実際、小さい子というものは何を考えているのでしょう。
レビュー筆者にも幼少期というものはあり、この作品をお読みする中で、(私は保育園に通っていましたが)先生が作ってくれた誕生日カードが何より嬉しかったこと、工作が苦手でいつも困ったこと、ガキ大将みたいな男の子が怖かったこと等々、色々なことを思い出しましたが、例えば、言葉が話せるようになる前の乳児期の子が、意味ありげに空中を一心に眺めている姿を見かけると、『この子は今何を見て何を考えているんだろう。ちょっと訊いてみたいな』と思うのです。当然、訊ねても何も返事はありませんし、私もさすがに乳児期の記憶はなく、何を見て何を考えていたのかは分からないままです。
歳を重ねる度に『成長』というものを私達は意識しますが、社会性が身に付くに連れ、神秘的な本能はぽろぽろと取りこぼしていくのが常のようです。
もったいないことのようにも思いますが、生まれたての神秘性は今後もそのまま、小さい子たちの特権であり続けることでしょう。
人生初の社会生活の場である幼稚園で、女の子との関わりを通して様々な体験をしていく主人公の日常を垣間見ながら、私も幼い子の心の動きに思いを馳せました。
全編ひらがなで書かれた文章は初見の方には驚かれることと思いますが、小さい子の心の動きを存分に感じていただければと思います。
え? これはなんだ……!?
初見では、非常に困惑しました。しかし、それこそ作者様の狙いなのかもしれません。本作は今では失われてしまった、幼き日々の感性を再現する試みです。
本作を読んで、やはり幼い頃には独特な感性を持っていたのだとほろ苦さを感じると共に、それが既に失われてしまっていることに対する喪失感を覚えました。口に出して読み、ひとつの響にしたことが余計にそうさせたのかもしれません。
幼き日の思い出など、再現しようと思っても容易にできるものではありません。文字情報のみで再構成をしようとするのなら尚更でしょう。しかし、作者様の試みはまさにそうしたことであり、感服いたしました。
目の前に広がるは、幼き日の世界……
「……つまるところ、そのほうの旅とは、まさに思い出のなかの旅なのだ!」
――イタロ・カルヴィーノ(米川良夫訳)『見えない都市』
最初に頭に浮かんだのは、夏休みの宿題を代行するプロでした。
幼い様子ながらも、シーンは洗練として意識の流れも少なかったためです。
その印象が崩れたのは、読み進めていく内に現れた語り手の情緒でした。幼少期特有の脱抑制された好奇心は物語の推進力になると同時に、その人の内面を強く描き出します。
読者は時に我が身を振り返りながら、あるいは推し量りながら、語られる人を読むことになりますが、その過程で物語を覆う文体への違和感は薄れていきます。
そして作者の思い出であることを再認するに至り、文体への目は完成します。私自身覚えのある経験も多く、読み終えた後も余韻がしばらく残る読書体験となりました。