 取るものも取り合えず甲府へと向かった。

 人が亡くなるのは、儚くもあっけないものだった。

 しかし悔いだけが残った。

「誓いを果たさないうちに、何でお袋が亡くなってしまったのか? 親爺が虐めたからだ…‥」自らへと向かうべき悔いは、憎しみとなって親爺へと向かっていった。

 亡くなって葬式も終わった翌日、親爺が「千代、千代」と呼びながら隣の部屋に入って行くのが聞こえた。襖を開けると「ああ、そうか……」と一言だけ呟いた。

「何言ってやがる」と思ったが滑稽さよりも哀れさが先に立った。

 口減らしで一人故郷から東京へ出された。

 お袋だけが故郷と自分を結ぶ紐帯だった。

 お袋のいない故郷にもう未練はなかった。

「これからの俺は、銀座の人間として生きる。銀座こそ故郷だ」

 列車がプラットホームを離れる時、心の甲府に固く封印をした。


 銀座に戻れば又、同じ日常の繰り返しだ。

 仕事をしては飲み、ヘロヘロになって帰ってきては翌日仕事をし、又飲みに出かける。お袋を亡くしてからは、何かが落ちたようになり酒量が増えた。時には飲みすぎ荒れ、嘔吐する事すらあった。夜中俺が帰ってくると周りの奴が布団をもって逃げていった。 

 日中戦争も泥沼化し、経済は次第に疲弊していった。ビールや酒も統制品となり店で出す量も規制がかかってきたが、とにかく顔が利くのでどこのカフェや飲み屋に行っても女給がそっと持ってきてくれた。

 ある時甲府から店の番頭が仕事ついでに尋ねてきたことがあった。そいつを夕方から引き連れ散々にハシゴ酒を食らわせヘロヘロにしたことがある。どの店に行っても愛想良く女給が統制品のビールや酒を俺に運んで来るので、びっくり仰天し「亮さんは、銀座の顔だ」と親爺に報告をしたそうだ。

 顔と言っても未成年のチンピラだ。

 親爺はそれを聞いて「あのバカが」と一言だけ言ったそうだ。


 そんな日常を繰り返しているうちに俺にも来るものが来た。

 徴兵検査である。

 結果は見事な「乙種合格」しかも「第二乙種」だ。

 通常は徴兵されない。

「ヤッタ!」これで兵隊に行かないで済む。不摂生バンザイ。毎日身体を壊すほど飲んだ甲斐があるというものだ。

「継続は力なり」

 密かにここまで鍛えた上げた不健康な身体に祝杯を上げた。そして維持するためにも今まで通りの生活を繰り返すこととした。

 しかし、ある日どうしたことか「召集令状」が来た。

 何かの間違いだと思ったが本物だった。

 後で分かったことだが当時の陸軍には通信兵が不足していて、時計屋もエンジニアに分類されるらしく「時計屋なら何とかなるだろう」と呼ばれたらしい。

 これで命がかかっちゃうんだから、いい加減なもんでたまったもんじゃない。


 入隊まで暫く間、再び甲府に戻ることとなった。

「どうせ死ぬかもしれないんだ」

 家に着くなりヤケになって、東京で稼いだ金で毎日毎日甲府の街を飲み歩いた。

 銀座で揉まれ、衣服も物腰もあか抜けて来たので甲府の山出し女には良く持てた。

 二十歳の若造が芸者や女給と連日どんちゃん騒ぎをしては夜中家に帰る。 

 親爺はそんな俺を見かねて怒鳴りつけた。

 その頃の俺は「お袋の命を縮めたのは親爺だ」と固く信じていたから返す言葉も容赦なかった。東京の社会人生活で覚えた最悪の言葉で抉るように叩き返した。出征前のしみじみとした親子の会話などと無縁な、毎日が凄まじい怒鳴り合いだった。いや、むしろ罵り合いだった。

 末っ子の広二はそんな俺を夜中に僅かに開いた襖の間から見て「これが噂の亮作兄貴か、すっげぇーおっかない人だ」と思ったそうだ。

 それがトラウマとなったのか、広二は今でも俺の話に良く耳を傾けてくれる。

 戦後は自宅へも良く遊びに来てくれて子供たちも懐き、霊園も一緒にしてあの世でも付き合うこととなった。墓も近いから足さえあればすぐ会える距離だ。


 出征の日は、甲府駅のプラットホームに芸者と女給の花が咲いた。

 勿論、俺の見送りだ。

 親爺も来た。

『ピィー!』という列車の汽笛が空気を切り裂いた。

 それは、情けなど差し挟む余地がないほど時間が迫ったことを知らせていた。

 それを合図の様に親爺が俺に近づいて来て車窓越しにこう言った。

「亮作、何も日本に帰ってこなくてもいいからな」

 そう一言、言い終えるとプイッと踵を返し、肩をそびやかしてとっとと帰ってしまった。

 コリャ、俺も驚いたよ。











 




 

 












 

 

 

 

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