潜伏者は血を見る

青キング(Aoking)

潜伏者は血を見る

 真夜中になると俺の意識は覚醒する。

 物音と光が無くなると目覚めることを身体が覚えているようだ。


「起きるか」 


 俺は自分を奮い起こすつもりで呟いた。

 身体をぶつけないように寝返りを打つ。俺が今まで寝ていた場所はひどく狭く真っ暗だ。

 

 それも当たり前だろう。浴室の天井裏だからね。


 さらには自宅の浴室じゃない、見知らぬ女性が棲むマンションの部屋にある浴室。二週間も住み着いていて知ったが、ここに住む女性は佐野菜月という27歳の幼さの残る可愛い顔立ちをしたOLだ。財布に入っていた免許証を見たから間違いない。


「いかん。余計な事考えてる場合じゃなかった」


 わざと呟いて自分の背中を押す。小さい声を出す余裕があるぐらいにぐらいに菜月の行動は把握できている。今頃は一人寂しく寝室で熟睡しているところだろう。もしくは悪い夢に魘されているか。

 彼女は仕事がツライらしく夜遅く帰ってきたときは、夢の中で上司に怒鳴れて業務をこなしているのか大抵ベットで魘されている。


 毎夜、冷蔵庫のあるリビングへ行くために寝室の前を通らなければならない。

 足音を立てないように手探り足探りで進む。今日はぐっすりと寝られているようだ。


 リビングに来ると昼間に見る家具の配置を頭の中に思い起こしながら、照明もつけずにキッチンへ向かう。

 何かに躓くこともなくキッチンにたどり着くと、冷蔵庫を開いて調理要らずで食べられるものを探す。

 一人暮らしだからか冷蔵庫の中身は相変わらず少ない。それでもパインアップル缶が奥に仕舞ってあったのでそれを手に取る。

 冷蔵庫の明かりで賞味期限を確認すると、一か月も日切れしていた。

 奥にまだ魚類やフルーツの缶詰があり、手当たり次第に賞味期限を見てみる。日切れしていないものは無かった。


 菜月はおそらく冷蔵庫の奥に仕舞った缶詰の存在を忘れているんだろう。

 本音を言えば味噌汁とか温かいご飯とか食べたいが、不法侵入である以上贅沢は言えない。他の缶は元の位置に戻して、パインアップル缶だけを缶きりで封を開け、急いで空きっ腹を満たした。


 ぐっすり寝ていたとしても油断は出来ない。菜月と鉢合わせしてしまうのを避けるためにすぐにリビングを退散する。

 缶詰は天井裏まで持ち込み、菜月が留守の昼間にこっそり捨てればいい。

 



 菜月が留守の昼間も近所に露見するのを防ぐために必要最低限の外出しかしない。

 なので家の中でテレビも付けないでぼっーと過ごすことが多い。この時間だけが身体を伸ばせるのでうろ覚えでラジオ体操をする時もある。

 昼食は時々だけ豪華になる。昨夜の菜月の夕食の残りが炊飯器に残っていることがあるからだ。


 目減りしてしまうと違和感を持たれるので、しゃもじで一掬いぐらいしか食べられないがそれでも白米であるだけ豪勢だ。


 空腹にならないようにするため無駄には動かない。

 仮眠を取りつつ、時には菜月の寝室にある漫画でも読んで時間を潰す。

 夕方六時には菜月は帰宅することがあるので、六時前には浴室の天井裏に戻らなければならない。


 六時前まで菜月の寝室で漫画を読み、続きが気になりながらも漫画を元の位置、元の状態に復元させてから潜伏場所に帰ることにした。



 真夜中。物音がしなくなると自然と目が覚める。

 菜月の家に潜伏してから三週間が経過しているはずだ。

 俺の動きも手慣れたもので、耳を研ぎ澄ませながら今夜も浴室の天井裏から這い出て、慎重に浴室を出る。


 寝室の前を通ろうとした時、ふといつもと違うことに脳だけが気が付いた。

 だが、何が違うとはっきりとしたことは分からない。


 脚を止めて廊下の闇を見透かすようにしたところで、違和感の正体に気が付く。

 寝室から微かに橙の光が漏れていた。おそらくベットサイドのライトの光だろう。


 ううっ、うっ――。


 すすり泣きが聞こえた。

 菜月の寝室からだ。

 まだ起きていることに愕然とし、潜伏に気付かれてしまう恐怖に足が竦む。


 ううっ、うっ、うっ――。


 物凄く悲し気な啜り泣きだった。堪えられない心労を涙で無理やり洗い出そうしているかのようだった。

 いや、こんなセンチな比喩を考えていられるほど楽観できない状況だ。


 竦む足をかろうじて動かし、物音を立てぬように神経を尖らせながらゆっくりと浴室へ引き返す。

 だが、こういう危機的状況に限って失敗するもので、闇の中の手探りの手が浴室の戸を強く突いてしまった。

 スッと擦れる音がやけに大きく響く。


 うっ、うっううっ――。


 すすり泣きはまだ聞こえていた。

 泣き声に音が消されたことに安堵して、さらに神経を鋭敏にさせて浴室に入り天井裏に這い登った。

 

 次の日の夜中も寝室からは光が漏れ出ていた。

 しかし啜り泣きは聞こえてこなかった。


 二日も連続で夜に空腹を抱えるのは避けたく、気取られないように忍び足で寝室の前を通ることにした。 

 寝室の前を通りかけたところで、昼間に見た寝室の場景をふと思い出す。


 ベットサイドのテーブルに効き目の強い睡眠導入剤の瓶が置かれていた。昨日まではなかったものだ。

 ここ数日、潜伏し始めたばかりの頃は使われていた炊飯器も使われている様子がなかった。


 薬に頼り、食事も忘れている。


 菜月は明らかに精神が潰れかかけている。俺は確信した。確信したが、だからといって何も手助けできることなどない。

 俺は彼女の家に忍び込んでいる犯罪者だから。


 昨夜の啜り泣きも精神的に潰れそうになっていた彼女の最後の感情の発露だったのかもしれない。

 そう考えたところで、何故か寝室の中が気になった。


 光が漏れ出ているわりに静かすぎた。

 と、思ったところで、ううっと啜り泣きが聞こえてきた。


 脚が動かなくなった。

 むしろ脚が寝室の方を向いたまま立ち去ることを拒絶していた。

 俺の神経は寝室の中にいるであろう菜月に集中していた。

 全神経で彼女が何をしようとしているのかを探り当てようとしている。


 手がドアノブに伸びていた。

 何故か嫌な予感がした。

 ドアをほんの少し開ける。

 隙間から片目だけで寝室の中を覗いた。

 精神状態の健康は人間なら少しドアが開いただけで、鈍感な人でも違和感を抱いたりするものだ。だが寝室にいるはずの菜月は無反応で沈黙していた。


 沈黙していた――?


 さっきまで啜り泣きがしていたはずなのに、こんなすぐに泣き声が聞こえなくなるはずがなかった。

 感情に突き動かされるままにドアを強く開ける。潜伏が発覚する恐怖心よりも菜月が死んでしまう恐怖心の方が勝っていた。

 

 声も物音も聞こえなかった。

 ベットのある方に目を向けると、免許証で見たことある可愛らしい顔の菜月がベットの端に腰掛け、呆然とこちらを見つめていた。


 背中にあっという間に脂汗が広がる。

 彼女の口が恐怖に引き攣るのを予想したが、それよりも先に彼女の瞳の焦点が失われた。


 まるで死相のようになった彼女の顔から目線を外そうとすると、彼女の左手首から赤い液体が流れ伝っているのが目についた。

 外せなかった視線が彼女の左手首に釘付けになる、彼女の左手首にカッターナイフの刃が沈んでいた。


 背中の脂汗が一瞬で冷や汗に変わった気がした。

 焦点を失って顔色がさっきよりも青くなっている。

 手首を切るだけでは死なないと聞いたこともあるが、彼女の顔色から血を失っていることは見て取れた。

 彼女はカッターナイフを左手首に沈みこませたまま身じろぎもしない。


 このままでは死ぬ。


 頭の中で意外にも残っていた理性が訴えかけてきた。

 理性に操作された感情が俺に彼女の右腕を掴ませた。

 力が入り続けているカッターナイフを持つ右腕を強く引き剥がす。

 なおも血は溢れ出ている。動脈まで刃が届いたのかもしれない。

 

 止めなくては。 

 彼女の異常に気が付いた俺が止めなくては。


 自分が侵入者であることを忘れている。自意識で忘れている。

 彼女には死んでほしくなかったから。


 助かってくれ――。


 彼女の深い傷口を手の平で覆った。彼女の生の脈動を直に感じた。

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