2、早春の壁

 視線の先、階段をあがった先の廊下には、洋装の男が三人並んでいた。外にいた男たちとおなじシャツを着ている。部屋の方を見ていて、雨昏ユーフアンには気づいていない。

 雨昏は音もなく階段へ近づくと、欄干に飛び上がって風のように駆け上がった。手前にいた男が雨昏の存在に気づくが、声をあげる前に首の骨を折られて絶命した。

 残る二人がとっさに剣を構える。近くにいたほうが大きく剣を振りかぶったので、身を低くして懐へ入り込み、顎を手刀で突き上げた。ぶつん、と鈍い音がして口から血が溢れてくる。男は膝から崩れ落ちて、その場に座り込んだまま動かなくなった。

 すぐそばに剣が振り下ろされて、とっさに躱す。動かない男の手から剣を引き抜いた。重い。

 その一瞬の隙を見抜いたように、雨昏に向かって剣が突き出される。とても受け止めきれない。雨昏は倒れ込みながら、その反動で剣を大きく振り上げた。剣先が欄干に食い込む。

「ばかめ!」

 男は大きく踏み込んで雨昏との距離を一気に詰めた。雨昏は突き刺さった剣を支点にして木床を滑ると、男の大きく開いた股のあいだをすり抜ける。背後へと回り、後ろ襟を掴むと膝裏を蹴りつけて、男の首を欄干に刺さったままの剣に押し付けた。

 血が飛び散って階下の花に飛沫が落ちる。いけない、とほんのわずかそちらに気を取られた。

 視界の端に鈍い輝きが差し出される。長刀だとわかるので精一杯だった。

「殺すな、ビン

 低すぎない、男の声だった。

 長刀は雨昏の喉もとでぴたりと動きをとめる。見上げると、顔に大きな傷のある剃髪した男がいまにも噛みつきそうな形相で雨昏を見下ろしていた。この、冰と呼ばれた男だけが洋装ではなかった。

「なるほど噂通りだな。みんな殺しやがった」

 声は部屋の奥から聞こえた。窓辺に見えた人影か。

 雨昏は長刀に構うことなく身を乗り出した。

 そこにいたのは、黒革の眼帯をした亜麻色の髪の男だった。

宵青シウチェン……!」

 駆け出そうとしたところを、冰に押さえつけられる。床に頬を擦り付けながら、雨昏は宵青を睨みつけた。

「どうしておまえがここにいる、ここは虹惟ホンワイの部屋だぞ」

「そうだな。だからおれも虹惟に会いたくてここへ来た」

 宵青はかるく握ったこぶしで、トンと壁を叩いた。壁に貼られた桃色の薄布に浅い皺が寄る。

 虹惟の声が耳によみがえる。

 ——雨昏、ぼくにはおまえだけだよ雨昏。

(ここは花園……。虹惟のための、虹惟を守るための楼閣だ)

「さわるな……」

 雨昏は奥歯をぎりりと噛んだ。床と挟まれているせいか頬が切れて、口のなかには血の味が広がる。

 早春のことだった。虹惟が突然、ここの壁は殺風景でいけないと言い出した。外観は色とりどりで美しいのにね、雨昏もそう思うよねと無邪気に同意を求めてくる。花園にはあまり手を入れないほうがいいと言っていたのは虹惟のほうだったのに、と雨昏は不満に思ったが、城塞に暮らす職人から道具を借り、ハギレや布を貰い受け、漆喰や糊で思うように貼りつけた。石碑まわりに落ちた花びらや、花びらを模した紙吹雪もともに混ぜた。ふたりはあちこちを糊だらけにしながら、灰色一色だった壁を翡翠色や桃色のつぎはぎ仕立てに生まれ変わらせた。

 虹惟は桃色のハギレをいくつも手繰りながら、これは雨昏のいのちの色だねと微笑んだ。雨昏は自分の黒い髪をつまみ、昨夏の日焼けが抜け落ちた白い腕をくるくるとよく見せて、どこがと問う。すると虹惟は光を孕んだ赤銅色の瞳を細めて、雨昏の背をまだ冷える床へ押しつけた。着古してくたくたの長衣のなかへもぐりこむと、臍のまわりに浮き出た銀色の鱗を舌でなぞる。冷たいのでも温かいのでもない虹惟の舌は、くすぐったくて、いとしくて、そうされるといつも雨昏は泣きたくなってしまう。虹惟は雨昏を組み伏せながら、汗ばんだ肌に甘ったるく噛みついて、ほらねと示してみせた。

 そのとき雨昏は心地よく体を揺られながら、虹惟の胸に埋めこまれた石を見つめていた。心臓の場所を思わせる、やや左寄りの胸もとに、淡い翡翠色の輝きがある。肌との境目は引き攣っていて、もとからのようには見えない。それでもその翡翠色の石は虹惟の体に宿っているのがもっとも美しくあるように雨昏には感じられた。

 翡翠色は雨昏にとって虹惟のいのちの色だった。

 宵青が立つ背後の壁には、あの日のまま、早春を閉じ込めた色とりどりの薄布が飾られている。けれど今朝まではなかった模様が雨昏からかすかに残っていた理性を奪った。

 壁には、雨の日に馬車がはねあげる泥のように血が飛び散っていた。

 薄い胸を床に潰されながら、雨昏はめいっぱい息を吸い込んだ。

「虹惟をどこにやった!」

 腰を浮かせて、踵で冰を蹴り上げた。浅い。拘束は解かれない。それでも雨昏は二歩、三歩と宵青へと這い寄った。

「虹惟になにかあったら、おまえを殺す」

「まあ、そうだろうな。言われずとも察してるよ」

「虹惟はどこだ」

「それはおれも知りたい。おれはこの窓のすぐ下から、虹惟とたしかに話したんだ。だがすこし複雑なことになると思ったから花園に上がると告げた。そうして踏み入ったらこれだ」

 宵青はため息をついて続けた。

「雨昏、だったな。心当たりはないか」

「もしあっても、おまえに言うはずないだろ」

「それもそうか。まあいいよ、言いたくなってもらうから」

 冰、と宵青が男の名を呼ぶ。直後、雨昏の後頭部に重い衝撃があった。

 意識がふつりと途切れていくなか、雨昏は、宵青の右目もまた翡翠色をしていることに気がついたのだった。

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うつくしい獣 望月あん @border-sky

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