この顔に覚えはありますか

長尾たぐい

 自分の顔の特徴のなさに気が付いたのはいつのことだったか。町内の子ども会行事で自分だけ二回余分にお汁粉をもらった時。野球部のエースの友達と間違われて伝言を頼まれた時。四年間務めたバイト先の飲食店のオーナーから毎年「で、君は新人かな?」と言われた時。思春期の盛りのころは悔しかった。個性のある服装をしてみたり、変わった趣味を持ってみようとしたり、マイナー競技の部活動に打ち込んだりした。それは確かに成功した。でも、それは「いつも黒づくめの」「スペイン語ができる」「ハンドボール部の」誰かさん、として認識されているだけで少し服装を、持ち物を、言動を変えてしまえば他人の中で「俺」は簡単に消え失せているのがわかった。成人するころには、俺は自分の「特徴がないという特徴の顔」を受け入れた。特に生きていくのに支障があるわけでもない。別に毒にも薬にもならない、ただの属性のひとつに過ぎない。


 その考えが逆転したのは、大学二年の夏のことだった。

「君、すごくいいね」

 向いてるよこの仕事。気が向いたら試験を受けてみな。福利厚生はしっかりしてるし、親御さんも喜ぶと思うよ。

 大学のキャリア支援講座で俺にそう声をかけてきたのは、若くてガタイの良い男だった。その顔を見て、俺はその男が言わんとしていることが何なのか理解できた。俺はその誘いに乗る形で試験を受け、その「会社」に入った。


「記憶にございません」

 取調室の机で向かい合う相手は、ほとんど皆まったく表情を変えずにそう言う。こうやって「会社」で「仕事相手」とやり合う時は必ず思う。巷で言われるような意味での性悪説も性善説もどちらも人間には当てはまらない。確かに人間には正の側面と負の側面がある。道徳や倫理、あるいは法令を切り取り線としたとき、どちら側が大きくなるかは時と運と中身次第だ。負の側面が小さければ小さいほどいい、と思われている節があるような気がするが、それは間違いだと思う。

 詐欺、横領、汚職、不正、偽造。「仕事相手」たち一人ひとりが持っている負の領域はさほど多くない。ただし奴らが真っ当に生きている市民と違う部分がふたつある。ひとつは自分を成す負の側の大きさを、重さを、形を、その扱い方を心得ていること。もうひとつはそれをどう扱えば、自分にとって最大の利益が得られるかを考える頭があること。

「記憶にございません」

 負の側面を見るのが下手な方が、人間として上等だとすら俺は思う。奴らは自分のことを分かりすぎている。他人を騙して、言うことをきかせて、それが法律や道徳に引っかかっていても、自分がそれに引っかからなきゃ構わねえと思っている。

 だから俺みたいなのに足を掬われるんだよ。

 取調室に俺の相棒が入ってきた。携えた書類を目の前で黙りこくったままのアルマーニ野郎に紙を一枚見せてやる。目元が微かに動いた。今回の相手はそう大した奴でもなさそうだ。俺はこの男の前で数か月間を費やして嗅ぎまわって集めた情報を淡々と羅列する。男の蟀谷を脂汗が滑り落ちていく。

「でも、あなたの記憶にはないでしょうね」

 手前のことしか頭にないあんたみてえな奴は特に、俺の顔のことなんか。


〈了〉

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