王子だろうと、英雄だろうと

蜜柑桜

いつまでこいつの英雄でいられるかな

 今日の海は、やけに機嫌が悪い。


 海猫の鳴き声もせぬ深夜。いつもなら細く開けた窓の向こうから、木擦れのような優しい漣が心地よく耳を楽しませるはずだ。しかし今夜は、船着場に寄せては砕ける波の音すら聞こえない。

 窓の玻璃を叩く風の音は五月蝿く、規則性を崩した荒波が海面を打って鳴る。

 ——遠洋船は正しく出航をやめただろうか。

 そんな不安を覚えて、青年は窓に近づき玻璃に手をかけた。それと同時に、青年の背後で蝶番が控えめな音を立てる。

「——まだ起きてたのか。どうした?」

 振り返りざまに声を掛ける。扉の前に立ち尽くした小さな訪問者は、胸に書物を押し当てて黙っている。自分を見つめる濃紺の瞳に浮かぶのは、恐怖。

 青年は窓にかかった布を引き、見る者を飲み込みそうな闇の海を訪問者の視界から消した。

「眠れないのか。書庫の本を読んでいて?」

 訪ねてきた少女は、昼間には編み込んでいた髪の毛を解き、寝巻き姿で裸足のままだ。正面で腰を落として目を合わせ、自分と同じ色の瞳を覗き込む。すると少女はやはり無言で青年に抱き付いてきた。その拍子に手にしていた本が落ちる。昔話や伝説を集めた子供向けの作品集か。

 青年は少女を抱き上げると、片手で本を拾い上げた。そのまま自分の寝台に運んでやり、そっと布団の上に座らせる。

「また書庫から持ち出して。今日はどれを読んでたんだ」

「……すごく昔のこの国のおはなし。怖いひとたちがたくさん出てきた」

 青年が隣に座ってやると、少女は小さな声で話し出す。理不尽な行いで民を苦しめた古代の為政者の史実か。

「あとある人が悪いことしたら海が怒って、ほかの人もみんな飲み込んじゃうはなし」

 それは自分も昔読んだ記憶がある。この国に伝わる海神の伝説、寓話だ。

「そりゃ怖いな。それから?」

「暗いところに閉じ込められちゃうのに、誰も来てくれないはなし」

「誰も?」

 少女は黒に近い髪を揺らしてこくんと頷く。膝の上で拳がぐっと握りしめられ、寝巻きに皺が寄った。

「ほかのお話ではそんなことないのに。悪い人が来たり怖いことがあったらおうじさまが来るのに」

 確かに少女がこれまで好んで読んでいた話には、歴史の中で語られた英雄譚や女児向けの姫と王子の童話が多い。容赦ない災厄や戦禍の話は初めてだったのだろう。

「もし海が迫ってきたり、怖いひとが襲ってきたら、どうしよう……あたしのとこにも、誰も来なかったらどうしよう」

 震える声はいまにも泣き出しそうだ。それでも目を見開いて涙が出るのを我慢している。

 青年は震える少女の小さな背中をさすりながら、本を見えないところへおく。

「大丈夫だよ」

 誰も助けに来てくれない。自分が決して与せぬものばかりの中に独りで立たされて、それはどんなに恐ろしいだろう。だが——

「兄さんが助けるから」

「ほんとう? 兄さん、絶対に来てくれる?」

 まだ半信半疑の瞳がこちらを見上げる。信頼と無垢。

「ああ、何があっても、絶対にお前のところにだけは行くから。離れたりしないから」

 どんな状況に陥ってもこの子を守れるなどという保証なんてない。嘘偽りになるかもしれない。それでも怯える妹を前に言わずにいられない。

 少女の顔が安堵に綻ぶ。

「じゃあ兄さん、あたしだけのおうじさまだね。おうじさまはね、いつでも来てくれるの」

「うん」

 疑いを知らない笑顔に本当のことを教えるのは、あまりに早すぎる。

 御伽の英雄みたいになれるわけがない。無理かもしれない。そんなことは分かっている。そしていつかこの子も、兄の自分ではなく別の男性に心惹かれることも。

 だが、少しの間くらいはこの嘘を許して欲しい。王子だろうと英雄だろうと、不安に怯えることがなくなるならば。


「約束するから。必ず一緒にいるから」

 いつか彼女だけの英雄が現れるまでは。


 波音は止まず、風が鞭打つように窓を叩く。

 平穏はまだ遠い。緊張を解いて目を瞑る妹を、青年は優しく抱き寄せた。

 この狭い部屋の中にいる時くらい、少女の心に英雄が訪れるように。







 ***少女と青年が、別の誰かと出会うずっとずっと前のお話***


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