エピローグ

第35話

 俺は、立ち枯れた草原の真ん中を、カモフラージュネットをかぶって、ゆっくりと移動していた。戦場特有の空気が、肌に心地よい。


 俺の後ろには、巧みなカモフラージュ技術で、完全に野原と同化した氷室がいる。澄んだ蒼の鋭い瞳が、綺麗で、静かな殺気を放っている。


 灰色の草原は、地平線の向こうで、暗い、鉛色なまりいろの雲と混ざる。まるで、世界が、死に包まれてしまったかのような風景だ。


 狙撃手の戦場に、とてもよく似合う。


 太陽は完全に隠されて、地上は、肌寒い。カモフラージュネットが、防寒着代わりに、ちょうどよかった。


 灰色の草原に、うっすらと降りた霜が、灰色の世界を、冷たくきらめかせる。


 俺らは、鋭い寒さに耐えながら、敵に見つからないように、慎重に移動する。氷室の静けさに、俺の立ててしまったかすかな音が、吸い込まれていく。


 俺らはようやく、狙撃予定地点に到達することができた。


 俺と氷室はうなずき合って、狙撃の準備を始める。


 野原の真ん中での狙撃の場合、銃を安定させるために、銃座代わりにできる物がないので、銃身に、二脚バイポットを取り付ける。


 俺は、できるだけ体を動かさないよう、慎重に作業を行う。観察眼の鋭い兵士は、わずかな動きや違和感も、気付くことがある。


 俺が、狙撃銃を調整している時、突然、肩に、暖かい明るさを感じた。思わず、顔を向ける。


 俺の目に映った、その風景に、俺は、目を見張った。


 鈍色の雲と大地の間に、わずかな切れ目が入って、そこから、輝かんばかりの夕日が、顔をのぞかせている。


 オレンジ色に燃え上がった太陽が、ゆっくりと、大地へと向けて降りてくる。あお空を覆い隠す灰色の雲を、にわかに、染めた。


 草原を凍らせた霜が、オレンジの夕日を反射して、キラキラと輝く。鈍色に沈んでいた世界が、一瞬だけ、明るくなった。


「どうしたの?」


 氷室が、小さな声で聞いてきた。俺は、氷室を一瞥いちべつすると


「ああ。‥‥ああいう夕陽を見ていると、あの日のことを、思い出すな。と思って」


 と、言った。あの日、氷室が敵国を裏切ったからといって、戦況が大きく変わることは、なかった。影の戦争で、我が国が、少しだけ、勝利を上げた。それだけだ。


 だが、敵首都攻撃作戦によって、敵国の受けた打撃は、途轍とてつもなく、大きかった。精鋭の艦隊を失って、首都機能が完全に崩壊して、死ぬはずではなかった優秀な司令官を、失った。


 まあ、それを大きな戦果ととらえることができるのは、軍上層部と政府だけだ。俺ら末端の兵士の仕事は、別に変わらない。


 だが、あの日、水陸両用車の丸窓から見た夕日、戦闘が終わった後の戦場で見える夕日よりも輝く夕日を、俺は知らない。


 恋とは、奇妙な感情だと思う。敵味方など関係ない。俺がいつから氷室のことを好きだったのか。氷室が、いつから俺のことを好きだったのか。それも分からない。


 ただ、そあの後も、俺と氷室の関係が、大きく変わることはなかった。共に背中を預けて戦っている時が、一番、相手の存在を感じることができる。


 氷室を戦死させない。かつては軍に戦う理由を与えられていた俺は、今、氷室を守るために戦っている。


 もっとも、氷室の方がよっぽど強いから、守られてばかりだ。いつか、氷室を守れるように、なりたい。


「そうだね」


 氷室が、戦場とは思えないほど、暖かい声で、返事をした。少しだけ、氷室の顔が赤い気がする。だが、その瞳は、とても澄んでいて、鋭さを失ってはいなかった。


 思わず、魅入られてしまいそうになるが、戦場の風と冷たい外気が、俺の心を、現実に戻す。


 俺は、前を向いて、狙撃銃のスコープを覗いた。この草原の何処かに、必ず居る敵兵の姿を、探す。銃口が、林のような静けさを持ったまま、静かに動く。


 俺は、立ち枯れた灰色の草が広がる、草原の真ん中で、狙撃銃を構えていた。


 俺は、兵士だ。


 俺は、人間だ。


 俺は、深く、深呼吸をした。



 ここは、


 ここは、立ち枯れた灰色の草が広がる、草原の真ん中。

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誰も一人では戦えない 曇空 鈍縒 @sora2021

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