午前零時の迷路

綿野 明

午前零時の迷路 



 こちら、僕。

 秘密調査員だ。

 普段はただの小学生だが、実はとても大きな使命を負っている。



 カッコつけてそう心の中で言ってみたが、僕は困った時の父さんがよくそうしているように、額に手を当ててため息をついた。ダメだ、遊んでいる場合じゃない。


 そうして僕は顔を上げて、もう一度部屋の隅を見た。やっぱりある。部屋の手前側からベッド、机、本棚と綺麗に並べていった結果できてしまった壁と本棚の間の細い隙間に、ある。


 僕はそろそろとそこへ近寄って、隙間に押し込んであったゴミ箱を引っ張り出した。紙屑がいくつか散らばったが、拾うのは後回しにする。


 部屋の入り口の扉の半分くらいの幅の扉がそこにあった。色は……わからない。カーテンを開けても差し込むのは銀色の月明かりだけで、部屋の全部が黒っぽく青っぽく見えていた。夜光塗料の塗られた時計が差しているのは、午前零時四分。だから僕がたまたま目を覚ましてこれを見つけたのは、ちょうど零時くらい。


 明かりをつけようと電灯の紐へ手を伸ばし、躊躇する。もしもこれが夢だった場合、明るくしたら全部消えてしまうんじゃないかと思ったのだ。


 机の引き出しを手探りで漁って、小さな懐中電灯を取り出す。スイッチを押す。細い光がスッと伸びて、部屋の床から本棚までに色を与える。水色の絨毯、棚の木目の茶色、本の背表紙の赤、白、黄色。まだ目は覚めない。


 丸い光の輪の中に浮かび上がった扉は、くすんだ緑色をしていた。大きな板チョコのような形をしていて、模様の縁のところが少しだけすり減っているのか、木の色をしている。取っ手は錆びた真鍮色。なんとも説明しようがない、カッコいい装飾がついた取っ手だ。


 僕はごくりと唾を飲んだ。震える手を伸ばして、取っ手を握る。少し痛いくらい冷たい。確かな金属の感触。引っ張る。カチャっと、扉の中で金具が動く。ギィと軋んで、開く。


「……通路?」


 細く開けた隙間にライトをねじ込み、僕は扉の内側のあちこちを照らした。誰もいない。灰色の石の床、石の壁、石の天井。細い廊下のような通路が奥に向かって続いていて、少し行ったところで右に折れ曲がっている。


「……右」


 僕は一度扉から手を離し、勉強机の上によじ登って窓を開けた。外を覗く。いつも通り隣の家が見える。左側を見る。僕の家の外壁には、なんの変化もない。奥に行く通路も、右に曲がる通路も、入る場所はない。


 窓を閉めて、いつも使っている方の扉のそばからドアストッパーを取ってきて、緑の扉の下に挟んで開けっぱなしにした。そうっと足を伸ばして、石の床に指先をつけてみる。冷たい。ざらざらしている。足が空中に突き抜けたりもしない。


 慎重に足元を照らしながら、曲がり角のところまで行ってみた。角の向こうを覗く。照らす。同じような通路が続いている。


 次の角まで行ってみる。覗く。また同じような通路。でも今度は左右に枝分かれしている。あと、左側に扉がある。くすんだ緑色の扉。


「……あ」


 中は狭い部屋だった。低いテーブルとソファがあって、奥に暖炉がある。本物の暖炉、初めて見た。火はついていない。横に薪が積んであって、傘立てのようなものがあって、そこに鉄製の道具のようなものが刺さっている。


 壁には小さな風景画がいくつかかけてあって、窓はない。僕はサッと暖炉に近づいて、そこに手をかざしてみた。


「冷えきっている……誰かがいたけいせきはないな」


 呟く。僕は推理小説が好きなので、こういう捜査には詳しいのだ。


 もう一度ぐるりと部屋を見て回って、僕は暖炉の側のマッチ箱からマッチを一本取り出し、パジャマのポケットに入れた。そして部屋を出て、廊下の先が複雑に入り組んでいそうなことを確かめると、自分の部屋へ戻った。


「明日、いろいろと準備してから来よう。これ以上は、迷う可能性がある」


 僕は眉を寄せてそう言うと、開けっぱなしにしていた扉を丁寧に閉じて、マッチを机の引き出しの一番奥にしまった。机に入れっぱなしにしていた懐中電灯はそろそろ電池が切れそうだったし、地図を書く道具とか、非常食とか、そういうのをリュックに詰めて持って行こうと思った。


 かなり眠たかったので、その夜はそのままベッドにもぐり込んで眠った。





 目覚ましの音で飛び起きて、僕はまず扉を確認した。本棚の奥の壁――何も、ない。飛びつくように机まで走って、引き出しを開ける。一番奥にマッチ――あった!


「あった!!」

「なに騒いでんの!」


 廊下の向こうから母さんの声がした。


「なんでもない!」

「もうできるよ」

「はぁい」


 着替えて食卓につくと、父さんが「目玉焼きが……崩壊してしまった」と悲しげな顔で皿を出してきた。見ると、黄身が割れて全体が黄色くなっている。それも三つ全部。


「味は一緒だよ」

「そうだろうか……」

「これはこれで美味しいって」

「お前は……優しい子だな……」


 父さんが額に手を当ててしょんぼりしている間に、母さんがサラダとスープとヨーグルトを手早く並べてゆく。そして項垂れている父さんの背中を後ろからバシっと叩く。


「その程度で落ち込まない! また明日挑戦!」

「ああ……」

「ちょっと、何その足の裏!」

「え? あ、これ……ちょっと、庭に出て」

「洗ってきなさい!」

「はい」


 目まぐるしく喋る母さんに促され、風呂場で足の裏を洗った。真っ黒に汚れていた。


「靴も……持っていかなくちゃ。夕方のうちに部屋に隠して、あと、乾電池と、非常食も調達しないと」


 今日が土曜日で良かったとにんまりした僕は、扉の向こうの探検をちっとも諦めていなかった。たぶん、夜になると現れる扉なんだ。そうに違いない。


「これは探偵としての勘だが……探偵じゃないかな、秘密調査員としての勘だが……」


 つい笑顔になってしまう表情を引き締め、いつも通り朝食を食べて、お小遣いを片手に自転車でホームセンターへ行った。乾電池、非常食のチョコレートとビスケット、ペットボトルのスポーツドリンク、地図を書く用のノート。


 ぬかりなく仕入れて部屋へ帰り、リュックへ詰める。いつも履いていない方のスニーカーをクローゼットに隠す。目を盗んで、薬箱から絆創膏を調達する。机の引き出しからボールペンとカッターナイフ。


 全ての準備を終えた僕はいつも通り食事をしてお風呂に入り、そしていつもと違って靴下を履いてベッドに入った。母さんに怪しまれないように部屋の明かりを消して――





 ふっと目を覚ますと、また真夜中の零時ぴったりだった。起きているつもりだったが、いつの間にか眠っていたらしい。枕元に置いていた懐中電灯のスイッチを入れる。電池を替えて昨日より明るくなった光の筋が、真っ直ぐ部屋の隅を照らす。


「……あった」


 扉はそこにあった。僕はリュックを背負って靴を履き、手にした箱から緑色のガラス玉をひとつ取り出して、曲がり角の端に置いた。ソードカードのHPカウンターだが、ビー玉と違って半球型をしていて転がらないし、すごくたくさんある。


 角まで歩いてガラス玉を置き、地図をメモして、先に進む。扉があったら開けてみる。そういうことを、それから僕は毎日続けた。あまり長時間だと次の日の学校で眠くなるので、毎日少しずつ。扉は毎日零時きっかりに現れて、朝になると消えていた。中学生になる頃には真夜中過ぎるまで起きていられるようになったが、電気をつけて勉強している日は、扉は現れなかった。明かりを消して眠っていると、ふと目が覚める。扉は必ずそうして現れるようだった。


 高校生になるころにはかなり奥まで調査が進んでいて、短時間では自室に戻って来られなくなっていた。なのでアルバイトをして両親に旅行をプレゼントし、一週間かけて本格的な探索に出たこともあった。


 内部は建物というより迷路のようだったが、あちこちにある扉の中はどれも生活空間と呼べるような部屋ばかりだった。応接室に食堂、書斎、寝室。けれどそのどれも、調度は古びても埃をかぶってもいないのに、人の気配がない。装飾はアール・ヌーヴォー的だが、少し違うような気もする。


 そうして僕は大学生になって、家を出た。できれば地元の大学に行きたかったが、迷路の調査を進めるうちに建築や文化について興味が湧いて、そういうことを研究できる学校にどうしても行きたくなったのだ。


 新築のアパートに荷物を運び込み、ひとまず最低限必要なものだけ段ボールから出して、新しいベッドに入る。明かりを消して――


 ふと目が覚める。すうっと引き寄せられた視線の先に、緑の扉。僕は無言で立ち上がっていつもの調査服に着替え、リュックを背負い、扉を開けた。


「……ない」


 置きっぱなしにしていた靴がない。僕は玄関に行って靴を取り、そしてゆっくりと左右を見た。


「……違う場所だ」


 ノートと、ガラス玉を出す。右の道を選んで、記録を開始する。一つ目の扉の中は――


「きゃぁっ!」


 目の前で悲鳴が上がって、心臓が止まるかと思った。


「え、だ、誰」


 金色の巻き毛の、高校生くらいの、女の子。青い瞳をまん丸にして震えている。何か叫んだが、知らない言葉だ。英語で話しかけてみたが、通じない。


「ど、どうしよう」


 僕は困り果ててその場に立ち尽くした。女の子は僕が襲って来ないらしいと気づいて、ぐいぐいと両手で押して僕を扉から押し出そうとし始めた。とりあえず今日は帰るか、いや、彼女に話を聞きたい。一体これは何語なんだ? 以前発見した書斎には色々な言語の本が満遍なく集められていたので、推理の材料にはならない。


「とりあえず、あの落ち着いて」


 燭台でぶん殴られそうになって、僕は慌てて部屋を飛び出し、アパートまで逃げ帰った。どうしよう、今まで色々な困難にぶつかってきたが、こういう種類の苦労は初めてだ。


 とりあえず……語学の勉強でもしてみるかと、僕は額に手を当ててため息をついた。目玉焼きを失敗した時の父にそっくりなことに気づいて、慌てて姿勢を正した。





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