パラサウロロフスはうるさくない(ノベルバー2021)
伴美砂都
パラサウロロフスはうるさくない
西浦というその小さな町のことを私はなにひとつ知らなかった。有名な町ではない。知り合いが住んでいたわけでもない。だれもいないところに引っ越したい、と言ったとき、私はきっと、もう疲れ切っていた。
さびれた町だと思ったが意外なほど空き家は無かった。小さな中古住宅は角地だが反対側の隣には同じように小さな家があった。もっとべつの町でもよかったし、もっとだれもいないところを探せばよかったのに、そんな気力もなく、逃げるように移り住んだ。
健二はいままで住んでいた街なかのマンションからしばらくは仕事に通うと言った。落ち着いたら引っ越してくるよと言っていたけれど、もう来ないんじゃないかとうっすら思っている。
夜明けまえだった。いつものように目を覚まして大きな声を出し始めた龍雅を抱きかかえて私は外へ出た。ともかく車に乗せてどこか近所を走ってこようと思った。抱えられた龍雅は嫌がって暴れ、無理やり地面に降りる。歩きたいのだ。最近はもう、暴れられると抱っこしていられないようになってしまった。これからもっと大きくなって、大人になってしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。
リュックサックにつけた、ゴムで伸びるタイプのリードがぐんと引っ張られる。ペットみたいと非難する声、非難された人を擁護する声。ほんとうはきいたこともないさまざまな声が頭のなかで大きくなってあふれそうになる。恥じてしまったら無責任に非難する人と同じになってしまうのに、私はまわりにだれもいないときだけしかこれを龍雅につけられない。
町はしんとしている。かすかに潮の匂いがするのは海が近いからだけれどここからは見えない。外へ飛び出そうとする龍雅を必死で引っ張りながら駐車場へ向かおうとしたとき、かちゃんと音がして、隣の家の門が開いた。心臓がどきんとして、背中と胸がつめたくなる。
出てきたのは小柄なおじいさんだ。隣家に住む、磯浜さん。一人暮らしで、ほとんど話したことはない。よく庭の手入れをしていて、通りがかりに挨拶をすれば、会釈してはくれるけれど。磯浜さんは仏頂面のままこちらを見、目が合った。リードの先で思うように進めず癇癪を起こした龍雅が、ギャアア、とまた声を上げた。
「障害があるんです!」
叫んだ、私の声はうるさかった。磯浜さんはなにか言いたげに口を開けたように見えた。そして、また閉じた。
「夜に目が覚めると叫んで止まらなくなるんです!すぐ連れて行きますから!!ごめんなさい!!!ごめんなさいすみません申し訳ありません!!!!!」
リードを力いっぱいこちらへ引っ張った。龍雅が、ぐえっと苦し気な音を立てた。あ、殺してしまうかもしれない、と思った。そうすれば私は犯罪者だ。鬼畜の犯罪者。磯浜さんは黙ってこちらを見ている。怒っているだろうと思った。怒られるだろう。数多のおじいさんに、いやおじいさんだけじゃないけど、たくさん、たくさんのひとに怒られて、ようやっとここへ逃げてきたのに。
磯浜さんはしかししばらくの沈黙のあと、ふっと息を吸い、斜め上を見て大きな声で言った。
「わしゃあー、耳が遠いから、ちっとやそっとじゃあ、わからん!!!」
「え、」
でかい声だった。呼応するようにどこかでにわとりがコケッコッコーと鳴き、犬の遠吠えがそれに重なった。
「わからんが、歩いて行くなら、海がええ」
そして、龍雅が必死になって行こうとしている先のほうを指さす。そうだ、あちらへ行けば、海に出る。
「浜じゃあ、どんな大声だしても、だれも聞いとらん」
「え、……っと、」
「それがありゃあ、落ちてかんから、いいだろう」
「……、」
磯浜さんが次に指したのは、私の手にあるリードだった。
「……いい、ですか」
「そりゃあな、このあたりの海はまあ、荒れんが、用心に越したこたあない」
ありがとうございます、と言った私の声はまだ続いていたどこかの犬の遠吠えにかき消されるほど小さく、磯浜さんには聞こえなかったのか、うーんとひとつ背伸びをしてから、反対方向へ歩いて行ってしまった。いや、でも、ちがう、さっき、私たちはふつうの声で話していた。ゆっくり行く後ろ姿はジャージ姿で、派手な色のタオルを首に巻いている。この時間に散歩するのが、日課なのかもしれない。しらじらと夜が明けはじめていた。
浜には先客がいた。二十代半ばぐらいだろうか、端正な横顔の青年がひとり立って、スケッチブックに鉛筆をうごかしていた。あっと思う間もなく、龍雅は砂浜の中ほど、その青年からほど近いところへ走って行ってしまう。リードの伸びるぎりぎりのところで止まると、うあああああーおおお、と叫んだ。慌てて隣まで走る。青年は一度こちらを向き、しかし、目は合わなかった。
「ごめんなさい、うるさくして、」
「……」
「……夜中に叫んでしまうんです、……いやなことや、こわいことがあると、もっと止まらなくなるんです、テレビに気に入らないものがうつったとか、そういうことだけでも、……あの、」
青年は海のほうへ視線を戻し、しぱしぱと何度か瞬きをしたあと、スケッチブックのページをすっとめくった。めくられる前のページには白と黒の線だけなのに、水平線を朝陽が照らし始めるさまが鮮やかにえがかれていた。
「パラサウロロフスはうるさくない」
「え」
早口だった。けれど、パラサウロロフス、という言葉に聞き覚えがあったから聞き取れた。龍雅の好きな恐竜の種類のうちのひとつだ。機嫌がいいと何度も恐竜図鑑を読まされるから、覚えてしまった。そういえば、パラサウロロフスという恐竜の頭には、斜め後ろにむかって大きなこぶかトサカのようなものが伸びていた。
「パラサウロロフスは後頭部にある筒状のトサカから音を出したといわれている」
「……え、」
「あ、……います」
「……、」
「トサカの内部は空洞になっており鼻腔まで繋がっていてオーボエのような音を出せたようです」
「……そう、なの」
「仲間を呼ぶための共鳴器であったとも言われますが真相はわかりません」
「……、そう」
「推察するにそれは大きな音だったと思われます、パラサウロロフスの全長は八から十メートルもありそのぶん頭部も大きいので現代に現れたと仮定したらかなりうるさいといっても過言ではないでしょう、でも、それは恐竜としてはうるさくないです」
「……、」
「その生きものそれぞれの、適正な音量だと思われます」
少年、と、青年は龍雅に呼びかけた。その間にもスケッチブックの上を鉛筆を持った手が滑る。ひとの呼びかけに応えることが滅多にない龍雅が、ふっと一度だけ、彼のほうを見た。
「怖いことがあったときはそれを一度集めましょう」
「うああああ」
「まず浜に来て、海に落ちてはあぶないから水から離れたところに立ちます」
「ううううう」
「パラサウロロフスのようにトサカに集めて、海まで飛ばしましょう」
「うううう、……ん」
「やってみます、……おおおおお、お!」
「おおおおお、お!」
「おおおおおお、お!」
「おおおおおお、お!」
二匹のパラサウロロフスが共鳴するように、彼らは力いっぱい叫んだ。そのとき朝陽が、ぱあっとまっすぐに水面を照らした。美しくて、美しくて、ほろほろと涙がこぼれた。磯浜さんが言うとおり、この浜の海は穏やかでまるで平原のようだ。
ぎゅっと握りなおしたリードはゆるんだまま少し砂を擦った。青年は龍雅に一枚の絵を手渡した。そして向こうを向くと、今度はもうこちらへ意識を向けることなく次の絵に取り組み始めた。
リュックにしまうからね、と言ったのがわかったのかどうか、龍雅は手のなかの絵を私が取っても怒ったりせず、なにも言わずに海を見つめていた。
絵のなかには西浦の海をまなこに映すパラサウロロフスの横顔があった。絵だけなのに、パラサウロロフスがその後頭部から音を奏でていることがよくわかった。適正な音量で共鳴する、うるさいけどうるさくないパラサウロロフスだ。流れる涙をそのままに、私もしばらく海を見ていた。
パラサウロロフスはうるさくない(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan
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