ペガサスの存在証明
花井たま
第1話 ミルクコーヒーのエントロピー
「お兄ちゃん、しあわせ?」
リビングでアンパンを食べていたとき、対面に座った妹が聞いてきた。
唐突すぎて質問の意図がわからない。
べつに食べているのはなんの変哲もないただのアンパンだったし、今日が特別な日というわけでもなく、レースのカーテンから差し込む陽が温かい初秋の日曜日だった。
僕はたっぷりの牛乳を入れたコーヒーを口に含み、妹の伸びた前髪のそのさらに奥にある瞳を見つめた。陽菜という名前と、ハイライトが消えている大きな黒目はまるで対照的だ。
陽菜は学校へ行っていない。それどころか両親がいないときにしかリビングへ降りてこない、典型的な引きこもりだった。一つ典型的ではないのは、辛うじて僕とはこうして喋る気があるようで、都合が合う夜には僕の部屋に訪ねてくる。
「このパン、おいしいからさ」
おいしいと言うほどでも無かったがそう答えた。それから半分ほど残ったアンパンの、そのまた半分をちぎって渡す。
おいしくないわけでもなかったが、僕の人生はそこまで感度が高いものではなかった。しかし、幸せかという問いには即答できる。最愛の妹のサイドテールが揺れている間は、世界の反対側で侵略戦争が起こっていようと、僕はこのわずかな幸せを最大限に享受できる。
──サイドテール? あれ、サイドテールだっけ。
ぱちりと瞬きをすると、陽菜はもうサイドテールではなかった。
いや、何を勘違いしていたのだ、もともと肩より長いロングヘアだったじゃないか。引きこもりが凝った髪型するわけもないしな。
僕がキツネにつままれた顔をすると、陽菜は左手で肩にかかった髪を後ろへ流した。そのしぐさには見慣れた安心感があって、それが少し不思議ではあったのだが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。
「……言うほどおいしくないけど。普通のアンパンって感じ」
「普通のアンパンだからな。どんな理想のパンを思い浮かべてんだ」
相対的に、或いは対数的に人間の感覚は作用する。そんなことを先輩は言っていた。彼なら『陽菜はアンパンのイデアを食べている』とでも表現するだろうか。
「アンパンのイデア、食べちゃってた」
そう言って陽菜ははにかむ。
──驚いた。どこでそんな言葉を知ったのだろう。
「知り合いと同じようなこと言うね。……偏屈病の薬出しとく」
「私以外にそんな人いる? あ、いつもの部活の先輩ね」
「そんなところ。それにしても陽菜の知識量に驚いたよ」
僕はコーヒーをもう一口含んだ。大量の牛乳が混ざったそれは、コーヒーに牛乳が入っているのか、はたまた牛乳にコーヒーを入れたのか分からない。甘いな。
「私はほら、一日中閉じこもっているから」
「……そうか」
実のところ、僕は彼女が引きこもって何をしているのか全く知らない。ご飯を食べているところも見たことがないから、何が好物なのかも分からない。どうして閉じこもるようになったのかも知らない。彼女がいったい何を目指しているのかも、何も知らなかった。
陽菜は時計を見て「そろそろ帰ってきちゃう」と呟く。両親の事だ。
なぜ僕とは話せて、両親とは話せないのだろう。
疑問は尽きないが、正直なところどうでもよかった。それを知ることで僕の行動が変わることはない。僕の心はもう決まっていた。
「陽菜」
最愛の妹の名前を呼ぶ。
「なに?」
「愛してるぞ」
「うるさい。気持ち悪い」
──あれ?
****
小さなころ、リビングの日向で寝転がりテレビを見ていた陽菜の細い首を見て感じたことは、『僕はこの子を簡単に壊せてしまう』という根拠のない恐怖だった。立てた一円玉がパタリと倒れるように、僕がちょっと力を出しただけで陽菜が死んでしまうことは想像に難くなかった。
その気づきが覚えている限りの始まりだった。
──僕が陽菜を守らなくちゃ。
一生で持てる愛情と敬虔と欲求を陽菜のために。
なぜなら──僕は陽菜の兄貴だから。
満ちていくカップに滴る甘いコーヒーの音。人間は、人間と生きていくのだ。兄は妹のために生きていくのだ。満ちていく、その使命で僕は満ちていく。
****
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