縁結び
群青更紗
第1話
電車通学をしていたことがある。自転車10分、徒歩の場合は30分という、およそ「最寄ってねぇよ」と言いたくなる距離に有ったその最寄駅は、全線通して8駅しかない路線の駅だった。たった8駅なのに間に単線駅を3つも挟み、ひとつの遅延が大きく影響する。上り・下りの終着駅とも田舎であり、通勤ラッシュの時間帯でも1時間に3本しかなかった。
このため通学・通勤で乗り合わせる面子は大体決まっている。名は知らずとも顔は覚えてしまう。覚えたくなくとも覚えてしまう。そのうち座席さえ指定席のようになってくる。そんな暗黙のルールは吹っ飛ばすに限るが。
さて、そんなある日のことである。その日は雨天と事故のダブルパンチで、恐ろしいほど混んでいた。おそらく本来ならダイヤ3本に分けられて乗車していたはずの利用者が、哀しき運命のブッキングによりひとつのダイヤに詰めるしかなくなったのである。言い忘れたがこの路線は、多くても3両編成しか走らない。驚くなかれ、最短は1両だ。バスか。
さておき。
何とかいつものボックスシートに座ることが出来たが、今日は通路まで満員である。密度と湿度が高い。夏の始めだったと思う。あっという間に曇る窓。ボックスシートの面子は見覚えのあるようなないような、とにかくいつもよりお互い何となく申し訳ないような苛立つような空気で、ひとまず私は鞄から単語帳を取り出した。その時。
(……?)
視界の端の人物に、何かを感じて顔を上げた。通路に立つ男性だった。
彼は整った顔をしていた。切れ長の一重、やや吊り上がった眉、物静かに結ばれた唇、白い肌。しかし注目すべきはその髪型と持ち物であった。彼は見事な禿げ頭であった。耳の上から横一文字に、髪のあるところと無いところがはっきりと分かれていた。そしてその手にあるのは、扇子と呼ぶには大きい。扇であった。どう見ても扇であった。大きく柔らかく仰いで風を呼ぶ扇。
――殿!!!!!
瞬間、私の中の武士が土下座した。どう見ても殿であった。禿げ頭は月代を剃ったそれであり、丁髷が無いだけで十分に武士ヘアスタイルであった。何より扇である。今でこそ扇子は「ハンカチ・ティッシュ・財布・扇子」の勢いで持ち物リストに加わるが、このころはまだメジャーな持ち物ではなく、だのに彼はそれを上回る存在・扇を持っていたのである。そして整った顔立ち。服がスーツだから何だというのだ。どう見ても殿だ。殿!!本日もご機嫌麗しゅう!!その時。
電車が急停車をした。通路の人々は一斉によろけ、殿もその中にいた。しかし殿はその表情を一切崩すことなく、姿勢さえ大きく崩さず慣性の法則に従いつついなしていた。アナウンスが流れた。
「お急ぎのところ大変申し訳ございません。信号停止につき、しばらくお待ちくださいませ」
――殿ぉぉぉーーーーー!!!!!
私の中の武士が再び土下座する。殿ぉ!大変、大変申し訳ございません!何卒、何卒どうか、しばし、いましばしお待ちくださいませ!!!
殿はそんな私の中の武士には気付かず、ただ少しだけ眉間に皺を寄せ、湿度と密度と停滞を清めるように、先ほどより少し大仰に扇を仰いでいた。
電車は少し後に動き出し、殿は次の駅で降りて行った。私の中の武士が大袈裟なくらいに頭を下げて殿を見送ると、私はまた単語帳に目を落とした。殿を讃えるのに必死でこの日の単語テストはかなり危ない橋を渡ることになった。殿とはその後、私の卒業まで何度か乗り合わせることになったが、いつ見ても立派な殿であった。
これ以降、私は月代の禿げた人を見ると「殿禿げ」と言ってしまう。しかしそれがまさか、大学時代に「住む世界が違う」と思っていた芹香と親友になるきっかけになるなど思っていなかった。
「紗矢は四文字で私の心を掴んできた」
同窓会の雑談の中で、誰かが禿げについて言及(差別発言ではない)した際、ついいつもの思考の癖で「え、殿禿げってこと?」と言ってしまった私の横で、芹香が酒を吹いた。まずいことを言ったのかと思い、「いや、昔ね、殿を見たことがあってね」と説明したところ、言えば言うほど芹香のツボを突いたらしい。学生時代、私が一方的に深窓の令嬢と思っていたのは本当に一方的なものだったのだと分かった。
そういう訳で、殿は私のヒーローである。ありがとう、殿。
縁結び 群青更紗 @gunjyo_sarasa
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