モノ忘れ探偵とサトリ助手【真夜中】

沖綱真優

真夜中

それは、一週間ほど前のことだった。

給料日に浮かれて安酒を飲み過ぎた晩、倒れるように眠りに落ちた布団の上で、喉の渇きに意識が浮揚する最中の薄闇。

音に、小突かれた。


ごっ、ごっ。


女が戻ってきて玄関を叩いているのかと思った。

この安アパートでしばらく一緒に暮らしていた水商売の女。

若さを失い、男を失い、しな垂れかかる相手を適当に漁った女は、次の相手、俺よりもう少しマトモな男を見つけると、住んでいた痕跡なぞ何一つ残さずキレイさっぱり居なくなった。髪の一本すら残すのは気持ち悪いというように、押し入れの天袋から洗面台の下までキレイさっぱり跡形もなく。

いっそ清々しい——当然その日は記憶もないほど荒れに荒れたが——女が、舞い戻ってきたのかと。


どすん。


身体を起こして立ち上がろうと踏ん張った足がずるり布団で滑り、浮かせた尻が落ちて大仰に鳴る。酔いがまだ冷めていないか、単に年を取ったか。

舌打ちをし、布団から玄関の方に顔を向ける。

六畳一間の安アパートといえど、壁に遮られて玄関ドアは見えない。


ざり、ざり。


近くの音を耳が拾った。音の方に首を動かせば、耳の中でガサリ乾涸びた垢も鳴く。

薄っぺらなカーテンから微かに漏れくる街灯の明かりだけで嫌にハッキリと浮かんだ自分の浅黒い手の先にある爪が、勝手に布団を掘じくっている。

体重を預けていた掌を布団から離して、代わりに尻をじりりと布団に押しつけて、息を潜め耳を澄ます。


音は、初めから無かったように消えていた。





「それから毎晩、真夜中に目が覚める。どないかしてくれ」


正木興信所を訪ねてきた男は、確かに不健康そうに見えた。

顔色は正直なところ、助手の中島健太には判断が付かない。

男の職業は警備員で、屋外で長時間立つ仕事ゆえに浅黒く焼け、シミもシワも四十代前半にしては多かった。

ただ、ショボついた目と、目の下に二重か三重にできた隈をみれば、疲れのほどは伺えた。話ながら拳骨で自分の側頭部を殴るさまなど、正気を失っているかと疑うほどだった。


「奇妙な音、ですか」


初めは『ごっ、ごっ』と叩くような音だけだったが、次第に別な音も混ざるようになったという。


「擦ってんのか、掃いてんのか、しゃっしゃっしゃっしゃっ、気味悪い」


しゃっ、しゃっ、しゃっ、ごっ、ごっ、しゃっ、しゃっ、しゃっ。


規則正しい音に、近所で工事かと考えた。だが、時刻は深夜一時。

水漏れの可能性も含め、翌朝大家を呼び出して確認させたが、違った。


「古いアパートならば、両隣、上の部屋などの物音が響いているのでは?」

「そんなヤツはおらん」

「なぜ?」

「どやしつけてから、二階の若い兄ちゃんは引っ越したし、角部屋やから隣は一部屋、そこの会社員は大人しいエエ奴や」


疲れの色は濃いものの、自然と他者を威嚇する話し方といい片腕を後ろに落としてソファに座るさまといい、カタギには見えない。

男は以前、暴力団員だった。

正木善治郎探偵とは昔の仕事の関係で知り合ったという。


「格安で困りごと何でも引き受ける便利屋、いうて界隈でも知れてるンや。今晩から明日は泊まりの仕事でおらへんからその間に解決しといてや。頼むで」


今はマジメな警備員や、と自己紹介した男——確かに近寄りがたい——権藤晃ごんどうあきらは、言い残して帰っていった。

健太は、見送りに下げた頭を上げるとなしに振り返り、


「アレ、支払い能力ない、というか、解決してもビタ一文支払いませんよ」


塩を撒きましょう、くらいの勢いで言う。

一方の正木は慣れたもので平然としている。


「君のが養われているようで良かったですよ」

「裏の界隈で有名人なんですか?先生……止めといた方が……」


健太は言いつつ応接セットまで戻り、来客用のコーヒーカップとソーサーを手に取った。


「この仕事で関わらないというのは不可能です。事件、事故問わず、彼らが関係している物事は沢山ある。

夜、裏、日の当たらない場所。

一般人、真っ当に生活している人びとには無関係の世界と思われがちですが、高い壁で仕切られているワケでも、明瞭な亀裂が遮ってくれているワケでもありません。

普通の人たちが何かの拍子に迷い込むことも往々にしてあり得る。一旦迷い込めば容易に抜け出せない砂地獄です。

だからこそ、私のような人間が必要とされるのですよ。もし、」


カチャリ。

健太は、正木の視線の先、テーブルの上にカップを再び置いた。正木は遮られた言葉を継がず、立ち上がった。

事務机に戻り、電話を掛ける。

健太はその間に、片付けと掃除を終わらせ、塩を小さく盛り付けたアルミホイルを玄関の両端に置いた。

ガチャリ、二件目の電話を切って、正木は動きだした。


「出掛けましょう。青ひげ同盟ですか……」





「ぼぼぼぼ僕……僕……す、すみません」


権藤の隣人、須山篤実すやまあつみは、いかにも疲れたサラリーマンといった青白い顔の痩せた男だった。

背だけはひょろりと高く、ボサついた髪に、よれたステンカラーコート。

仕事帰りのアパートの部屋の前で掴まえたところ、権藤の名を出す前に謝りだした。


チラチラと隣室を気にする素振りを見せ、何か話したいけれどここでは話せないと、口以外が能弁だ。

正木は、

「部屋が、嫌ならどこか喫茶店か……警察署がよろしいですかな」


と一般人相手には恫喝に近い言葉を口にする。


「へへへへ部屋で、お願いします」


つっかえつつ須山は応え、正木は少し安心したように、


「まだ、見つけていませんでしたね。良かった」


後ろの健太に囁いた。


須山は権藤を嫌っている。

粗野な見た目に違わない振る舞いで、古いアパートの廊下を踏みしめて歩き、機嫌が悪いと壁や床を殴り、物をぶつけた。

運悪く帰りに顔を合わせ、コンビニで買ってきた夕飯を巻き上げられたこともある。

須山の部屋のドアを蹴られたことも何度もあり、布団にくるまって震えた。

水商売らしき女がいなくなり、夜は少し静かになったものの、おかげで酒量が増えたのか、深夜に意味不明の叫び声を上げ始めた。


「女がいなくなったのは?」

「一ヶ月か二ヶ月……ですかね?僕も仕事で泊まることも多いし、女も隣も、毎日きちんと家に居る生活ではなさそうですから」


引っ越しを考えたが、先立つものが必要だ。

お金があるならそもそも、古アパートに住んでいない。

金さえあれば、あんな粗暴な男に悩まされることもなくなるのに。


そんなとき、隣室の電話の声が聞こえた。


『俺も貯め込んでるからよ。あ?秘密の隠し場所だ。誰にもわかんねーよ』


しばらく前に、ざくざくと床下を掘る音が隣から聞こえたのを思い出した。

権藤は床下に財産を隠している。

古い木造アパート、畳の下の板をめくれば、土。

すぐ隣の部屋だ。

縦に二メートルほど掘って、横に掘り進めば……。


「しかし、なぜ真夜中に。在室なら、音でバレるでしょう」


健太が須山に尋ねた。


「昼は仕事がありますし、悪いことですから」


須山は善良な市民だ。

悪事は、真夜中に為されるものという先入観があったらしい。

眠っている時間帯ならば大丈夫だろうと。


正木と健太が見せてもらった床下の穴は、まだ数十センチだった。

掘った土をどこに捨てれば良いか、悩んでいたという。

犯罪などと無縁の小市民。


だからこそ、正木のような者が必要なのだ。


権藤が床下に埋めていたのは、財産などではなかった。

女の死体だ。


今は名声も落ちた正木探偵なら見抜くこともないと侮っていたのか、不要なことを話しすぎた。

跡形もなくいなくなった女の話など、物音の正体には関係ない。

どこかで、埋めた女を恐れていたから口を突いたのだろうか。


「ともかくこれで、死者も隣人も安らかに眠れますね」


正木の表情は、安堵というには怒りに満ちていた。

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