墓穴

尾八原ジュージ

黄昏時

「絶対誰にも言うんじゃないよ」と言ったとき、お姉ちゃんはとても怖い顔をしていて、それからすぐにそっぽをむいて咳き込んだ。サイズの合わなくなったシャツから伸びた腕はげっそりと痩せて、肘の骨が浮き出て見えた。

 神様というものをあたしはよく知らないけれど、もしも神様がいたとして、あのとき頷くしかなかったあたしを許してくれるだろうか。でも床にはまだお父ちゃんの死体が転がっていたし、お姉ちゃんは怖い顔をしていたし、あたしは子供で、しかもバカだったので、結局のところは黙って頷いてしまった。

 お姉ちゃんは、お姉ちゃんの彼氏のヒデオちゃんと、お父ちゃんの死体を外に引きずっていった。表で車のエンジンをかける音がした。

 あたしはひとりぼっちで家に置いていかれてしまい、やることが思いつかないのでテレビを点けた。夕方で、アニメをやっていた。普段は頼りない男の子が、好きな子のピンチになると無敵のヒーローに変身する。膝を抱えてテレビを眺めながら、本当にこんな魔法みたいなことがあったらいいのにと考えていた。少なくともあたしの一番来てほしいときに、こういうヒーローは来なかった。

 電源の切れた炬燵のそばには重たい灰皿が落ちていた。お父ちゃんの血と髪の毛と歯がこびりついていた。よくこんな大きなもの、何度も持ち上げたものだと思った。あたしの腕だってお姉ちゃんのと同じくらい痩せているのに。

(可哀想に可哀想におめぇ誰の種かわかんねぇんだもんな)

 お母ちゃんが出ていってからお父ちゃんはお酒を飲まないといられなくなって、そして最後には必ずそう言って泣くのだった。可哀想に可哀想にと言いながら灰皿を振りかぶったお父ちゃんが、影絵のように見えたことをあたしは覚えている。でも酔っ払っていたから、お父ちゃんは炬燵の足に爪先を引っ掛けて転んだのだ。

 あのときお父ちゃんを起こしてやらなかったのは何故だろう。落ちた灰皿を拾って何度も頭にぶつけたのは何故だろう。でもそのときはこれでお姉ちゃんのためになると思ったのだ。お父ちゃんのためにお姉ちゃんは大変な目に遭っていたし、子供のあたしにはこれがやってやれる一番いいことだと思ったのだ。

 テレビはCMに入った。汚れた窓の向こうに夕日が見えた。お姉ちゃんとヒデオちゃんは今どこだろう、とあたしは考えた。お姉ちゃんの声を思い出した。

(あたしがお父ちゃんを捨ててくるからね。このことは絶対誰にも言うんじゃないよ)

 あたしはバカだから、結局お姉ちゃんに苦労をかけてしまうのだ。

 お姉ちゃんは大丈夫だろうか。元々身体が弱いのに病気になって、でもお金がないから病院には行っていない。力仕事はヒデオちゃんがやってくれるんだろうか。

 もしもヒーローがいたなら、きっと魔法の力でお父ちゃんの死体をどこかにやってしまって、あたしたちは明日から何ごともなかったみたいにふつうの生活に戻るんだろう。でもそんなヒーローはいないから、お姉ちゃんとヒデオちゃんがやってくれるのだ。あたしは何もできないあたしを今すぐ死んでしまいたいほど嫌いになり、でも死んでしまったらお姉ちゃんはまたきっととても怖い顔をするだろうと思って、黙ってアニメを見ていた。

 アニメが終わって、次の番組が始まる。レポーターはきれいな女の人だ。映っているのは同じ県内の街なのに、遠い世界のことみたいに見える。そうやっている間に日が沈んで、辺りがどんどん暗くなる。お姉ちゃんもヒデオちゃんも戻ってこない。

 夜遅くなって、ようやく玄関の引き戸が開く音がした。ヒデオちゃんが一人で立っていた。

「絶対誰にも言うなよ」

 ヒデオちゃんも真っ青で、怖い顔をしていた。

 お姉ちゃんは峠でヒデオちゃんを車から下ろすと、お父ちゃんの死体を乗せたまんま、カーブに突っ込んで海に飛び込んだのだという。

「お姉ちゃんはほっといても死ぬ体だったんだ」

 ヒデオちゃんは子供みたいにべそべそ泣いていた。

 事故の跡があったから警察が調べたとか色々あったらしいけど、あたしはそれをヒデオちゃんから又聞きしただけだし、よくは知らない。車が引き上げられたのは、もういい加減時間が経ってからだった。

 車が見つかる前、あたしはヒデオちゃんと庭に穴を掘って灰皿を埋めた。なぜだか、お姉ちゃんのお墓を作っているような気がした。

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墓穴 尾八原ジュージ @zi-yon

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