死に至る意志

藤野 悠人

死に至る意志

「僕は死にたいんだ。もう死のうと思う」


 本を読んでいるその人に、僕はそう言った。僕たちは図書館にいた。閉館時間の迫る図書館には僕たち以外、誰もいなかった。


「そうか、死にたいのか」


 20年来の付き合いになるその人は、本から目を離すことなくそう言った。しかし、ほとんど読んでいないことは分かっていた。ページが全く進んでいなかったからだ。


「うん、死にたいんだ」


 僕は同じ言葉を繰り返す。


「理由を聞いてもいいかな」


 その人が質問してきた。相変わらず、視線は本に落としたままだ。


「生きていることに疲れたから」

「どうして生きていることに疲れたんだい」

「原因が多すぎて、どれが一番大きな原因なのかが分からないんだ」

「そう。まるで散らかった部屋だね」


 その人の言葉はもっともだった。僕の心は、まさに散らかった部屋のようだった。どこに何があって、必要なものをどこに置いたのか、僕自身も分からなくなっていた。


「もうひとつ理由があるんだ」

「なんだい」

「幸せになれる自信がないから」

「それは少し難しい問題だね」


 その人は本を閉じて、ため息をついた。本を読まなければならないという義務から解放されて、ほっとしているように見えた。


「何を読んでいたの」


 僕はその人に尋ねた。


「キルケゴールの『死に至る病』」

「難しい本を読むんだね」


 僕の言葉に、その人は軽くかぶりを振った。


「まったく読んでいないよ。難しくて読む気にならないから、ずっと同じページを眺めていたんだ」


 知っていたけれど、あえて触れないでおいた。その人は僕の方を見ずに続けた。


「それで、幸せになれる自信がないと言ったね」


 僕は頷いた。


「君がそう考える具体的な根拠はあるのかい。見た所、ひとつめの理由よりはありそうだけど」


 付き合いが長いだけあって、その人は僕のことをよく分かっていた。


「僕は、僕自身のために行動したいと思っていたし、実際、少しは行動したんだ。だいたい、最初は上手くいっている気がする。でも、しばらくすると、突然何かに頭を押さえつけられるような感覚がするんだ。そいつは、いつも僕にこう言うんだ。おいおい、どこに行くんだ。なに調子に乗ってるんだ。お前の居場所はここだろう。ここから動くんじゃない、って」

「嫌な奴だね。きっと、ものすごく意地悪なんだろうね」


 その通りだった。僕に囁くその声は、物凄く意地が悪くて知恵も回る。どんな言葉を掛ければ僕が身動きできなくなるのか、よく知っていた。


「でも、他人のために行動しているとき、そいつはすごく弱くなるんだ」

「他人のため?」

「うん。声は聞こえるけど、僕を押さえつける手はすごく弱くなる」

「そういう時、そいつはなんて言うんだい」

「それに関わるな、面倒なことになるぞ、僕になんの得がある……こんな所かな」

「君自身の場合は強くなって、他人の場合は弱くなる。実に非合理的な奴なんだな」


 その人はそう言うと、小さくため息をついた。僕は、その人の言葉の意味が分からなかった。


「なぜ非合理的だと思うの」


 その人は呆れたように答えた。


「人間は本来、自分本位な生き物だよ。一見、他人に良いことをしているように見えても、その本質は自分のためだ。だから、その声とやらは他人と関わるときは、もっと自分が有利になるような助言をしてくれるはずなんだ。ところが、君はまるっきりそうではない」


 そういうものなのだろうか。僕は言葉が出てこなくて、黙ってしまった。


「君はどうして他人のために行動するんだい」


 その人が僕に質問を投げかける。僕はしばらく考えてみた。僕は、どうして他人のために行動するんだろう。


「きっと……自分がそうしてほしかったから」

「誰かに助けてほしかったのかい」

「うん。たぶん、そう」

「それなら、君は本来、何よりも君自身のために行動するべきなんだな。それが自分自身に関わることにしても、他人のことにしても、どちらにしてもだ」


 その人の言葉はもっともだったけれど、僕は賛成できなかった。


「他人のことを、自分自身のために使いたくない」


 その人は不思議そうな目をしたが、鼻を鳴らして頷いた。


「知っているよ。君はそういう人間だ」


 僕たちはしばらく黙っていた。沈黙に耐えられなくなって、僕は次の言葉を探した。慎重に、間違えないように、言葉を探した。


「この世には、幸せになるためのエネルギーがあると思ってるんだ。僕の言葉の意味、伝わるかな」

「なんとなくね。君の中で、それは縁と呼んだり、巡り合わせと呼んだりするんじゃないのかい」


 その人は心得ているとでもいうように、淀みなくそう答えた。まさしく、僕が考えている幸せになるためのエネルギーは、そういう言葉に変換することができるものだった。


「そのエネルギーは自分のためにも、他人のためにも使うことができる。僕は、そのエネルギーには限りがあると思っているんだ」

「難しいことを考えるんだね」


 その人はそう言ったけれど、その人ほどではないと僕は思う。でも、いまは言葉の先を続けることにした。


「僕は、自分自身のためにそのエネルギーを使ったことも、確かにあった。でも、きっと他人にはそれ以上に使ってしまっていた気がするんだ。自分の分がなくなっても、どこからか引っ張ってきたんだと思う」

「まるでオスカー・ワイルドの『幸福な王子』だね」

「そんなに綺麗なものではないと思う」

「そうかな」


 その人はそう言うと、流し目気味に僕の顔を見た。


「君は他人に何を求めたんだい」


 またしても僕は、その人の言葉の意味を掴みあぐねた。僕の様子を見て察したのか、その人は言葉を変えて同じ質問をした。


「他人に、なんの見返りを求めたんだい。例えば……分かりやすいものなら、お金とか、何かしらの関係性を持つとか。他には……ごはんを奢ってもらうとか、何か欲しいものを買ってもらうとか」


 その人の発想自体が、僕には驚きだった。だって、僕には見返りを受け取る理由がなかった。むしろ、そんなものを受け取る資格なんてないと思っていた。


「何も。僕は、何も貰わなかった」

「ほら、やっぱり君は『幸福な王子』じゃないか」


 その人はそう言うと、小さく笑った。


―――


 図書館から出た。太陽はとっくに空から退場して、月が空の主役になっていた。図書館の横に続く道を歩きながら、ふと中を見ると、テーブルの上に一冊の本が置かれていた。それは、キルケゴールの『死に至る病』だった。返却ボックスに戻すことを忘れてしまっていた。でも、司書さんが片付けるだろう。


 図書館を離れて、僕はとぼとぼと歩いた。行き先は決まっていた。

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死に至る意志 藤野 悠人 @sugar_san010

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