猫とTシャツを追いかけて
山本アヒコ
猫とTシャツを追いかけて
臼井波奈は猫とTシャツを追いかけていた。正確には、Tシャツを頭からかぶった猫を。
「うわっ。風すごっ」
音をたてて揺れる窓を見てつい言葉にしていた。
窓の外で吊るされている洗濯物が激しくはためいている。ほとんど地面と平行になっているのを見て、悪い予感がした。
それは現実となった。
耐えられなかった一枚が風にさらわれていく。
「あー! 私のTシャツー!」
まだ一口もつけていない紅茶の入ったカップを叩きつけるように置くと、外へ出るために駆け出した。
「くそー、届かないかー」
落ちていた木の枝を持ち、頭上に伸ばしていた波奈。しかしTシャツは枝の先から一メートル以上高い場所にある。
遠くまで飛ばされはしなかったのだが、自宅マンションが高い位置にあったのが災いして、彼女には手の届かない高さの木の枝に引っかかってしまったのだ。
強い風に思わず腕で顔を覆った。春になったばかりの風はまだ冷たい。
「何でハンガーごと飛んでいくかな」
Tシャツはハンガーにかけていたのだが、強風はハンガーを壊すほどの力で吹いた。
「どうしよう」
木の幹は太く波奈が手と足をかけて登れそうな場所もない。
持っていた枝を捨て、もっと長い枝はないかと探す。
「おっ、猫だ」
血統書があるような見た目ではない、よくいるトラ猫が少し離れた場所で波奈を見ていた。
「きみが取ってきてくれればいいんだけどなー。お願い」
頭上のTシャツを指さしたあと、両手を合わせて頼む。すると猫は小走りに木へ駆け寄ると、するする登っていく。
「マジで? やった!」
猫がTシャツのそばまできたとき、また強い風が吹いた。Tシャツは浮かび上がり、猫へ向けて飛ぶと頭から絡みついた。
「フギャー」
パニックになった猫は地面へ向けて落ちていく。波奈は受け止めようとしたが間に合わなかった。
Tシャツごと地面に落ちた猫はすぐに起き上がった。うるさいほど鳴っている心臓を胸の上から押さえて、波奈は息をはく。
「はー、よかった……え? 待って」
起き上がった猫は走り出した。Tシャツをかぶったまま。
「かえしてー、私のTシャツー!」
前が見えていないはずなのに、猫は見えているかのように真っ直ぐ走る。時おりいる通行人や自転車も器用によけていた。
「このやろー。毎日自転車通学している私をなめるなよー!」
全力で手足を振って走る波奈は猫とデッドヒートを続ける。
猫が右へ急に進路を変えた。スピードを落とさないまま曲がると、波奈の目に意外すぎる光景が飛び込んできた。
帽子とマスクで顔を隠した男が、老齢の女性のバッグを引っ張っていたのだ。女性は両手で必死に抵抗しているが男の力にはかなわない。バッグを奪った男は逃げようとして、思わず動きが止まった。
Tシャツをかぶった猫と全力疾走の少女が、こちらに向かって来ていたからだ。
男が立ち尽くしているうちに猫はすぐ近くまで来ている。そして、男に向かって飛びかかった。
「うわっ」
男は手で振り払う。猫とTシャツがついに離れる。
その隙に波奈も接近していた。彼女は空手部だった。
「シッ!」
走る勢いはそのまま地面を蹴って体をひねり、得意技の後ろ回し蹴りを男の胸へ遠慮なくお見舞いした。
通報して駆けつけてきた警察官に、波奈は質問される。
「君は偶然ひったくりの現場を見たんだね?」
「私は、猫とTシャツを追いかけていて……」
猫とTシャツを追いかけて 山本アヒコ @lostoman916
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます