第2話 黒板に黒色のチョーク
家では勇者気取りの僕も、ひとたび学校へ繰り出せばただの高校生である。
普通に授業を受けて、普通に昼食をとり、普通に課外活動を行う。アブノーマルなことと言えばその課外活動で、その名も『変研』。
正式名称は知らない。変○研究会であると推測されるが、そもそも正式に学校から認められた組織なのかすら怪しい。何せ、メインの活動は二人で行い、生徒会費も出なければ、いるはずの顧問の先生が教室に顔を出したことはなく、活動内容は雑談だからだ。
僕はもうこの組織にほぼ二年間──入学時より所属している。賭博師は祈らないのなら、詐欺師は騙さない。新入生のころ、何も知らなかった僕はとある先輩に捕まった。変研という偏見にまみれたそれは、ある意味で偏見通りの──期待通りのカルト集団だった。
「──今日の活動内容。唯一信じられるもの、について」
活動的に見えるセンター分けの青年が、運動部のミーティングを始めるように爽やかに告げた。制服を適度に着崩した彼が高坂先輩で、この研究会の会長だ。僕がここに吸い寄せられたのは彼の巧みな話術によるものだった。
タイトルコールをした後、先輩は暗幕をおもむろに閉める。普段はトランプや将棋を嗜む、もう少し明るいカルト集団をやっていたため、この隠れ念仏のような密会は初めてで僕は困惑した。
「……急にどうしたんです、黒板見えませんけど」
暗室の中で薄く書かれているそれを読みとくと、黒板には『唯一信じられるもの』と赤っぽい文字で書いてある……気がする。誰かが左手で書いたような、判別が難しい汚い字であった。
そんなところも含めて怪しかったが、もっと怪しいのは次の先輩の言葉だった。
「何を言っているんだ。電気をつけても黒色のチョークじゃ何も読めないだろう?」
風で揺れた暗幕から差し込んだ陽が、先輩の白い歯を照らした。何を言っているんだはこっちのセリフだった。
僕は奇妙さに顔をしかめた。なぜなら先輩が持っているチョークは明らかに赤色だったからだ。少なくとも、僕の知識のデータベースの中には黒色のチョークなどというものはない。『黒板』に『黒色のチョーク』は可読性が皆無だ。
唖然としていると、先輩は詐欺師顔負けの快活な調子で僕に歩み寄り、語る。
「そんなに怖がることはない、知っての通り俺は反神秘主義者で、『現象の救出』を目論むだけの一八歳。これはただのデモンストレーション、簡単な実験に過ぎない」
「実験?」
「この暗室において、この黒いチョークと黒板は役立たずだ」
「まあ、実際文字は見づらいですからね」
そう言って先輩は黒板に文字を書いていく。赤色のチョークを持ちながら。
黒色のチョークの正体については掴めなかったが、確かに暗い部屋で黒板は機能しない。でもそれは何色でも変わらないことだった。たとえ目立つ黄色だとしても先輩が持っているらしい黒色だとしても、真っ暗な部屋で書いてしまえば、それは色を持たないことと同義だからだ。
先輩は続ける。
「例えばこの暗所で、明確に何色なのか知覚できる人間がいたとしよう。その場合、そいつは俺たちよりもこの世界の本質を捉えていると言っていいだろうか。例えば、俺がこの文字は虹色だと言ったとして、正しいのは俺か、君か」
僕はもう一度黒板を見た。この暗所で、あれが何色なのかは正確に知覚できない。もしかしたら鮮やかなマゼンタかもしれないし、ワインレッドのようなシックなカラーかもしれない。ただ、虹色ではないことは確かだった。僕にはそのように見えた。
「それは……言ったもの勝ちの世界ですよね。人間には色のクオリアを他人に伝える術はありません。まあ、本当にその色を捉えているなら、先輩が正しいのでしょうけど。でもそれも主観の問題です。……”二次性質”に過ぎない色の情報は、観測者によって揺れるんですから」
そう返すと、先輩は「確かにな」と笑う。威圧感のある大きな瞳がわずかに緩むと、この暗い教室の息苦しさが緩和されていくような気がした。表情一つで雰囲気を変える力が先輩にはあった。先輩がようやく暗幕を開けると、世界が明度を取り戻していく。黒光りしていた机の集成材が、ミルクブラウンとブラウンの綺麗な層を作る。黒板は緑に、チョークはビビットな紅色に、窓からは秋晴れの陽気が差し込む。先輩が目を細めて言う。声に感情が乗っているような気がした。
「……明るくなっても、俺の目にはそのチョークが黒色に見えるんだ。色覚異常ってやつさ。 ……どうやら、俺の世界には赤色が存在しないらしい。俺は今、赤色のチョークを持っているらしい。黒板は本当に黒色をしているわけじゃなく、実際は緑色をしているらしい。俺のこの感覚は果たして“異常”か?」
「……っ」
僕は咄嗟に『先輩も正しい』と言えなかった。僕の感覚はそれを間違いなく赤系の色だと呼んでいて、黒色である可能性を一ミリも見いだせなかったからだ。
先輩の顔を見ると、彼はいつも通り爽やかな笑顔をした。対する僕の表情は思ったよりも引きつっていたらしい。二年間も彼が障害を抱えていることを知らなかった。そのことに対しても僕は後ろめたさを感じた。
反省モードに入った僕に対して先輩は呆れて言う。
「……別に君を攻めているわけでも、論争をしたいわけでもない。何度も言うけど俺は反神秘主義者で、『現象の救出』を目論むだけの一八歳。これはただの哲学的な実験で、『唯一信じられるもの』は──日常で養われた常識は、帰納法的に見れば脆いものだという話」
「まさか全部疑うってことですか? 懐疑論者は嫌われますよ」
“われ思う”さえ、“水槽脳仮説”等で一応の反論──屁理屈による哲学の破壊ができる懐疑論は、非生産的で劇薬だ。無限背進を楽しみたくない僕は、先輩にチクりとくぎを刺す。彼は何度も首を細かく横に揺らした。
「俺が今日言いたいのはそういうことじゃない。……『この世界に真実はない』という話じゃなくむしろ逆。この世界は一面性を持たないということを伝えたい。君の赤も、俺の黒も等しく世界だ。彼が聴いた幻聴も、彼女が感じた味覚も、彼らにとってはそれが本当の世界」
存在論的に言えば、幻という本質が"ある"という状態を持っているということかな。そう言って窓枠の外を見つめる先輩は春の陽気が似合う雰囲気を纏い、こんなところで哲学を語るようなタイプに見えない。
ともかく、今日の先輩の話には賛同しかねた。幻がある? ならばペガサスはいるのか? ユニコーンはいるのか? それらの“概念がある”という性質は同時に、“実体がない”という性質と一緒に束ねられているのではないか。
それこそ、存在論的に。
「でも僕は、その考え方が怖いです。……百歩譲って色まではいいですけど。でも、空気の揺れから繰り出される“音”や、僕が実際に触れられる“モノ”が人によってあったり、なかったりするのは、世界なんてないような──ぼやけたモノになってしまう感覚があります」
相対的な世界の存在は、大切なものまで相対的にしてしまう。僕がそう言うと、黙って聞いていた先輩は寧ろ嬉しそうに「そうか」と返した。この先輩は、僕が異を唱えるほどうれしそうに相槌を打つ。語り上手で聞き上手、本当に詐欺師の才能があると思う。
ターンが終わると、先輩は問うた。
「じゃあ、君の『唯一信じられるもの』は一体なんだ?」
待ってましたとばかりに僕は「そりゃ妹ですよ」と返した。
陽菜と会話を交わすことのみが、地面に足を付ける感覚を呼び起こしてくれる。将来のことも考えていなければ、今の自分の立ち位置も定められない、フワフワしている人生の中で、唯一『兄』という明確なロールでもって、役割を全うすることができる。世界を漂う僕という存在に紐をつけてくれる現実の存在が、陽菜という『唯一信じられるもの』だった。
「やっぱり、君はそう言うと思ってたよ。耳にタコができるくらい自慢されたからね。……実際に優秀だと思うけれど」
尊敬する先輩に妹が褒められ鼻が高い僕は、スマートフォンを取り出し陽菜の画像を漁った。一枚くらいあってもよさそうだが、どうやら撮っていなかったらしい。フォルダには宿題の写しが入っているだけで、人の入った画像はほとんどなかった。
「妹は両親とも話そうとしないですからね。写真でもあればいいと思ったんですけど。また今度撮って見せてあげますよ」
「まあ、嫌われないようにね。……で、話を戻すけど、君からしてみれば『妹の存在』が疑いようのない現象なわけだろう? つまるところ”一次性質“の優位性──」
気が付けば吸い込む息に青さが混ざり、湿気のない空気が清らかに肺を満たす。それから僕はたくさん先輩の話を聞き、それにレスポンスした。主義主張は食い違うが、先輩はそれを喜んで認めてくれた。人それぞれ違う世界があるのだから、と。
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