湖の側で

しらす

レリナとアルド

 もう、我慢していられない。

 あんな大勢の者たちの前で恥をかかせようなどと、王という立場の者がすることではないでしょうに。


 耳の奥でいつまでもこだまする言葉を振り切るように走りながら、レリナは頬を真っ赤に染めていた。


 質素な黄土色のローブにスカートという姿で、レリナはエルフの王族同士の会合の場から抜け出した。

 淡い葉裏のような薄緑の髪に、透き通る森の泉のようなみどりの瞳をした彼女は、その姿に似合う白い衣装をまとえば誰もが振り向くような立派なエルフの王だ。

 けれど髪をフードの奥に隠し、白い足も靴で覆ってしまえば、誰の目にもつくことなく抜け出せた。

 そんな抜け出し方を教えてくれた青年の、穏やかに微笑む顔が頭に浮かぶ。


「アルド……アルド……」

 切れ切れの息で、繰り返し彼の名前を呼びながらレリナは走り続ける。

 そんな彼女の頬を、細い木の枝がパシリと叩いた。


 大樹の国のエルフ王として生まれた彼女にとって、森の木々は親しき友人であり、守るべき民にも等しいものである。

 けれどこの国の森を支配するのは、山の王と呼ばれる年かさのエルフだ。そしてその山の王は、王たちの集まるその場でレリナを、そして彼を侮辱した男だ。


 そんな男が治める森だからだろうか。

 長いスカートの裾は走る間に泥にまみれ、灌木かんぼくの茂みによって切り裂かれ、レリナの白い足すらも傷つけていた。

 けれどレリナは痛みを感じない。それよりも痛むのは彼女自身の胸だったからだ。


「どうして、何も言えないのよ……!」


 目の端にじわりと滲んだ涙をぬぐったその時、レリナは目の前に転がっていた朽木くちきに足を引っ掛けて転んだ。

 バシャッとぬかるんだ地面に体を投げ出してしまい、彼女の服は水と泥で黒っぽく染まる。

 水を吸って一気に重くなった衣服が手足に張り付いて、足を上げるのも億劫おっくうなほどに重くなった。



 ああ、なんという事だ。やはりあの男の呼び出しになど応じるべきではなかった。


 薄暗い森の中を抜ける風は冷たく、濡れたレリナの体を更に冷やそうとでも言うかのように吹き付けた。

 歩くのもままならない足を、レリナはそれでも前へと進める。

 目的の場所はもうすぐそこだった。


 と、ぽっかりと森が開けた。

 目の前に広がったのは、こんな威圧的な森には似つかわしくないほど、透き通った小さな湖だ。

 最初にこの国に来た時に、あまりの居心地の悪さに倒れたレリナを、彼が連れ出してくれた場所。この国で唯一、穏やかな魔力が流れている場所だ。


 レリナはガサガサとやぶき分けると、その湖に駆け寄った。

 青く透き通った静かな湖面は、波立った心を落ち着かせてくれる。

 ふうと息を吐いてから辺りを見回すと、その傍らにある岩の上に、ぽつんと一つ、黒っぽい人影が立っていた。


「アルド、あなたもここに来ていたの……?」

 声を掛けると、レリナのいる方に背を向けていたアルドは、驚いたように振り返った。

「レリナ!? 今頃はまだ会談の途中では? いやそれよりも、そんなに濡れて!」

 びしょ濡れで立つレリナを見て更に目を見開いた彼は、岩から飛び降りてくるとレリナの側へ駆け寄ってきた。


「いけない、風邪を引くからそのローブは脱いで。これを着てください、さぁ!」

 言うなりアルドは自分の黒いローブを脱ぎ、問答無用でレリナのローブを脱がせにかかった。

「大丈夫よ、木々の魔力の濃いこんな場所で、私が風邪なんて引くわけがないわ」

「ここは異国ですよ! この森の木々は大樹の国のそれほど優しくはない。それにそんな格好ではかえって人目につきます、さぁ早く!」


 早く、早くと急かすアルドは、心配そうにきつく眉を寄せていた。

 海のような青く鋭い目が更に細められ、黒いうろこに縁どられたあごが強張ったその顔は、見慣れない者が見れば一歩後ずさるほどに恐ろしげでもある。

 しかしレリナは知っていた。このアルドという青年がそうして険しい顔をするときは、何かを真剣に案じている時なのだと。



 湖の王の護衛としていつも行動を共にする彼は、そのエルフとしては異形の姿を、頻繁に王たちの会談の場にさらしている。

 だがその心根を知る者は少なく、その見た目と常に険しい顔のため、同族からも敬遠されている。


 山の王が彼を侮辱したのも、そんな場の空気を乱す彼が、寄合の場に来ていることが不快だったからだ。

 何より彼の主人である湖の王は、山の王が行おうとしている、ある重大な計画に唯一反対している王だ。

 人間が増えて住みづらくなったこの大陸の一部を、魔力によって浮上させ、エルフと妖精たちだけの楽園を築くという計画。

 それを実行すれば、地上からは膨大な魔力が失われてしまう。その影響は計り知れない、地上の者たちが苦しむかも知れないと、湖の王は反対しているのだ。



「ごめんなさい、アルド。何も言えなくて……いえ、言わなくて」

「……また山の王から何か言われましたか」

 借りたローブの前を合わせながら謝ると、察しのいいアルドは困ったようにレリナを見て微笑んだ。

 そんな事が起こり得ることも十分理解していて、彼は敢えて自分の行動を改めたりはしないのだ。


 アルドは主人である湖の王の懸念が正しいものだと考えていたし、話を聞いたレリナも内心では賛同していた。

 しかし大樹の国の代表としてのレリナが、自分の考えを勝手に貫き通すことはできない。

 そんな彼女の思いを聞いた彼は、「ではあなたのためにも」と言って力強く頷いた。

 自分の立場を悪くすると知っていながら、彼は背負っているもの全てのために、険しい顔で王族たちとの会合の場に立つのだ。


 その気高さを知っているからこそ、レリナは彼を侮辱されても何も言えなかった。

 彼は本当は優しいのだと、ただこの計画によって傷つく者たちをおもんぱかっているだけなのだと、そう言えば彼の努力は無駄になってしまう。

「優しさは弱さと同義だ」と言って、山の王は湖の王の懸念を退けているからだ。


 それを理解していても、何も言い返せない自分が、レリナは悔しくて悲しかった。

 王という立場に縛られている自分がもどかしくて、ただその場から逃げ出す事しかできなかった。



「泣かないでください、レリナ。自分の正しさを信じる者は時に逆風にさらされます」

 いつの間にかまたこぼれ出していたレリナの涙を、アルドの固い指がそっと拭った。

 穏やかな声と言葉に、レリナはしばしアルドの目を見つめ、深く頷いた。


「分かっているわ、アルド。でも悔しいのよ。山の王は私をお飾りの王だと言ったわ。それすら言い返せないのだから」

「王が自分のためだけに動けば、国の民全てを巻き込んでしまいます。自分を抑えて王でいるあなたがお飾りなどと、そんな言葉に賛同する者はよほど己の立場を知らないのでしょう」

 言いながらアルドは、レリナと爪先が触れ合う程の場所に立つと、不意に彼女の頭を胸に抱き寄せた。


「アルド!?」

 突然の事に戸惑うレリナを、両腕で引き寄せて包み込むように抱きしめると、アルドは彼女の肩に頭を乗せた。


「私はこれから旅立ちます。山の王はもう止められない。それでも黙って見てはいられませんから、一つの命令を受けました。その前にあなたにえればと思ってここに居たんです」

「そんな……そんな急に!」

「急ではありません。湖の国では王の懸念は周知されていて、既に対策もいくつか立てています。これはその一つです」

 少し腕を緩めてレリナに視線を合わせると、アルドはふっ、と微笑んだ。


 笑顔を見せれば本当に柔らかく、穏やかなその性格がはっきりと表れる。

 普段は滅多に人前では見せないその顔を、彼はレリナの前では何度も見せてくれていた。

 どうして彼が笑いかけてくれるのか、その理由は分からない。しかし彼のその笑顔に何度も救われて来たレリナは、寂しいというだけでは言い尽くせない胸の苦しさを覚えた。


 一体この気持ちはなんなのだろう。

 アルドに会うとたまらなく嬉しく、そして別れの時にはいつも感じる気持ちだ。

 太陽よりも温かく、芽吹いたばかりの若芽より柔らかなこの気持ちを、名づけることはまだ出来ない。



「……もう、戻らないの?」

 ようやくレリナが絞り出した一言は、消え入りそうに小さく、目の前の湖に吸い込まれそうだった。

 それでもアルドは聞き逃すことなく、首を横に振った。


「それは分かりません。私の目的とするものが見つかれば、その時点で戻れますし、見つからなくても他に策はあります」

「では、これで別れというわけではないのね?」

「ええ、きっとまた会えますよ。そのためにも、私は自分の役目を全うしなくては」


 そう言うと、アルドはすっとレリナの体から身を離し、胸に手を当てて礼を取った。


「行って参ります。私の大切なお方、あなたのために」

「えっ……」

「では!」


 最後に掛けられた意外な一言に、レリナは思わず手を伸ばしかけた。

 けれどその手が届く前に、アルドは素早く背を向けると、疾風のようにその場から走り去っていた。


 アルドに着せかけられた黒いローブには、まだ少しだけ彼の体温が残っていた。

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湖の側で しらす @toki_t

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