猫をなめるな

蜜柑桜

ごめんなさい気をつけます

 三月も末、年度末も年度末。今年度のまとめやら引き継ぎやら新年度の準備やら何やらでもう私のスケジュールはぎちぎちどころではない。

 職場のパソコンフォルダには未処理のファイルがずらりと並び、スケジュール帳には会議予定とタスクリスト、あと未返信のメール、いくつあったっけ。

「ああもうさっさと新人ちゃんに仕事回したい」

 人は決まっているのに四月一日まで連絡も送れない。メーリングリストにも入れられないから新年早々の業務連絡も継続者と新規者とで二回送らなくては。忘れないか心配だ。

「就業時間ってなんだっけ……」

 そんなものは名称だけ。概念すら無くなったことを証明する自宅の机の上の書類たち。辛うじて取っている睡眠時間も足りないし、ご飯も作り置きのヘビーローテーション。毎日のコーデのヘビロテ万能ファッションなら大歓迎だけれど、食事は飽きる。身体にも悪いし。

「もう誰か代わりにやってくれないかなぁこれ」

 せめてお茶淹れてくれるとか。買い物してくれるとか。もしくはふかふかの枕とかでひととき休めればそれでも……。

 すっかり冷めたブラックコーヒーの入ったマグカップへ手を伸ばし、現実逃避に窓の外へ視線をやる。するとそこに、なんとまぁ見事な毛並みの真っ白な猫がいた。実に美しい。

 数秒の間、うっとり猫に見惚れる。

「いいわね猫……ふわふわしてて……」

 随分としゃきりと立つ猫だ。なんだかバリバリに仕事をできる先輩を思い出す。異動で四月からいなくなっちゃうんだけど。

「新人待つ前に猫とかが手を貸してくれたらなぁ。よく言うじゃない? 猫の手も借りたいって」

 つい猫相手にぼやいてしまう。猫に言っても「にゃあ」とかしか返ってこないんだろうけど。

「なに? 貴女も人間の愚言を繰り返すタイプなわけ?」

 鈴のように澄んだ声が聞こえた。思わず部屋の入り口を振り返る。いや待って、こっちからは聞こえて来なかった。

「こっちよ。貴女の耳、どうなってるの? やっぱり人間の耳ってダメね」

 呆れ声は明らかに窓の方だ。顔を戻すと、猫の姿が闇の中に白く浮き上がって私を見ていた。

「大体、猫の手も借りたいなんて表現、失礼しちゃうわよね。そんな猫は大したこともできないふうな物言い」

 動いているのは確かにツンと澄ました白猫の口だ。

「あの? 私、疲れすぎてるかしら」

「そうね。疲労が猫にも耐えられない極限まできてるみたいだから来たのに」

 いやねぇと猫は銀の目をくるりと回す。

 え、それって猫が手伝ってくれるってこと?

「そうよ」

「うわっわかったの?」

 驚愕した私を軽蔑するように猫は続けた。

「当たり前でしょ。猫はよくよく人を見てるんだから。大体猫の手も借りたいっていう上から目線が許せないわよね。猫は犬と違うんだから。気高いのよ」

 背筋をスッと伸ばした姿は確かに気高く美しい。

「犬みたいに人の言いなりになんかなるものですか。かのエリオットが猫の気位を語っていたでしょう。お願いするのが筋よ」

 いや、その詩集とミュージカルなら私も知っているけど。

 まだ戸惑いが消えない私に対し、白猫は「ほら頼みなさいよ」と見ている。

「じゃ、あ、お願いします……でも猫が」

「猫様が」

「……猫様がパソコンとか使えるのでしょうか」

「あら、かの国民的漫画の月の猫は中学生女子よりパソコンに精通していたでしょ。国際的に評価されたアニメ映画なんて猫が箒に乗るのよ」

 ふふん、とでも言いそうに猫は首を曲げる。よく分からないけれど頼まなくても機嫌を損ねそうだ。

「あの、ではこちらの……」

 白猫は私が言い終えるよりも早く、優美に身体をしならせて部屋へ飛び入ると、椅子を渡りパソコンの前に座した。

 爪の先が見える小さな手がキーボードのリターンキーを叩く。

「こうでしょう。任せなさいよ」

 タタタタと見る間に表が埋められていく。そうなんですよそこのところは新年度の数字が必要なんです。22です。あ、猫……、だから?

「ほら次のもやるわよ。貴女も続けなさいな」

 そうして私と猫の共同作業はなぜか猫のリードで進み、いつしか溜まりまくっていた仕事に終わりが見えて来た。

 凝り固まった肩を回し、私はパソコンの最後のメールを送信すると、もう持ち分を終えて後ろから私を監督する猫へ振り返る。

「あの、はい。助かりました。ありがとうございます」

 折り目正しく辞儀をし謝意を述べたところ、猫は鈴の音に似た声ですかさず返してきた。

「あら、礼儀を知っている人ね。私、お腹がすいたわ」

 なんとも自然な依頼の仕方だ。見習いたくないけれど。だが礼はしなくてはならないだろう。

「ええ、もちろんお礼は……このようなもので……」

 疲労を感じる体を持ち上げ、猫の視線を感じながら台所の棚から缶詰を取り出した。良かった、猫の好きそうなすぐに出せるものあって。

 しかし甘かった。

「なに貴女、これだけの深夜仕事の深夜報酬に百円もしない対価しか払わないとか、品性を疑うわ」

 もっともである。

「ボーナス残業なんて猫の世界には皆無よ。お分かり? 悪質な食事で眠れない、この毛並みがそれで保てると思って?」

 月明かりに照らされる純白の毛はさながら絹の如し。ごめんなさい。

 猫の理屈に頷くしかなく、深夜だと言うのに私はご飯を炊き、鯵を焼き、煮干し出汁を取って(猫のリクエストである)お野菜たっぷりの味噌汁を作って猫と食卓を挟んだ。

 そういえばこんなにきちんとした和食を作ったのはいつぶりだろうか。噛み締めるご飯が甘くて、インスタントではないお味噌汁が臓腑をじんわり暖める。幸せ。

「でしょう。心の健康も必要なのよ」

「そうですね」

「私のおかげでそんなことにも気が付いたでしょう。よかったわね、私に素直に頼んでみて」

 本心から感謝し、私は改めて猫の前で手を合わせた。

「本当ですね。ありがとうございます。猫の手も借りるものですね」

 すると猫は鯵の身を器用に剥がして口に運び、肉球についた油を舐めた。

「まあ、私は手なんて貸してないけど」

「は?」

「猫にあるのは足よ。私が貸したのは前足よ」

 うっ。

「本当に、『猫の手も借りたい』なんて、なんて人間本位な慣用句かしら。全くもって失礼しちゃうわ。今後知らしめて欲しいものだわ」

 手……もとい前足を突き出して銀の目を光らせた白猫は、まぁ、貴女はきちんとお礼もしたから許してあげる、と猫撫で声で付け加えた。


 その後、「猫の手も借りたい」という文句が人間の間から消えることになる、かなり前のお話である。



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