サンタきんとんを待ちながら

等々力渓谷

第1話

 無人コンビニのカウンター近くで、業務用サイズの黒い冷蔵庫――に見える、、フードプリンターが静かに稼働している。正面のデジタルタイマーの残り時間の表示が「03:20」から「03:10」に切り替わった。

「客を何分待たせるんだ、これ……」

 思っていることを声に出す癖のある僕が、つい呟くと

「タダでもらえるものにわがまま言わない」

 涼し気な声が横から飛んできた。いい声だ。もっと聞きたい、もっと叱ってほしいと思わせる、張りのあるメゾソプラノ。彼女――裕崎レミゼは数ヶ月前まで、僕のフィットネスのパーソナルトレーナーだった。そして、ひそかな片思いの相手だった。

 金の切れ目が契約の切れ目、そして縁の切れ目になった彼女と、会うのは数ヶ月ぶりだろうか。

「それと、事前にウェブから予約を入れといて、完成品を受け取りに来るのが普通だから」

 『予約』という言葉に反応したように、慢性化した腱鞘炎の腕が不意に傷んだ。僕は反射的に右手に視線を落とした。と、その僕の手首を、レミゼがひょいとつかんで自分の方に引き寄せた。温かい体温に僕の脈拍が早くなる。勘違いしちゃだめだ。職業上、彼女は身体の接触に抵抗が薄い。そんなの嫌というほど思い知らされたじゃないか。

「痛いよ、もっと大事に扱ってくれないか」

「ウソでーす、痛みが出ないように動かしましたー」

 それはその通りだった。さすがフィジカルのプロといったところか。

 その肉体のプロは、僕の右手をしみじみと眺めた。

「なんだよ、僕の爪に火でも灯っているというのか?」

「初めて見た、六城さんの手に指紋があるの」

「レアショット、ゲットおめでとう」

「本当にやめたの、和菓子アーティスト」

「そう言ったろ」

 デジタルタイマーが「3:00」に減った。

 失恋にすら到達していない、告白もしていない片思いの相手と、どうして12月の夜の10時にデジタルタイマーを見つめているのか。

 大した理由はないのだが、長目の説明が必要だ。

 



  令和初期から始まったヴィーガン主義とグルテンフリー志向は、スイーツとしての和菓子の存在を飛躍的に高めた。小売店の冷凍ケースで、隆盛を誇っていたエクレアやプリンが錬り切りやういろうに取って変わるのに、さほど時間はかからなかった。気候変動によるコーヒー豆の高騰により抹茶が見直されたことも、和菓子の普及を後押しした。

 そして令和も20年を過ぎた現在、和菓子職人は二種類のタイプに分けられる。

 一つは吟味した材料で自ら餡を練り、こなしを作り、木型を使って形を整え最後は手作業で造形を施し、練り切りや羊羹を完成させるタイプだ。彼らが作る菓子はこの世に同じものが二つとなく、そして食べると消えてしまう。もったいないと食べずにいても味は劣化し造形は崩れて台無しになる。いわば消費するオートクチュールであり、自らに取り込んで血と肉になり一体化してくれる芸術品だ。それを生み出す生み出す彼らもまた、芸術家―和菓子アーティスト―と呼ばれる。

 もう一方は、フードプリンターやセミオート工房で販売されるプロダクトとしての和菓子の設計図を引くもの―和菓子デザイナー―だ。彼らに求められるのは、まず人々の興味を惹く素材や味の奇抜な組み合わせ、購買欲をかきたてるキッチュなデザインと味覚を満足させるオーソドックスなテイストの両立、そして何より大事なのは、商業べースに乗せられる経済性だ。

 僕、六城まどりは前者だった――腱鞘炎で腕が使い物にならなくなるまでは。

 ほとんどの和菓子アーティストがそうであるように、僕のキャリアもまた、ゴースト・キッチン(実店舗を持たない、ネット上にのみ存在する飲食店舗、およびその調理場)と移動販売のミニ・トラックから始まった。ゴースト・キッチンで作った錬り切りや流しもの(餡や寒天を型に流し込んだ生菓子:羊羹など)をネット上で販売し、土日はミニ・トラックで様々なイベントに出向き、ブレンダーで立てた抹茶と一緒に売った。

 まず、抹茶あんの上に白いカモミールを並べて寒天を流した羊羹『春の草原』がSMS映えすることもあり、それを作った僕の知名度が一気に上がった。次いで、一緒に並べている創作錬り切りのデザインと加工技術が注目されるようになった。ハート型の紅いこなしの上に鋏でいくつもの薔薇の花を刻んだ『100万本の薔薇』や純白の極薄の羽二重をプリーツ状に巻き込んで飴で作った雪の結晶を置いた『雪の女王』だ。ネット店舗に商品を補充すれば即完売、実店舗の催事場から期間限定の出店の要望が相次ぎ、そしてとうとう料理人専門のプロダクションから声がかかった。つまり、アルファ・セレブへの足がかりだ。

 掴んだチャンスを逃すまいと僕は足掻いた。プロダクションに紹介されるまま、ホテルのビュッフェに定期的に大量の上生菓子を提供し、有名タレントの配信番組で錬り切りの制作を実演してみせた。

 だが、僕の必死の努力の成果は、誰かのための一時のお楽しみのためにあっという間にすり潰された。

 ビュッフェからは「『花咲く草原』(『春の草原』の改訂版:カモミールの代わりにエディブルフラワーを使用)の下地の抹茶あんが地味なので、もっと花を増やすか、抹茶あんを華やかな色に変えてほしい」と要望が来た。番組中に一つ一つ鋏を入れて時間をかけて作ってみせた『10万本の薔薇』は、司会の男性アイドルに細工が潰れるのを無視して手づかみにされ、味わいもせずに呑み込まれてしまった。挙げ句の彼の感想は「マジ和菓子」。出演していた他の男性タレントも、しつけの悪さを誇るように手づかみで練り切りを口に運ぶと口々に「マジ和菓子」「マジ和菓子」を合い言葉のように繰り返した。それは明らかに僕の練り切りも、ましてや僕もどうでも良くて、、億単位の配信PVを誇る男性タレントへの媚びだけが目的だった。僕は愛想笑いをしながら、忙しい間を縫って選んだ漆器の銘々皿と、使われずに器の隅に置かれたままの黒文字に思いを馳せた。

 預金残高は増え、知名度は上がり、プロダクションの紹介する仕事の条件は良くなり、僕の自由時間はどんどん少なくなっていった。自分でオーダーしたシステムキッチンを備え付けた首都高の見える高層マンションに一日中籠もり、僕は餡を練り、こなしを作り――そして、ありあまる金を浪費するために、自宅で試せるあらゆるサービスを体験した。フィットネスの個人トレーニングのために、レミゼが僕のマンションを定期的に訪ねてきたのもこの頃だ。

 僕は回し車を回すハツカネズミのようにせっせと働き、遊び、その隙間を縫って食事をし、不眠症になり……そして腱鞘炎を発症した。利き手の右手の痛みは、食事のために箸を持つことすら出来なくなるほどた。

 実店舗への出店やメディアへの露出を控えるにつれ、預金残高は減り、反比例して自由時間は増えていった。だが、僕の右手はいつまで経っても痛いままで、不眠症も治らなかった。

 見晴らしの良い高層マンションのブラインドを降ろして一日中籠もり、左手でスプーンを使う練習をしている僕に、久し振りにプロダクションがコンタクトを取ってきた。彼らが紹介した案件は二つ、一つは、来年のハロウィーンに向けたフードプリンターの和菓子デザインの依頼、そしてもう一つは――まだローンが残っているマンションの売却の勧めだった。

 僕は、一つめの紹介案件を受ける返事をした後、左手でスプーンを使う練習もやめて、見晴らしの良い高層マンションのベッドの中に引きこもった。

 3回の昼と2回の夜を眠れぬままに過ごし、3日目の夜に、僕は最後にフードプリンターのプロダクツを食べたのはいつだったか思い出せないことに気が付いた。さすがにこれはまずかろうと、僕はコンビニに出かけることにした。

 マンション下層の商業エリアにあったコンビニは、僕が知らぬ間に撤退していた。次に近いコンビニは首都高(と下を走る幹線道路)の向かい側を1ブロック入ったところだ。一昔前ならコインランドリーが入っているような場所だ。

 微妙な立地に、もしやと思って行って見ると、案の定、そこは無人店舗だった。

 天井からの照明が皓々と明るい店舗には、小鳥のさえずりと川のせせらぎがBGMとして流れていた。弁当やパン、ドリンクや日用雑貨が、ずらりと並んだ自販機の中に整然と収められている様子は、まるでカタログのようだ。欲しい客は電子端末をかざして、自販機ごとに決済してゆく。一々腰を曲げて自販機の中から商品をサルベージする仕様は健常者だけを念頭に置いた設計だが、音声で頼めばアームをつけたロボットが商品を取り出してくれる。

 そして壁面の一角には、その場で調理する自販機――カット野菜や果物やドレッシングをオーダーしたら完成品が出てくるサラダのベンダーや、30秒待てばリベイク状態で提供されるパンやパイのオーブンに並んでいた。その並びに「おやつキッチン」のロゴが入った真っ黒な四角い箱を見つけて僕はホッとした。定期的な清掃が必要なフードプリンターは、無人コンビニでは置いてないことが多いのだ、僕が知っている限りでは。

「さて、今の時期はどんな品揃えなのかな……」

 思ってることをそのまま呟きながら、フードプリンターへ近寄った僕は困惑した。 

 商品の表示が、ない。

 てっきり近寄って手をかざせば、液晶モニターに商品の内容(ほとんどの場合は10秒程度の動画・つまりスポットCM)が映し出されるのだろうと思っていた。少なくとも、僕が知っているフードプリンターとはそういう仕様だった。

 だが、僕が左手をかざしてみても、出てくるのは電光掲示板の商品名だけ。

「ええと、すあま、粟ぜんざい、マスカット餅……マスカット大福のことだよな、なんでモチ表記なんだ、それにごま団子……」

 手をかざしている間だけ浮かび上がる文字を読み上げる。少し手を離したとたん表示が消えてしまうのは、節電仕様だろう。

「ココナツラドゥ? なんだそりゃ」

 僕が首を傾いると、流れてゆく文字の表示が外国のものに変わった。電光掲示板のために簡略化された異国の文字は、ネイティブでなければ何語なのかもわからない。

「ま、ココナッツを使ったラドゥって菓子なんだろ。流行ってるんだろうな、多分」

 そう声に出してつぶやくと、押し寄せた好奇心は波が引くように消えてしまった。

 僕は、ココナツラドゥの隣のエリアに手をかざした。配置的に、ここは季節ごとに

入れ替わる商品のはずだ。

「……サンタきんとん……」

 自然と口をついで出た表示を、自分の耳で聞いたとたん、なぜか苛立ちがこみあげてきた、

「なんだよサンタきんとんって訳わかんないネーミング。栗で作るから栗きんとん、芋で作るから芋きんとんだぞ。じゃあ何か? サンタクロースで出来てるのかコレ? ソイレントグリーンか? カニバリズムか?」

 そんなモノじゃないことは判っている。クリスマスをモチーフにしたきんとんなのだろう。そのくらいは想像がついている。

 だが、僕の苛立ちは収まらなかった。このネーミングの立案者にも、この商品企画を通したフードプリンターのベンダーにも、これを買い求めるであろう購入者にも。職人の精密な手仕事と適当な模造品を同じ名前で扱うこの安っぽい世界に。そして、その世界に適応しないと住む家を無くしてしまう、落伍者の僕に。

 絶望と悔しさとみじめさと自分への憐れみで、涙が湧き上がった。

 ああもう、感情にまかせてこのフード・プリンターを蹴り飛ばしてやろうか。それとも殴ろうか。使い物にならない右手で。

 ――が、僕は足か手を動かす代わりに目を閉じた。2秒かけて深く息を吸って、2秒止めて、4秒かけて吐き出す。それを3セット。自宅でできる浪費の限界を極めていた頃に教わった、アンガー・マネジメントの方法だ。怒りを制御できているかというと大いに疑問だが、気持ちを切り替えるのには役に立つ。

 さらに深呼吸を3セット追加して、体のこわばりが抜けたかなと自覚した瞬間「いらっしゃいませ」と自動音声のあいさつが流れた。誰かが入店してきた証拠だ。

 生身の人間を見るのは何日ぶりになるだろうかと僕がのんきに考えていると、迷いのない足音がコツコツと大きくなってきた。どうやら真っ直ぐこちらを――調理自販機のエリアを目指しているようだ。気まずくなるのも嫌だけど、場所を譲るのはもっと嫌だと思っていると

「……あら」

 涼し気な声が聞こえた。聞き覚えのある、張りのあるメゾソプラノ。

 かつての僕のフィットネスのパーソナル・トレーナー、僕にアンガー・マネジメントを教えた女――裕崎レミゼだった。



 僕たちが無言で見つめ合っていたのは、ほんの僅かのことだった。

「ご無沙汰しております、六城さん、その後、お加減はいかがですか?」

「良くも悪くもならないよ」

 レミゼが僕の部屋に通っていた頃から、僕の腱鞘炎は発症していた。と、いうより、腱鞘炎をなんとかしたくて手当たり次第に試してみたことの一つが、フィジカルの強化だった。彼女――裕崎レミゼは、僕の人生が転落に向かい始めた時に現れた女だった。

 レミゼは大げさに眉を上げてみせた。

「また、そうやってネガティブに考えてらっしゃる。悪くならないというのは良材料ですよ?」

 ――ああ、この、だだをこねる子供をあやすような声。この声に従えば悪いようにはならないと、聞き手の判断力を麻痺させるような。

「やめてくれないか、それ」

 僕は無礼に取られてもしょうがないくらい、ぶっきらぼうに言った。

「君はもう僕のトレイナーじゃない、そんな風に僕に指図しないでくれ」

 レミゼの笑顔が、曇った。

 好意に気付いてくれなかった女の子を困らせて溜飲を下げるなんて、義務教育の子供のすることだ。それでも、僕は少しだけ気持ちが楽になった気がした。

 が――

「ま、それもそっか」

 レミゼの口調から丁寧語が消えた。

「でも、いいでしょ。お互いに名前を知ってる相手を心配するくらい」

 そう言って、肩に掛けたショルダーバッグを背負い直す。わずかに姿勢が変わっただけなのに、とたんにレミゼの雰囲気からよそいき度が消えた。

 僕はレミゼのトレーニングウェアが、結構使い込まれていることに気付いた。

「そういえば六城さん、道路の向こうに住んでるんでしたっけ。いつもタクシーだからすっかり忘れてた」

「君は、このあたりに?」

「会社の寮暮らし」

「へぇ、今時、社員寮か」

「健康管理、されてますから」

 そしてレミゼはふと気付いたように

「六城さん、風邪? ちょっと鼻声だけど」

「いや、そんなことはない」

 話題を逸らそうと僕はフード・プリンターを指さして

「裕崎さん、このココナツラドゥって知ってる?」

「一応は」

「へ?」

 苦し紛れに振った話題なのに、レミゼは会話に乗ってきた。

「ラドゥはインド原産のお菓子で、豆の粉とバターと砂糖をこねて丸めて加熱したもの。神様へのお供え物するから、日持ちがするように作るんだそうです」

「へー、供え物……インドの落雁みたいなものか」

 仏教と一緒に伝来したと言われる落雁のオリジナルの菓子がインドに残っているというのは、ありそうな話だと僕は思った。

「でも、どうしてそんなマイナーな菓子が、フード・プリンターのメニューにあるんだ?」

「このあたり、インド系ITの会社が多いから」

「ああ……」

 僕は今さらながら、フード・プリンターの特性を思い知った気がした。

 

 

 令和の始めごろに開発されたフード・プリンターは、工業分野で実用化されていた3Dプリンターの技術を食品分野に応用したものだ。樹脂の代わりに、でんぷん質やタンパク質のペーストを使い、立体的な造形をほどこして食べ物の形にする。当初は介護食の特定分野がメインだったフード・プリンターは、炙りや湯通し、素材の吹きつけなどの追加加工の技術を加えることにより、工場での生産品のレベルにまでプロダクトの品質を向上させた。 

 そしてもう一つ、フード・プリンターの特性としてあげられるのは、一品一品をオーダーして作ることである。つまり、材料を用意しデザインさえ設計すれば、工場の生産ラインに乗せるには厳しいが一定の需要がある商品にいつでも、そして瞬時に対応できる。

 かくして技術が整ったところへ、和菓子ブームがやってきた。そして、餡やこなしを型に入れて成形する練り切りや、素材を積み重ねてゆく流しものは、フード・プリンターと相性が良かった。

 結果、今や和菓子はフード・プリンターで買うのが当たり前の時代だ。ビッグデータの統計を反映しあらかじめプリンターに登録されているデザインから、あるいはネットで探した好みの菓子のデザインをダウンロードして、店頭のプリンターにない種類の菓子も作れる。町の和菓子屋はこの生存競争に敗れて、ほとんどが消えていった。

 僕の実家も、そんな和菓子屋の一つだった。



「なるほどなぁ……インド系の人が会社帰りに買ってゆく行動データが降り積もって、ここのフード・プリンターのデフォルト画面を占拠してるのか」

「すっごく甘いっぽいですね、ラドゥって」

「想像つくなぁ」

 調理学校で、世界で一番甘い菓子はインドのクラブ・ジャムンだと教えられた記憶がよみがえった。

「頼んでみたい?」

「いや、僕は、外国の菓子は……」

 レミゼの視線が心持ちひややかになった。

「当てたげる。六城さん、パクチー嫌いでしょ」

「なんでわかった」

 レミゼはニヤリと笑った。

「友達が言ってたけど、パクチー食べられない男って日本語しかしゃべれない男が多いんだってー」

 その通りなので僕は沈黙した。

「WAGASHIは世界共通用語なのにね。もったいなーい」

「その国で生まれた料理は、その国の湿度と温度で食べるのが一番おいしいんだ。統計的にも立証されてる」

「へぇ、そうですか」

 まるで信じてない口調でレミゼは言い、そしてフード・プリンターに目をやると

「あ、期間限定でサンタきんとんだって。どんなのかな」

「さぁね。サンタクロースのきんとんじゃないのか」

「サンタさんの顔かぁ」

 レミゼはごく一般的な連想を働かせ、そして

「ねぇ六城さん、これ欲しくない?」

「え? 僕が?」

「おごってあげます。お得意さんでしたから」

 言うより早くレミゼは自分の端末をかざすと、サンタきんとんを注目した。

「え? いやいい、要らない」

「もう頼んじゃいました」

「じゃあ君が食べろよ」

「健康管理されてるって言ったでしょ」

 レミゼは手首のスマートウォッチを示して見せた。

「勝手に血糖値上げると、即バレ、即チャットでお叱り」

「え、なんで」

「フィジカル・トレーナーって、オリンピックめざすような人がいるんですよ。そういう人と一括管理なんです」

「それ、プライバシーの侵害じゃないのか」

「ねぇ」

 レミゼは天井を見上げて笑った。

「本当、プライバシーの侵害ってヤツですよね」




 ――正面のデジタルタイマーの残り時間の表示が「01:00」に切り替わった。

 静かだったフード・プロセッサーのモーター音が、急に大きくなった。そして空気の排出音。

 一瞬だけ、あたりの空気が少し温かく、甘くなった気がした。

「六城さん」

 フード・プリンターを見つめたまま、レミゼが言った。

「もしかしてデザイナーに転向予定だったりします?」

「さて、どうだろうね」

 ごまかすつもりで言ってみた後、それが僕の本心らしいことに僕は気付いた。

 マンションを売るよりは――今日まで築き上げてきたキャリアを無駄にするよりは、そのキャリアを活かして軌道修正する方が賢い生き方だ。そして僕は賢い男のつもりでいた。

 だが、今、こうして第二のキャリアが現実味を帯びてくると、僕は自分が思った以上に今のキャリアに。いや、しごとに固執していることに気付いた。自ら餡を練り、こなしを作り、木型を使って形を整え最後は手作業で造形を施し、練り切りや羊羹を完成させる。たとえ芸術品とは認められなくても、この手でプロダクトを生み出す職人。それを自分で販売し、購入者の表情を、反応を、自分の目で確かめられる、小売業。

 でも……

「もう右手がダメになっちゃったしなぁ」

 自分に言い聞かせるつもりでつぶやいた言葉の語尾がかすれた。

 デジタル・タイマーの残り時間が「0:30」に減った。

「六城さん」

 張りのあるメゾソプラノのレミゼの声も、僕につられたかのように僅かにかすれていた。

「なりたかった自分のすぐ隣で生きてくのって、つらいんじゃないかな」

 その言葉から伝わるある種の重み――体験者にしか語りえない迫力のようなもの――にハッとして、僕はレミゼを振り返った。

 その瞬間、天井のどこかでファンの動き始める音がした。

 騒音を消すためか、鳥のさえずりと川のせせらぎのBGMが、打ち寄せる波の音とハワイアンミュージックに変わる。

 あたりに漂っていた少し温かい、甘い空気が、みるみるうちに入れ替わっていくのを僕は嗅覚で感じ取った。

「ん? なに? なんかイベント?」

 BGMが変わったことに、レミゼが不思議そうな顔をした。

 何かを聞き出すタイミングを――あるいは、何かを言い出すタイミングを失ったと僕が感じ取ったのとほぼ同時に、デジタルタイマーがいきなり「0:00」に変わって、チカチカと点滅を始めた。フード・タイマーから電子音で『ジングル・ベル』が流れる。

「あ、できた」

 レミゼが嬉しそうに言うと、もう一度端末をフード・プリンターにかざした。観音開きの扉がひとりでに開き、中にズラリと並んだ半透明のボックスの一つが青く明るくなった。天井からレーザーポインターで照らされているのだ。

 レミゼがボックスを開けると、白い冷気が流れ落ちてきた。

 中に入っていたのは、5センチ程度の透明な使い捨てパッケージだった。その中に「サンタきんとん」が鎮座していた。

 僕とレミゼは思わず同時に口に出した。

「サンタ……?!」

 思わずハモってしまうのも無理からぬ話だ。中に入っていたのは四角い緑色の物体だったのだ。黒い羊羹の土台の上にプリンターの緑色のペーストを長いそぼろ状に吐出し、銀色のアラザンを不規則に散らしてある。そして右隅に黄色のペーストで、星が描いてあった。わずか数種の素材でクリスマスらしさを出した、洗練されたデザインだ。

「これ、クリスマスツリーがモチーフでは……」

 パッケージを手の平に載せて首をかしげるレミゼの隣で、僕は別のことが気になった。

「この緑色はなんだろう、抹茶ではこんな色にならない。ピスタチオ?」

「ちょっと待って」

 レミゼは端末を操作して

「ユーグレナだって」

「う」

「あー、パクチーが食べられない男はユーグレナもダメですかーそうですかー」

「違う、海藻が苦手なんだ。藻類も同じだ。しかし……」

 僕はきんとんを見つめてつぶやいた。

「どうしてコレがサンタきんとんなんだ。クリスマスきんとんでいいだろう」

「ほんとほんと」

 僕らは二人してフード・プリンターの前に立ち尽くしていたが、やがてレミゼが

「あ、わかったかもしれない。理由」

「え」

「ほら、ココ」

 レミゼはフードプリンターの正面の電光掲示板を指さした。

「ここのスペース、7文字までしか入らない。だからじゃない?」

「そんな理由か?」

 反論しかけて、僕はハッとした。

「そういやマスカット大福もなぜかマスカットもちだし、ココナツだって普通はココナッツ……」

「ほら、やっぱりそうだ!」

 えっへん、と勝ち誇るレミゼがまるでティーンの子供のように見えて、そういえば僕は彼女の年齢を知らないことに遅まきながら気付いた。




「じゃ、これ、六城さんにプレゼント」

 店を出たところで、レミゼは僕にパッケージを押し付けてきた。

「おごりなんだから、残さず食べて下さいね」

「ユーグレナは苦手……」

「大人なんだから、残さず食べて下さいね」

「了解……」

 告白を、連絡先を、せめて年齢を聞くのは今しかないと判っていたが、僕はそれらをすべて飲み下すことにした。自分の身の振り方も決まらない状態で、誰かと新しい関係を結ぶのはあまりに無責任なように思えたのだ。

「じゃ、おつかれさまでした」

 こちらに背を向けて、ショルダーバックを背負い直して歩き出す。その背中はピンと伸びていて、僕が見慣れたフィジカル・トレーナーのものだった。

 できればここに留まって、その背中が見えなくなるのを見送りたいが、人生の時間は有限だ。

 もしも運命が導くのなら、僕らはまたどこかで出会うだろう。この安っぽい――キッチュとオーソドックスを両立させる、逞しくも狭い世界のどこかで。

 僕も、自分の道を――自宅への帰路を歩き出すことにした。

 歩きながらパッケージのフタを開けて、サンタきんとんの匂いを確かめる。驚いたことに、緑色の菓子からはかすかにバニラの匂いがした。グリューワインからの発想だろうか。

 僕はその場に立ち止まると、サンタきんとんを左手で手づかみで口に運んだ。行儀は悪いが好奇心は止められない。あの男性タレントももしかして、こんな風にはやる気持ちを抑えられなかったのだろうか。

 舌の上でユーグレナ入りのそぼろが柔らかくほどける。素材は根菜類だろうか、やや舌の上にねっとりとした、乳脂肪に近い感触を残す。そして少し置いて鼻孔に広がるバニラの香り。なるほど、見かけは和菓子だが食感はむしろ洋菓子のムースに寄せてあるのか。

 僕は、このきんとんの設計図を引いた見知らぬ和菓子デザイナーの発想に感服した。

 冬の寒空の下、右手は傷み続ける。好きな女の子に告白もできず、半年先の未来さえ予測できない。

 それでも、僕は人生は悪くないと思えた――キッチュでオーソドックスで安っぽい、フード・プリンターがある所ならどこでも買える、ありふれた和菓子一つのおかげで。


 

 

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