ドリームランドの哲学

猫隼

ドリームランドの哲学

「おやすみなさい」から1時間……


 哲学者はビーカーやフラスコの棚と、分厚い本ばかりの棚のある、おそらく研究室にいた。

 ドリームランドの住人が学ぶことはない。ただ必要に応じて教えられるだけだと信じられている。

 賢い人は最初から何でも知っている。実は1冊も本など読んだことがないはずなのだけど、実は何冊も本を読んできたとも言える。その人たちの世界が生まれた瞬間から、その人たちはそういうふうだったから。

 創造はきっと眠りの瞬間、空想に対する意識が薄れた瞬間。

 時に賢い人は全ての事を知っている。存在の始まりがほんの少し前であったこと、そしてどうしても避けられない世界の終わり。

 哲学者は全てを知る者だった。彼は「もしも眠り姫がそのまま目覚めなかったらどうなるだろうか」と、そういうことさえ考えたが、しかし決して望みはしなかった。


 家の隣に小さな動物園があった。キリンはまるで首だけが動くように、他の部分が止まっているように見える。夜になって、朝になるのがあまりにも早い、記憶の限りでは昨日蒔いた種がもう花を咲かせた。無限に水が出るジョウロ、しかし花壇に水が溢れることはない。

 不思議な世界だけど、誰もこの世界の不思議に気づくことはない。今のところは……

 だが哲学者は、例外もあると聞いていた。実際、過去に眠り姫が、自分の見ている世界が、自らが現実と認識する世界と異なっていることに勘づいたこともあるらしい。しかしそうなった時にドリームランドかどうなったのかは伝わっていない。彼女自身も覚えていないのかもしれない。だがドリームランドは、彼女が覚えていないことでも、記憶の中に保管されていることならば投影されることがある。だから探せば、その答も見つかるかもしれない。

 もっとも、哲学者はそんなことに興味はなかった。

 彼には使命が与えられていた、彼は彼女の教師役。彼女が知ることのみで創られたはずのこのドリームランドの中で、彼女の知らない答を考えて、教える役目を任されていた。

 彼女が求めている答、いつも考えていること。 いつか必ず来るいくつかの悲しみ。大好きな、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お母さん、友達の死。このとても広い宇宙の片隅で生きた記録を失ってしまうこと。存在の永遠の連鎖から外れてしまい、歯車としての価値を失ってしまった時、その時には、何のためにも生きていないだろう自分は、まだ夢も見れるだろうか。ただ夢を見るだけの機械でも……


 哲学者には考える時間が必要だろう。だが時間はない。

 もっと時間を加速させる必要がある。ドリームランドが続く限り彼は生き続ける。どれほどの時間であっても生き続ける。だから時間が足りないなら加速させればよい。加速させて答を探す。


ーー


 数千の朝と夜をこえて……答はまだ見つからない。

 しかし眠り姫は、どれくらい知っているのだろうか。

 役目を果たせないキャラクターに出番はない。哲学者にはまだ彼女と会う理由がなかった。


 いつのまにか、不規則に絡み合う球体とリング群に哲学者は囲まれていた。なかなか面白い事になってるらしい、彼女は映画を見ている。多重仮想空間を利用した移動テクノロジーが重要なサイエンスフィクション。だが、ここでもまるで、見ずに見たようだ。ラストシーンが早い。

 少年と青年の別れ。これは別のどこかで見た光景のような気がする。


 彼女はきっと大冒険が好きなのだろう。そんなふうに思った。だがおそらく彼女は冒険家にはなれなかった。 だけどそれは何を意味する? このドリームランドでは、何でもできるのではなかろうか? なぜこの世界においても、彼女にとって大冒険は画面の向こう側にしかない?

 彼女は目覚めている時、現実の世界に生きている。しかし彼女は夢見てる時、いったいどこにいるというのか。

 ドリームランドは彼女が見てる夢の世界だ。そう理解していいのは間違いない。だが夢の世界の住人はどのくらい自由でいられるのか。哲学者は何を知ろうとしているのか。


 彼女の知能が、多量の神経細胞のネットワークの産物なら、ドリームランドはさらにそこから生まれた副産物ということになろう。だが知能が何かを想像する時、それは外側の何かを認識する時とどんな違いがあるのだろうか? 想像の世界は彼女が創り出したものだ。ドリームランドも無意識下で創り出したものと言えるかもしれない。だがそうだとしても、それを見るために、色合いがどうとか形がどうとかみたいな、つまり認識という幻想が必要なら、この世界はこれまで我々が理解してきたよりも、ずっと独立した世界であるのかもしれない。


 哲学者が得たのは1つの希望。本当に理解できるかもしれない。自分が独立した世界の、独立した存在であるというのなら……


ーー


 神経系、脳システムは、コンピューターに近いだろうか。

 物理的に、電気的信号に変換された様々な情報を処理する。概念的に、記号や数を操作しているとも言える。

 脳をはっきりコンピューターに例えるなら、1つ1つの神経細胞ニューロンはコンピューターの素子にあたることになろう。ただし、平均的なコンピューターに比べたら、神経系の各素子ニューロンの情報伝達のための発火速度は、おそらく遅い。哲学者が理解しているところでは、脳の高機能を実現しているのは、おそらくその驚異的な並列計算能力である。各システムにおいて、通常、神経系は、感覚器から得た情報を数百万本とかの軸索じくさく、すなわち神経細胞の反応を伝達する突起を介して脳に伝えている。そして脳は、意識として、得た情報を認識させるような内部ネットワークを働かせる訳だ。

 コンピューター素子に比べて、ニューロンは可変的で、やや信頼性が低いらしい。あるニューロンの集団が演算処理をしている最中に、新たに与えられた信号は、演算中のニューロンの性質を変化させることもありうるようだから。人が何事もコンピューターほど正確に計算できない理由もそのためかもしれない。

 だが微妙な不安定さは、時には代用などによる、不足部分のカバー、修復に役立つのかも。脳はどの部分も処理装置部分(CPU)として扱えるとか、物理構成(ハードウェア)と仮想領域構成(ソフトウェア)が完全に近い形で一体化しているようなコンピューターとか言えるかもしれない。

 実のところ、哲学者はやや懐疑的だった。たとえ話で使ったりするのはともかく、本当の意味でそれがコンピューターと同じ類のものと考えるには、脳が創る世界は特殊すぎると考えていた。

 それでも結局のところ、違いは些細なものなのかもしれない。例えば、コンピューターは、そのひとつを構成するあらゆる要素が、すべて総合的な存在として、汎用的な動作を行うことができる。対して脳は、各部分は相互作用しつつも、それぞれの部分が多少異なった特別な仕事をするよう発達しているものとかにすぎないのかもしれない。

 意識的に喋ることができなくなってしまった人と、音を鳴らせなくなったコンピューターでは、実際的には何がどのくらい違うのか?


 機械的に例えるなら、どう考えてもハードウェア上のソフトウェアである哲学者は、自分で考えているつもりで、しかしそれが、実際はやはり眠り姫の後追いでしかないこともわかっている。

 だが今や彼は、与えられた役割のためばかりでなく、自分自身の興味のためにも思考を続けていた。

 彼はもう自由だった。彼自身がそう感じていた。

 ドリームランドにまた朝が来て、また夜が来て、また朝が来る。


……「おはよう、お母さん」まで1時間。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドリームランドの哲学 猫隼 @Siifrankoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ