人生平均の法則

結城 てつや

第1話 甲府

 俺の名前は上田亮作。

 平成14年(2002年)2月で82歳になった。

 今日はとても穏やかな日だ。

 朝食を済ませ軽い仕事をした後の、こうしたのんびりした時間が好きだ。

 仕事場にある本棚には孫娘が中学生の夏休みの自由研究で作った「80歳現役」という、時計職人の俺をテーマにしたレポートが飾ってある。

 書道を習ったおかげか、割としっかりとした文字で写真を取り込みながら構成されている。

 少しこそばゆいが嬉しいものだ。

 孫にこんなことまで書いてもらえるとは運の良い生涯だ。

 とは言いながらも引き時も肝心だ。

 身体もしんどくなってきたので、「今年あたりで仕事もそろそろ幕引きにしようか」と考えてもいる。

 生まれついてからタフな方ではないので、よくこの歳まで生きてきたものだと感心もしている。

 他人は俺の生き方に対して様々な事を言う。

 しかし気にすることはない。

 この歳まで全身全霊の要領と追い詰められた時だけ発揮する努力を積み重ねてくれば『毀誉褒貶は人の世の常』むしろ名誉なくらいだ。


 付き合いも多いので「いい奴」との別れもあったし、「いやな奴」とのオサラバもあった。

「いい奴」との別れは辛く、最初の頃は結構応えたが重ねるうちに少しずつ慣れてしまった。

「いやな奴」との別れは、最初の頃は『ザマーミロ』と思ったが、重ねているうちにどうでも良くなった。

 不思議なもので気持ちが段々平に均されていく。

 俺はゴルフはやらないが「平均の法則」というものがあるそうだ。普段スコア100の人がたまたまハーフを45で上がったとする。「もしかして100を切るかもしれない」と期待をするが、ちゃんと次のハーフで55を叩き。終わったら100ということが多く、これを「平均の法則」と呼ぶらしい。

 人生も同じかもしれない。「良いこと」もあれば「悪いことも」ある。足して2で割れば半分ずつの「平均」になってしまう。 

 南向きの仕事場に差し込んでくる穏やかな春の陽ざしを浴びながらついそんなことを考えてしまった。

 今日は、差し迫った仕事もない。せっかくの時間だ。思い出すままに昔の想い出に浸ってみよう。


 俺は大正9年2月13日金曜日、大安の日に山梨県甲府市八日町の地に生を受けた。

 その日の甲府は冬の空が抜けるように青く、盆地を囲むアルプスの稜線はくっきりと浮き立ち、霊峰富士は雪の頂上に風を受けて雲のマフラーをたなびかせていた。

 山の良く見える日は風が強い。街にはホコリがたち、待ちゆく人は挨拶もそこそこに風を避けるかの様に先を急ぐ。

 産室の窓通してそんな音が聞こえてくる日に8人目の子供として産まれたんだ。

 親爺の名前は「定造」お袋は「千代」と言う。

 兄弟は多い。10人もいる。もっとも俺より上の二人は夭逝してしまったんで実態は8人だ。

 位置取りによって「兄」がいて、「弟」がいて、「姉」がいて、「妹」がいることになる。

 順列組み合わせだ。

 「兄弟」「兄妹」「姉妹」「姉弟」好きなのを選んでくれ。

 それにしてもよく産んだものだ。

 それが証拠に一番下の弟と一番上の甥の年齢差は5歳くらいしかない。

 お袋もさぞかし忙しかったろう。

 今の感覚で言えば2人は「まぁ、常識レベル」。3人~4人となると「多いねぇ」。5~6人となると「お産の誘発剤でも飲んだの」。10前後だと「世間とは異なる主義主張や宗教でもあるの?」となる。

 理屈はともかく産んじまった。

 俺の原体験はここがスタートだった。

 兄弟の多さは、愛情の取り合いだ。

 兄弟皆が、お袋の愛情を欲しがっている。母鳥の帰り待つ雛鳥のようなものだ。皆がひしめき合い口をあけて「愛」という餌を受け取ろうとしている。

 しかし豊かではなく、分け与えられる愛情は一人しかもっていない。多すぎて見切れないのだ。

 だから俺は風邪を引いた日が嬉しかった。

 その時だけお袋の愛情を独占できる。

 風邪をひくと決まって支那そばを取ってくれた。こんな旨いものはなかった。俺だけの為に運んでくれて、優しい言葉をかけてくれる。

 風邪をひくと嬉しくて「いつ支那そばと一緒に持ってきて来てくれるのか」とドキドキしたものだ。


 お袋はいつも優しかったが親爺はちょっと違っていた。

 何と表現したらいいのか、一風変わっていたというか珍しい男だった。

 世間では、甲府の3奇人という称号で呼ばれていた。

 3人のうち一人は忘れたが、もう一人は向かいの襖屋だった。

 そいつは大東亜戦争の真最中、襖に骸骨の絵を描き「日の丸弁当は栄養失調のもと、いかなる美人も一皮剥けばこれこの通り」と一文を添えて店の前に掲げてしまった。

 本人としては看板代わりだったらしく、絵心もあり近所でも「なかなか上手だ」と、ことのほか評判だったそうだが翌日憲兵にしょっ引かれてしまった。

 この辺は愛嬌もあって微笑ましいが、親爺の場合はかなり違っていた。

 親爺は、甲府市の中心部である八日町で家具屋を営んでいた。

 規模もそこそこで使用人も何人かいた。

 本来なら上に立つ者として人格的に鷹揚になりそうなものだが、その性格は良く言えば「唯我独尊」悪く言えば「チョー自己中」

「変人」というよりは、やはり「偏屈」と言った方が当たっている。

 例えば、使用済み葉書の裏を墨で塗りつぶして真っ黒にしてしまう。そこに鉛筆で書き光に当てるとそこだけが違う反射して読める。それを利用してメモ代わりにするというのだ。

 とにかく判断の基準は自分の利益になるかどうかなので、自分の得にならないことには全く無関心でぞんざいだ。

 例えば人に道を聞かれた時などは教えても何の得にもならないから、顎で行先を指して「あっち」と取り付く島もない。

 プライドが高いのか、その裏返しとして被害妄想も強かった。

 ほんの僅かだが父兄会の会費が合わないことがあった。そこで担任の先生が親爺に「何か心当たりはないでしょうか?」と何気に聞いたのを自分が疑われたと思い込んでしまった。そこで家にとって帰り、家中をひっくり返して領収書を探し出し、学校に怒鳴り込んできた。

 その時は、授業中にも拘らず学校の事務員が教室に駆け込んできて「先生大変です……」と親爺の名字を叫んでいた。そりゃ大騒ぎだったよ。俺は「やっちまった。早くやめてくれ」と教室の隅で小さくなっていた。

 親爺の本当の姿は、真面目だから周りを見る余裕がなく、気が強い分偏屈で、プライドが高いゆえに謙虚になれない、そして野心が強いから気持ちが優先してしまう。そんな極端な自己矛盾を内に抱いた男だった。


 そんな親爺の野心に火がついた時があった。

 俺が生れた頃は、第一次大戦による好景気が終わり長い不況の入り口に立っていた時だった。それでもまだ世間は大正バブルの夢を捨てきれず、その後にやってくる不況という台風も知らずに、防波堤の内側で「また好景気がやってくるのでは」という期待感のさざ波と戯れているようなもんだった。

 そこで親爺は良く調べもせずに拡大投資に撃って出てしまった。

 甲府は伝統産業として養蚕が盛んで、地の利を生かし生糸の工場を設立したのだ。

 富の拡大を信じてやまない親爺は成功したも同然と思い込み、工事現場に俺を連れて行ってはすこぶる上機嫌で膝に乗せ「亮作、お蚕さんの糸を沢山作るんだぞ」と幼い俺に話しかけていたのを覚えている。

 数少ない親爺の優しい記憶のひとつだ。

 しかし世の中、思い通りにはいかない。景気は年を経るごとに下がり続け昭和2年には決定的ともいえる昭和恐慌という真っ黒な波が日本を襲ったのだ。

 親爺の工場はひとたまりもなく飲み込まれ、閉鎖に追いこまれたどころか借金まで抱えてしまった。

 従業員や多数の家族を抱え精神的にも耐えられなくなってしまったのだろう。

 食事の度に癇癪を引き起こし「こんなに子供がいるから俺は大変なんだ」と鬱憤をぶつけていた。

 そんなことを言われてもこちらとしては手の打ちようもなく、お袋や兄弟と一緒にひたすら小さくなって飯をかっ込んでいた。

 実にまずい食事で子供心にも「なんでそんな言い方をするのだろう」と思い、親爺に対して反感が芽生え始めた。


 小さな積み重ねから親爺に対する感情は次第に悪化していったのだが、一度だけ「こいつは凄い」と驚かされたことがあった。

 とにかく不況で店で待っていても売り上げは伸びない。そこで販売チャネルを拡大することにしたのだ。と言えば聞こえが良いが、早い話が昔ながらの行商をすることにしたのだ。

 家具をリアカーに乗せ引っ張って行く。俺も駆り出され後押しの手伝いをさせられた。

 親爺と田舎町に着くと道路の片隅に家具や小物を置き、露店で商売を始めるのである。

 一通り陳列が終わると親爺が客寄せの口上を述べ始めるのだが「これがあの不愛想な男か」というほど見事で、止まることのない弁舌が流れる様に繰り出される。そしてその目は、ワープしたように別の世界にいっちゃってた。

 すると魔法の様に人が集まり、並べた商品が見事に捌けていった。

 俺も息子たちも喋ると似たような所があり、妙なところで血を感じるがやっぱりDNAってあるんだよ。

 そんな努力もしたのだが、その程度では家計は一向に好転しなかった。世界規模の不況の前では、極東の小さな島国のそのまた田舎の商店主の努力などまさに蟷螂の斧だった。

 資産売却、事業規模縮小となれば、いずれの時代も待っているのはリストラだ。

 先ず人員を整理することとなった。

 その対象となったのは後にも先にも俺だけだった。


 東京に働きに出ることとなったのだ。

 高等小学校を卒業した15歳の春だった。

 働きに出るのは決まったが、職種を何にするのかが問題だった。

 順序が違うような気がするが、口減らしが本来の目的なので仕方がない。

 親爺は「これからは自動車の時代だ。その関係が良いのでは」と考えた。この辺は時代を見る目がある。しかしながら残念なことにそのツテが見つからず東京の大久保にいる叔母の連れ合いが探してきた時計屋に行くことになった。


 いよいよ東京に旅立つ日は、心細くて無理矢理引き剝がされて行くような気分だった。

「早くお金を貯めてお袋をお伊勢参りに連れていってやるんだ」その小さな誓いだけが背中を押してくれる力だった。

 後で聞いた話だがお袋は俺が東京へ行く前も行ってからも「亮作が可哀そうだ」と言っていたそうだ。それを聞いた時本当に嬉しかったし救われた気がした。

 旅立ちの日、駅のプラットホームに着くと巨大な蒸気機関車が『シューン』という音と共に蒸気を吐き出していた。憧れの乗り物であるはずなのに、人をさらっていく獰猛な野獣の様に見えた。案内をしてくれる知り合いと共にその腹の中に乗り込んだ。人生の新たな旅立ちなのに気持ちはちっとも晴れない。

 そして「ピーッ!」という空気を引き裂くような汽笛と共に列車はゆっくりとホームから離れていった。それはまるで人情などを受け付けない巨大な力があって、それが無理矢理に故郷から引き剥がしていく。

 そんな風に思えた。

 ふと「汽車に酔ったらいやだな」と微かな不安が頭をかすめた。

 そんな場合じゃないのに……。

 車窓から見慣れた景色が流れて行く。

 匂いさえ知っている街角や路地が絶えると遊び馴れた畑や野原が見えてくる。線路脇の電柱がカット割りのようにその景色に区切りをつけていく。遠足の帰り、いたづらに汽車の窓から杖を出しそれが大きな音と共に真っ二つに割れ、友と眼を見合わせたことがあった。そんな想い出も早送りの活動写真のように流れていった。

 夏休みに良く遊んだ川を越えた。「川には寄生虫がいるから遊ぶなよ」と良く言われたっけ。

 川の風景はいつもと変わらないのに自分だけが川に浮かぶ笹船の様に思えた。

 世間という海に押し流され、生きていけるのだろうか。

「立派な船にならなくてもいい。沈まないように……」

 そう思ったんだ。

 














 









 

 

 

 








 

  

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