【レンタル猫の手】

笛吹ヒサコ

【レンタル猫の手】

「猫の手も借りたい」


 思わず、そんな生産性のないことをぼやいてしまったのは、連日の残業に次ぐ残業に疲れ果てていたからだろう。普段の私なら、そんなことは絶対にぼやいたりしない。

 一週間前から、同期の佐藤が無断欠勤しているせいで、本来なら終わっているはずの案件が全然終わらない。


「思い出したんすけど、最近、ネットで【レンタル猫の手】って話、見かけたんすよ」


 先ほどの私のくだらないぼやきに、部下の佐藤が思い出したとしゃべりだした。


「ある日突然黒いダンボールに入った猫の手が現れるらしいんすけど、願い事を三つ叶えてくれるらしいんす」

「猿の手の間違いだろ」


 くだらない無駄口叩いている暇があったら、キーボード叩け。普段の私なら、絶対そう一喝していたはずだ。やはり、疲れているのだろう。


「猿の手じゃないすよ。猫の手ですって。なんすか、猿の手って。で、その猫の手は、どんな願い事でも叶えてくれるらしいんすけど、レンタルなんすよ。だから……」


 ネットのくだらない話を、よくもまあペラペラと。

 黙らせる気も失せていた私は、右から左へと聞き流していた。


「……て、鈴木さん、聞いてました?」

「ああ、聞いてた聞いてた」

「聞いてませんでしたね、それ。ま、いいです。俺、先帰りますね」


 そう言うが早いか、部下の佐藤は帰ってしまった。

 残ったのは、私だけ。

 最近、お決まりのパターンだ。

 同期の佐藤はもちろんだが、部下の佐藤も、責任感というものがなさすぎる。『佐藤』姓は、無責任の代名詞か何かか。『佐藤』と書いて『無責任』と読む、とか。ムフッ。……いかんいかん、なにをくだらんことを。


 ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん


 今日は、空調の音がやけに大きいな。


 ……ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん


 ゾクリと、悪寒が走った。



 …………ーーーーーーーーーーーーーーーーーん


 空調の設定がおかしいのか、壊れたのか。


「帰るか」


 ボソッと呟いた程度の声が、自分でもびっくりするくらい響いた、気がする。

 そうだ、帰らなくては。疲れているせいで、余計なことを考えてしまう。

 そうだ、疲れているんだ。無断欠勤を続けている同期の佐藤無責任と、さっさと帰っていった部下の佐藤無責任のせいだ。

 一体全体誰に言い訳をしているのか、自分でもよくわからん。それもこれも、疲れているせいだ。


 ――トサッ


 だから、かすかな音にビクッと飛び上がったとしても、疲れているせいだ。

 この醜態を誰にも見られずにすんだのは、幸いだ。


 ………………ーーーーーーーーーーーーーーーん


 ドキドキと動悸が激しいのは、歳のせいか。いやいや、まだ五〇にもなっていないぞ。


 ……………………ーーーーーーーーーーーーーん


 キョロキョロキョドキョドと、音の発生源を探る。

 なにか、そう重くない物が落ちる音だったと思うが。


 …………………………ーーーーーーーーーーーん


「これは?」


 無駄に驚かされた音が、これだったのかはわからないが、一週間前から空席だった背後のデスクの上に、黒っぽい段ボール箱が鎮座していた。こんなもの、さっきまでなかった、はずだ。


 ………………………………ーーーーーーーーーん


 気がついたら、箱を開けていた。


「なんだ、これ?」


 箱の中には、一見よくできた作り物に見える猫の手があった。


 にゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん







【レンタル猫の手】


 あんな気色悪いもの、なぜ持ち帰ったのか。

 やはり、あの日の私はそうとう疲れていたのだろう。猫の手も借りたいほど忙しかったから、私のもとにこの気色悪い猫の手が現れたのだろうか。

 まぁいい。

 この気色悪い猫の手のおかげで、私の人生は変わったのだから。


 あの日、帰ってから、箱の中に気色悪い猫の手の他に、【レンタル猫の手】と書かれた大きめの封筒もあったことに気がついた。中には、猫の手に願えば、三つ、どんな願い事も叶うという内容のゆるいイラスト付きの取説と、びっしり細かい字で書かれた規約かなにかが一枚ずつ。

 部下の佐藤がしかけたたちの悪いイタズラかと思った。が、


「じゃあ、五〇〇〇兆円欲しいとか叶えてくれるのかよ。ふん、くだらない」


 その日は、そのまま寝てしまった。疲れていたからだ。明日は、ストレス発散を兼ねて部下の佐藤をとことん叱責してやろうと、心に決めて。


 だが、翌日から私は出社しなくなった。同期の佐藤と同じ無断欠勤をしていることに、思うところがないわけではないが、五〇〇〇兆円を手に入れてしまったら、そんなこと些細なことだ。退職手続きをするのだって、めんどくさくなる。

 そう、猫の手は願いを叶えてくれたのだ。


 翌朝、コンビニのATMで確認した口座の残高に、目を疑ったし、卒倒仕掛けた。奇声を上げ、挙動不審にならなかった自分を褒めてやりたい。

 そうして、その日から人生は変わった。

 世の中、所詮金。

 金さえあれば、なんだってできる。

 こうして、タワマンの最上階から、下界を見下ろすことも。つい一週間前まで、この見事な夜景を彩る光の一部だったことも相まって、笑いが止まらない。

 あれから、猫の手に叶えてもらった願い事は、イケメンになること。整形手術もできなくはないだろうが、まだまだ万能ではない。三つと限られた願い、最初に五〇〇〇兆円を手に入れて、本当に良かった。

 健康診断で警告されるほどの肥満体型でお世辞にもかっこいいとはいえないオッサンが、一瞬で誰もが認めるイケメンになった。

 願い事を一つ残したまま、私は誰もが羨むような人生を手に入れたのだ。

 もうすぐ、下界で声をかけた食べ頃な男の子たちがやってくる。未成年で犯罪だが、関係ない。私には金がある。

 世の中、所詮金。

 金さえあれば、なんだってできる。

 お小遣いをもらえる上に、誰もが認めるイケメンに抱かれるのだ。男の子たちも、悪い気はしないだろう。


 ――トサッ


 今夜の男の子に胸踊らせていた私の耳に、かすかな音が届く。妙に、一週間前のことを思い起こされる不気味な音に、恐る恐る振り返ると、ガラスのローテーブルの上に、見覚えのある黒い段ボール箱があった。さっきまでは、今夜の男の子のために用意したシャンパンとクスリだけしかなかったはずなのに。


「いやいや、そんなはずは、そもそも……」


 今、金庫の中に保管してある猫の手以外は、捨てたはずだ。


「ああ、そうか、追加の猫の手だな」


 そうだ、そうに違いない。

 箱を開ける手が震えているのは、嬉しい予感のせいだ。そうに違いない。

 箱の中に、猫の手はなかった。

 あったのは、封筒だけ。


『猿の手の間違いだろ』

『猿の手じゃないすよ。猫の手ですって。なんすか、猿の手って。で、その猫の手は、どんな願い事でも叶えてくれるらしいんすけど、レンタルなんすよ。だから、一週間のレンタル期間をすぎると、願い事は全部なかったことになるんすよ。一週間で願い事がなかったことになるって、虚しくないっすか。だったら……』


 不意に、あの夜聞き流していたアイツの声が脳裏に蘇る。

 願い事がなかったことになるだって? 冗談じゃない。


 震える手で、封筒の中身を取り出すと、前回はなかったはずの返送用の伝票と、今日中に返送するようにと書かれた書類も。


「冗談じゃない」


 なかったことにされてたまるか!

 明日から、また一週間前の人生に戻れとでも。無理だ。会社にまだ籍はあるだろうが、居場所が残っているわけがない。


『だったら、レンタル期限を無制限にするとか、猫の手を所有することを願えばいいんじゃないかって……』


 そうだ、それだ!!

 アイツの言った通りにすればいいんだ。

 まだ、あと一回、残っている。


 金庫を開けて、私は願った。

 猫の手が私のものになるようにと。

 これで、安心だ。

 もう、恐れるものはなにもない。

 まだまだ金はある。

 役目を終えた猫の手を金庫に戻して、生きた心地を取り戻していると、今夜の男の子の到着を知らせる音がした。


















『でも、そういうズルいのは、規約違反なんすって。規約違反すると、どうなるか知らないすけど、ろくなことにならないに決まってますよね。だから、やっぱり一週間でなかったことになってもいい願い事じゃなきゃいけないんすよ。虚しいっすよね。ま、所詮、ネットの噂ですけど』



















 にゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん

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