山猫の手も借りたい

鯨ヶ岬勇士

山猫の手も借りたい

「寒いな」


 1909年——東洋のモスクワと称される街の、10月の空っ風を浴びて男は思わず呟いた。本格的に冷え込むのはこれかららしいが、それでも日本生まれの男には耐えがたいものがあった。


 彼は屋根の上に身を隠し、そこから駅を覗き見た。その姿はまさしく猫——いや山猫であった。


「早く来いよ、箒ジジイ」


 彼は狙撃の名手やまねこ、その腕前から二度の大陸での戦いでも功績をあげた老兵だった。だが、そのようなものは夏草とともに枯れ逝き、その夢の跡をわずかに残すばかりだった。


 そうして金さえ積まれたならば、正義も関係のない奇兵と化していた。そのような彼がこのような北のはずれで銃をいだいているのは、この駅に到着する老爺の頭を撃ち抜くためであった。


 その老爺は、今でこそ政府の中枢——それどころか頂点にまで上り詰めたが、若い頃は革命だなんだと言って相当無茶をしたらしい。その痛手を受けた仇敵からの依頼が男に舞い込んできたのだ。


 当初こそ、その足取りを追うのは難しいかと思われたが、その老爺の女遊びの派手なことといったらなく、方々の芸者やまねこに手を出していたので、あっさりと話を聞くことができた。


 一流の芸者やまねこならば、主君を持たない狙撃手やまねこに酒の席での話などすることはないだろうが、老爺が遊んでいたのは二流、三流の芸者やまねこ——金を少し積めば、ロシアのお偉いさんと非公式に話し合いに行くことなどをすぐに話し始めた。向こうも自分と同じ根無草、家を持たない猫なのだから餌にすぐ釣られる。


 そうしているうちに列車が駅にゆっくりと止まり始める。まだだ。まだ焦るな。一発でも外したら、すべてがお終いだ。一発のうちに撃ち抜かなくては、すぐに警戒されて逃げられてしまう。男は早る気持ちを必死に抑え込んでいた。


 こちらは空っ風で唇が乾いて割れそうなのに、向こうは20分近くも列車の中で話し続けている。早く出てこい。そんな苛立ちからも引き金に指をかけそうになるが、それを必死に抑え、指を無理やり伸ばした。


 ようやく出てきた老爺は整列した兵士と群衆に囲まれ、何かを話したり、握手をしている。やっとだ。やっと待っていた時が来た。男は引き金に指をかけ、人の隙間から、その頭を覗かせるのを待った。距離はおよそ200m、撃ったらすぐに逃げる。群衆はきっと慌てふためき、兵士たちは政府高官たちの警備や応急手当にと大忙しになるはずだ。そこを狙って逃げる。完璧な計画だ。


 ぱん、ぱん、ぱんと軽い音がする。響き渡る七発の銃声。男は咄嗟に自分の指を見た。自分は引き金を引いていない。どういうことだ。目を凝らすと、兵士たちに取り押さえられる男の姿が見える。


 あのような距離で撃ったら、捕まるか、撃ち返されるかは明らかなのに撃つなんて——あいつは自分達ではない。おそらく革命家か何かだろう。


 男は最初はどうすべきか眺めていたが、老爺が動かなくなるのを見ると、自分も群衆に紛れてその場を去った。


 依頼主には何と報告するか——それは簡単だ。仕事は成功した。相手は死んだ。それで良い。


 俺たちは忠犬じゃない。俺たちは猫だ。餌さえ貰えれば、誰にだってついていくし、そのためなら義なんて気にすることはない。きっと、時間が経てば、依頼主も自分が撃ったのではないことに気がつく。


 しかし、その時に自分はもういない。山猫の手を借りたらどうなるのか。良い勉強になることだろう。

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山猫の手も借りたい 鯨ヶ岬勇士 @Beowulf_Gotaland

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