私だけのヒーローになることを約束させたメイドと覆面作家

小早敷 彰良

メイドは忘れている

 現代的な高級マンションのエントランスで、黒いロングコートの若い女が小声で悪態をついていた。

 彼女が頭を振ると、長い前髪とハーフアップから雨雫が飛び散った。全身びしょ濡れで、大雨に降られたと一目でわかる恰好だった。

「ああ、最悪」

 エントランスの大きく立派な一枚ガラスからは、外の様子が一望できる。雨雲で暗い夜空をちらりと見て、女はもう一度罵ってから、くしゃみをした。

 目立つその姿のそばを、何人もの住民がすれ違う。彼らは、くしゃみをする彼女を心配そうに見はしても、エントランスを濡らすことに言及はしない。

 彼女は、この高級マンションのオーナーだ。このマンションの住民は全員、彼女と契約を交わしている。

『オーナーが何をしていても黙認すること』

 それが、彼らがこの快適で清潔なマンションに住む条件の一つだった。ゆえに、彼らは彼女に声もかけずに去って行く。

 チーン、ときれいな鈴の音が鳴って、エレベータから小柄な影が進み出た。

 黒コートの女に仕えるメイド、杏里だ。

「まあ、お嬢様。今日はずいぶんとおいたしましたね」

 彼女は手に持った清潔なタオルで、彼女の主を拭き清めていく。きっちりと髪を夜会巻きにまとめた、目元の泣きぼくろが印象的な若い女だった。

 お嬢様と呼ばれたずぶ濡れの女は、杏里に拭かれるがまま、タブレットを取り出した。

「この街が、悪い」

「まるでどこかの蝙蝠男のようなことを」

 揶揄するメイド長に、少し眉をあげるも、彼女は反論せず作業を始める。

 タブレットでSNSを開き、どこかの壁面に書いた絵をアップロードする様子は、手慣れている。まさか、その行為で街を救っているとは、誰も気がつかないはずだ。

 絵画は、どこかの道路の壁面に書かれていた。覆面アーティスト『クレア』の新作だった。価値は数千万から数億に上る。

 投稿を見たある若者は家の中で微笑み、オークショニアは明日の競売のプログラムを考えた。

 そして、この嵐に乗じて暴れようとしていた若者たちは一獲千金を夢見て、アーティストの新作を手に入れることに体力を使うことにした。

 彼女は、この街のヒーローだ。その才能で、この街を救っている。

 安全、仕事、娯楽。彼女は、治安の悪い街だったこの街の、鬱屈した若者全てに必要なものすべてを持ってやってきた。

 覆面アーティストである彼女が唯一公表している情報は、この街のどこかに住んでいるという事実のみだった。

 メイドはそっと笑う。この街の王女様であるアーティストは、今、目の前で、くしゃみをしている。

 その秘密は、彼女にとっては、クレア本人と同じくらい大切なものだった。

 黒いコートのクレアが、くしゃみの拍子にタブレットを落とした。

「お嬢様ったら」

 拾おうとした手は、ぴたりと動きを止めた。

 彼女の代わりに、興奮した手が伸ばされている。重装備のカメラを構えた女が、感動に震えながら手を伸ばしていた。

 一か月前からこのマンションに住み始めた住民が、カメラを持った女を止めようとしているが、彼女は止まらない。

「これは、クレアさんのアカウント、しかも、たった今、投稿したのでは!?」

 オーナーに話しかけようとする連れを止めようとしていた住民は、ハッとした顔でオーナーを、クレアを見た。

 カメラを持った女が興奮しきった顔で、クレアの前に進み出る。

「私、デイリーイエローペーパーで記者をやっております! クレアさんですか? ぜひインタビューを!」

 クレアの表情は、濡れた前髪によって見えない。

 メイドの杏里はひっ、と声を漏らした。がたがたと彼女は震えだす。

 なぜ、クレアと同じくらい、クレアが覆面作家であることが重要なのか。

 それは、杏里自身が望んだからだった。

 この街にやってくる前、少女だった彼女たちは、そっと約束を交わした。杏里はクレアに秘密の共有をねだり、クレアは交換条件と共に杏里に頷いた。

 クレアに覆面作家であることへのこだわりはないと、杏里は思っていた。

 そのことを察したのであろう記者は、にやりと笑った。

「現代は匿名性を保つより、自我を発信して、ファンを作る時代です」

 記者は尤もらしい理屈で、クレアの秘密を暴くため迫る。

 クレアはふむ、と頷いたのを見て、杏里は目の前が真っ暗になった。

 杏里が握るタオルから、汚れた水がしたたり落ちる。

 約束をしたのは、快晴の夏の出来事だった。青く抜けるような空の下、クレアとなる前の少女は、大きく頷いて笑っていた。

 杏里は自分がどういう顔をしていたか、もう覚えていない。

 記者は雨の都会を背景に、嬉しそうにクレアに話しかけている。

 忘れていた罰が当たったのだろうか。目の前の光景を見ていたくなくて、杏里はうつむいた。

 長い前髪のクレアはそっと、記者に向かって踏み出した。

 記者が目を輝かせ、次の瞬間、怒号を挙げた。

 杏里の視界の端で、きらりと流れ星が通ったようだった。

 彼女が顔を上げると、粉々になったガラスが、そこらじゅうに散っていた。カメラもタブレットも、エントランスに面した大きなガラスも、すべて砕けていた。

 物を投げた体勢のまま、クレアは記者の罵倒を受けている。

「何をするのですか。クレア、得体の知れないアーティスト風情が」

「クレアじゃない」

「はぁ!?」

「私はクレアじゃない」

「むちゃくちゃだ!」

 心底困った表情で、クレアは杏里の耳に口を寄せて、囁いた。

「約束、守ってくれる?」

 そう、杏里ではなく、クレアが問うた。

「秘密を守る代わりに、杏里は私のメイドになるって。守ろうと頑張るけど、だめかも。でも、約束、守ってくれる?」

 杏里は忘れている。

 約束をねだったのは、クレアとなる前の少女からだった。

 その交換条件として、杏里は才能あふれる彼女が覆面作家となる、ヒーローを我が物とするような、無理難題を引き合いに出したのだと。

 クレアは覚えている。

 目の前の、誰のヒーローにもなれる彼女を自分だけのヒーローにするために、彼女だけのヒーローにでも、何にでもなると決めたことを。

 夏の日、白い雲を背に、杏里ははにかみながら頷いて笑っていた。

「私、まだ、杏里にメイドしてほしいんだけど、守ってくれる?」

 長い前髪の影から、きらきらとした緑色の眼が覗いている。

 期待と甘え、そして少しの不安がちらつく眼だった。杏里が忘れた、いつかの自分自身がした眼だった。

 そっと頷いた杏里を見て、クレアは安心したように笑った。

 記者が怒鳴る。

「クレア! なんてことをするんだ!」

「私、クレアじゃない。ただのマンションオーナー。あなた、いろいろ見間違いしてる」

 バレバレの嘘でごまかそうとする彼女に、ついに、記者を含めた全員が笑ってしまった。

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私だけのヒーローになることを約束させたメイドと覆面作家 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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