最前線より
久里 琳
最前線より
いい父親ではなかった。
早産で生きるや死ぬやの瀬戸際だったらしい出生のときもそんなこと知らぬ顔で俺は遠くの塀のなかで労役に勤しんでいたし、言葉も通じず頼る者とてない土地にとつぜん放り出され不安でしかたないに違いない今だってそばにいてやれないでいる。
娘と初めて会ったのは彼女が二か月を過ごした新生児治療室からぶじ生還して、さらにその二か月後だった。やっと目鼻だちが人間らしくなってきたその顔に、どことは言えないがたしかに俺の血が流れていると感じた。父としての自覚が生まれた瞬間だった。
ほんの三十分だけ許された面会のあいだ、妻は娘の出産と入退院について繰り言をつづけた。そうでなければ俺を
俺たち夫婦は常に互いに非難と呪詛の応酬で、自然とたっぷり蓄えられた語彙をいまは存分に敵兵に浴びせまくっている。あいにく彼らに声は届かないのだけれど。しかたないから代わりに標的をあわれな神に定めて、ずっと苦情と皮肉と、冒涜たっぷりな罵詈雑言を吐きつづけている。神との別離の最後通牒はもう七回も叩きつけてやったが、まだ返事をする気はないらしい。
駅のホームで家族と別れてから一週間、代わりに呪いの言葉を聞く役を担ってくれていた同僚も、もはや返事をしなくなった。おかげでだんだんと夜が明けていくビルのなか、おれの言葉に応えてくれるのは銃声と砲声とがれきの崩れおちる音ばかりだ。それだって町じゅうで息をひそめている住民たちの眠りを妨げるには十分過ぎるほどに賑やかなのだが、会話相手にするにはあまりに殺伐としている。
夜更けに飛びこんできた砲弾が壁をふっとばしたおかげで、ずいぶん風通しがよくなった。時と場合によっては俺は自由だせいせいするぜって叫ぶかもしれないところがいまはまったく最悪のタイミングで、風はすうすう体を冷やすし、気まぐれに風切り音とともに送りつけられてくる銃弾を門前払いする盾もなくなった。
衝撃をまともに受けた同僚はその後一時間ぐらいは隣で呻いていたのが、いまはうんともすんとも言わない。暇さえあれば陽気に罵りあっていたパートナーをうしなってしまった俺の心に去来するものは、なにもなかった。あるのはぽっかり口をあけた空虚、ビルを通りぬける風ほどに無味で無臭の。涙も悲しみも、憐みも怒りもなくふしぎなほど感情は凪いでいる。
自由と独立のためならこの命を捨てても戦う。俺よりよほど真剣にこの戦争に向き合って戦意旺盛だった相棒は、家族を残して死んでしまって、それでも本望だったとあの世で言うのだろうか。
兵士たちの命と未来を犠牲に供してでも祖国の独立を守るとした大統領の決断は、完全に正しい。たとえここで命を
だがそのために差し出すのは、俺自身の命なのだ。正直に言うと、俺の心は迷う。ほんとうに俺は死ぬのか。ついひと月前までは、妻と子と狭い部屋に身を寄せ合って、くそったれな生活が永遠につづくなんてまっぴらだと神に不平を垂れていた俺が。
家庭生活は平穏というものからほど遠かった。
娘が生まれて一年経って、ようやく家に戻ることのできた俺が加わり家族三人ではじめた新生活だったが、いつも家計は火の車で、俺たちはけんかばかりしていた。
ユリアは依怙地なところがあるね――あるとき義母は言った。それが本当なら俺たち夫婦のせいだ。ものごころつく前から諍いの絶えない両親のまんなかに座らされて、ときには手もとんできて、意味もわからず泣いていた日々がユリアをそう作った。いまならまだ修正が効くのだろうか。俺たちが心を入れ替えれば、何気ない言葉や指ひとつの動かし方すみずみにまで沁み込んだ悪業をすっかり洗い落とすことができたなら。
それでもかけがえのない生活だった。くそったれな、ちっぽけで幸せな生活だった。
そのことに気づかせてくれたのは侵略者たちで、気づいたときには取り返しのつかないほどそれを破壊し尽くしてくれていたのも侵略者だった。
その侵略者たちも、この町のどこかで夜の闇のなか、虐殺に
祖国を、同胞を、家族を守るため戦う。その気持ちに嘘はないが、戦いに参加することでこれまでの間違いだらけだった人生に対する免罪符を得たいという私的な事情、それにあわよくば英雄となって人生を逆転できたらいい、そのときこそ妻にも娘にもやっと顔向けできると、打算的な望みがそこに雑じっていることを、隠しはしない。死ぬためではなく、生きるために俺は戦っている。
夜が明けてきたが、厚い雲が空を覆って太陽はどこにも見えない。
壁のなくなったビルから見えるのは、廃墟となった町。まだ煙のくすぶる、骨組みだけになったビルに住民と兵士がどれだけいたのかは見当もつかない。道端に転がっている死体は敵兵だ。死体のうえにはうっすら雪が積もっている。
春が近いとはいえ、夜明けに戦場を流れる空気は冷たい。指先がかじかんで、思うように動かない。膝から先がどこかへ行ってしまった右脚の傷口から血は流れっぱなしで、一緒になけなしの体温も流出しつづけている。こんなものを見なければならないなら、夜なんか明けなければよかった。
家族と別れたのも、とびきり寒い朝だった。
雪がちらつくホームのうえに、そこからこぼれ落ちそうなほどにたくさんの人が集まっていた。
中立を保つ隣国が避難民を受け入れてくれるというので、国境を越える列車に二人を乗せた。当時まだこの町は戦場になっていなかったが、四歳のユリアでも察知できるほどに、駅にひしめく大人たちのあいだには異様な緊張がみなぎっていた。訳もわからないまま不安に泣きだすユリアをなだめるため、俺はなにか菓子を買ってやろうと売店へ走った。
それでまんまとユリアの機嫌はなおって、列車に乗りこむふたりを見守り、やがて窓の横に席を確保したふたりと窓越しの別れを待つばかりとなった。そのまま平和な心で別れられたはずなのだ。ところがどうしても俺は余計なことをしてしまう星の下に生れ落ちているらしい。毎回後悔するけれど、後悔したってたいてい取り返しはつかない。
いたずら心で、ユリアの抱える袋からひとつチョコレートを取り上げ、口に放りこんだのだ。妻と娘がびっくりした顔で見つめるのにウィンクを返して、おおげさにごくんと飲みこんだ。
するとユリアは、いままでにこにこ笑っていたのが表情をみるみる変えて、大声で泣きだしてしまった。そこへ発車を予告するベルが鳴り泣き声をかき消すと、張り合うようにさらに声を高くした。
そのチョコレートは、彼女のお気に入りのフレーバーの、楽しみに取っておいた最後のひとつだったらしい。もう一度買いに行っている時間はない。食べたものを元に戻すことはもちろんできない。あとから後悔したって取り戻すことなんて、たいていできない。
「ユリア、顔を見せて」
すねて顔を合わせてくれない娘に、精一杯の声をかけた。二度と会えないかもしれないと、急に心に浮かんではっとした。
「なあ、悪かったってば」
「パパの方向いてあげて」
見かねて声をかけた妻も、最後かもしれないんだから、とは言わなかった。俺も言わなかった。言うと本当になってしまいそうな気がしたから。ふだん神の存在などまともに信じてないくせふたりともどこか験を担ぐようなところがあって、その一言さえ言わなければみんなぶじでまた会えると、ふたりして信じきっていた。
無論これが最後かもなどとユリアが知るわけがない。ベルが鳴り終わり、扉が閉じられた。どの窓にも見送る者と去る者とが窓枠いっぱいあふれかえって、名残を惜しむ手、手、手。そこらじゅうで上がるさまざまな音色の泣き声が合わさって駅舎の天井から跳ね返ってくると、ミサの歌声のように荘厳で胸が騒いだ。
「ユリア」
「知らないっ」
最後の望みをかけて出した俺の手を、あっち向いたままユリアが払いのけた。
列車がゆっくり動きだした。舞う雪はずっと花びらのように落ちてきて、ユリアに触れるため手袋をはずした手の甲ではかなく融けた。涙をながす人々のあいだで、ユリアの涙はとっくに乾いていたけれど、かたくなな彼女の心はまだ融けなかった。
俺にはわかっていた。あとほんの三分もすればこの子は機嫌をなおして、また笑顔を俺に向けてくれると。ただその三分を、列車の運行スケジュールは与えてくれなかった。
案の定ユリアが機嫌をなおしていまはにこにこしていると、すぐ後SNSで連絡がとどいたが、列車のなかのことでもあるしビデオ通話はやめておいた。このとき話しておけばよかったと後悔するのは次の日だ。いつも後悔はあとからやってきて、たいてい取り返しがつかない。
いまもお守りのように胸ポケットに入れているスマートフォンは、もう六日ほどだんまりを決めこんでいる。この町に憎しみとともにプレゼントされた最初の砲弾の衝撃でつい手から落としたとき、あえない最期を遂げてしまったのだ。妻の番号は憶えていない。家へ戻ればたしかめる方法はあるだろうし、平時なら修理もしてもらえただろう。だが戦いの最前線で、どちらの手段も絶望的に不可能だ。いまはただ、ユリアの顔が見たい。声が聞きたい。頼むからすこしだけ眠らせてくれ。せめて夢でユリアに会ってくるから。
いい父親ではなかった。最後に父親と別れるときあんな顔をさせてしまったなんて。――ああ、最後ってのは禁句だったな。この言葉を口にさえしなければ、俺たちはきっとまた会える。
(了)
最前線より 久里 琳 @KRN4
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