珈琲を飲むなら純喫茶で
カフェ千世子
珈琲を飲むなら純喫茶で
芳しい珈琲の香りがどんどん薄れていく。目の前の男の愚痴がいつまで経っても終わらない。
彼を慰めるべく、なるべく目を逸らさないようにして真剣に話を聞いていたが、話が堂々巡りをし出したところでこれは真剣に聞く必要がないのでは、と思い当たった。
うんうんとうなずきながら、冷め出した珈琲をすする。まだ温もりを持った珈琲は十分美味しかった。苦味と甘味と酸味、それらが喉を通るとすっと胸が爽やかになる。
珈琲の香りと味に癒されながら、改めて男に向き直る。
劇場探偵を自称している男
端からは、劇場に遊びに来るついでに御用聞きをしているという風に見られている。
この度も、芝居小屋に足を運んで挨拶に回ったところでちょうどよかったと彼を押し付けられたのだ。
彼は脚本家である。芝居小屋の演目用の話を書いている。
彼にはひいきの女優がいた。彼女のことを自分が育てたと公言して憚らなかった。
その女優が、芝居小屋を辞めて活動写真の女優を目指すと宣言してしまった。
彼女は活動写真に出会ってしまったのだ。キラキラとした目で、活動写真について熱く語る彼女を前に、脚本家は説得ができずにとうとう泣き出してしまった。
そして、見苦しいから回収してくれと頼まれて今に至る。
「演劇と活動写真の芝居は別物なんだ。演劇は観客の目の前で演技ができる。生の反応が直接もらえるわけだ。そして、その演技はそのときだけのもの。刹那的な美、それが味わえるのが演劇の醍醐味だ」
「ええ。はい」
「活動写真は、それがない。観客が見るのは、画一的な芝居。台詞だって弁士が伝えるもので、声ひとつ観客に届けられない」
「そうですね」
芝居の良さを説明しようとして、活動写真をくさすのはいかがなものかと思う。思うが、吾川は反論もせずにただハイハイと聞いている。
「昨日はこんな演技をした女優が、今日はこんな演技をする。それをつぶさに見守れる、こんな幸せなことはないだろう!?」
「そうですね」
それは、確かに。と吾川は思うが、それも相づちだけに留めておく。
「彼女の演技が、もう見れないなんて……!」
彼の嘆きは結局そこに収束する。
どうも彼は、彼女に対して恋慕の情を抱いているようだ。しかし、それを口にするのは憚ってか、ずっと演劇に携わる者としての論調で嘆く。
そういうところが、情けなくて卑怯臭くて、見苦しいと評されたのだが、彼は演劇を盾に話すことで格好がついていると思っているようだ。
吾川もそれを汲み取って、次第に真面目に話を聞かなくなった。
ちらり、と壁に張られたメニューを気にする。
アイリッシュスチューってどんな味がするんだろう。ああ、グラタンもいいなあ。グラタンにしようかなあ。
吾川は自分の腹具合を気にしていた。このあとはここで食事をとろうかなと考えている。
「ってい!」
唐突に、思考が破られた。頭に軽い衝撃を受けて、振り返る。
「こんなところでグダグダしててどうする」
ステッキ片手にポンポンと自身の肩を叩く紳士が呆れた目を向けて立っていた。
「カフェか特別喫茶にでも連れていかんか」
カフェか特別喫茶、と聞こえた瞬間にマスターの目付きが鋭くなった。
「こういう手合いは女に慰めさせるに限る」
紳士の言うことも一理あるとは吾川も思う。思うが、それを許さないのが懐具合だ。
「仕方ない。私が連れていってやろう」
男がにんまりと笑いながら言い、脚本家を立たせる。吾川もそれについていこうとしたが、お前は来なくていいと断られてしまった。
「ええと、珈琲おかわりお願いします。あと、グラタンをひとつ」
なんだか気まずさを感じつつ、吾川は注文をする。マスターから、なんだか怒りの威圧を感じるのだ。
「どいつもこいつも最近は、カフェや特別喫茶などと……」
マスターの怒りの呟きに、やはりと吾川は肝を冷やす。
「女給の尻ばかり追いかけよってからに……」
マスターの恨み節に、なにも返せずに苦笑いを浮かべる。
「そもそも、カフェというのは本来! 知識人との交流の場であり!」
マスターはもとは画家を志していたという。若い頃は、カフェという響きに憧れを持っていたのだそうだ。それが、昨今ではカフェとは女給との出会いの場に変わってしまった。
その煽りを受けて店名をカフェから純喫茶に変えざるを得なかったのである。
今度はマスターの愚痴に巻き込まれる吾川であった。
数日後、脚本家に出会うと彼は晴れ晴れとした顔をしていた。つれていってもらった先のカフェで、次の女優を見つけたらしい。
運命だと熱く語る彼を見ながら、現金なものだと思うのだった。
珈琲を飲むなら純喫茶で カフェ千世子 @chocolantan
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