空虚に時は流れて

ナナシマイ

 身体の中心で脈打つ音から意識を逸らせば、離れていた感覚が戻ってくる。凍てつく月明かりを吸って像を結び始めた藍色の瞳は、うつ伏せに倒れた男を映した。

 その腹から広がる赤黒い鉄の匂いを感じ、しかし、ユノは警戒したようすで男の肩を掴んだ。体重をかけて仰向けに転がすと同時に左肩に掛けていた鎖を引っ張り、その両端にある柄を持ち構える。

 上下することのない胸。開いたままの瞳を覗き込むも、返ってくるのは虚空を抱くような虹彩の穴。男は完全にこと切れていた。

 武器を下ろして瞼を閉じてやり、ユノは長く深い息を吐いた。そこに同情の念はかけらもない。

 ユノはただ自問する。

 ――これで終わり? わたしは、ヌルを手放せる?

 目の前の男は排除すべき存在であった。彼女のあるじであり、親代わりであり、師匠でもあった人物の命を二十年以上脅かし続けてきた人間だ。

 鎖で繋がれた一対の柄。その先端についた刃から滴り落ちる血液。

 彼女が望んだ男の死。

 自身がヌルと呼ぶ武器を握りしめ、もう一度、ユノは自問する。

 ――ここでもう、争いごとから身を引ける?

 途端、ユノは腹の底から恐怖が沸き上がってくるのを感じた。つい先ほどまで対峙していた男は決して手を抜けるような相手ではなかった。それは師匠の命をさんざん脅かしてきたことからも明らかだ。それでも、彼女は自身へ向けられた切っ先から逃げることもせず、ひたすらに相手の隙を狙い続けた。

(……だって、わたしはもっと怖いことを知っている)

 ゆえに、ユノはヌルを手放せない。血の匂いが骨の髄まで染み付いていたとしても。誰かの人生を終わらせることが、誰かの恨みを買うことだとしても。

『死を望まぬなら個を捨てろ。意思を持つな。心臓が吐く血の音だけを聞け』

 耳のなかにこだまするのは懐かしい男の声。ほっとすると同時に、苦い思いが広がる。

(ソウジュ、これは呪いですか? あなたは本当にひどい人……)

 生者にさえ容赦ない夜の冷気が彼女を包み、汗の引いた末端から熱を奪っていく。

 恐怖心とかじかみ始めた手指の感覚が綯い交ぜになり、ユノの奥に眠る遠い記憶を呼び起こした――。


       *


 かじかんだ指を揉みながら汚れた布を何度も擦る。屋敷のほうから悲鳴や怒号が聞こえてきていたが、ユノは黙々と作業を続けた。十に満たない下女はこの屋敷でユノひとり。中途半端に終わらせればほかの下女や女中頭に罵られることをわかっていたのだ。

 やがて綺麗になった布を固く絞り、立ち上がりながら振り返ると、先ほどまで慌ただしい空気に包まれていたはずの屋敷はしんと静まり返っていた。

 彼女は疑問に思いながらも戸を開け、視界に飛び込んできた廊下の惨状に息を呑んだ。

 頭から、喉から、多量の血を流し倒れる人たち。誰ひとりとして息をしていない。

(なに、これ……)

 手のなかから洗ったばかりの布が落ちたことにも気づかずに大広間のほうへよろよろと歩き出す。ユノを見かけるたびに唾を吐きかける下男も、つい数刻前に洗濯の仕事を押し付けてきた年上の同僚も、みな等しく命を絶たれていた。そのなかを、歩いていく。

 大広間に入ると、鉄の匂いが濃くなった。足もとには頭をユノのほうへ向けて倒れた女が転がっていて、その背は深く抉られている。ユノは口の中にこみ上げてきた酸っぱいものをけほっと吐き出した。

「まだいたのか」

 低く吐き捨てるような声にユノが顔を上げると、赤黒く染まる大斧を担いだ男と目が合った。全身が血で汚れており、幼いユノの頭でもこの惨状を生み出したのが目の前の男だと理解する。

「…………ぁ……ぁ」

 今までどのように虐められても感じることのなかった恐怖が頭をもたげた。

 ユノは叫ぶこともできず、恐怖心があらゆる液体へと姿を変えてあふれ出る。口からはぼたぼたと唾液がこぼれ、汗や涙や鼻水がぐしゃぐしゃに顔を汚す。

 大斧の男はその場にへたり込んだユノをつまらなさそうに見ながら一歩、また一歩と近づく。そろそろ間合いに入るという瞬間、男は背後から鋭い殺気を感じて振り向き、そして頭をぐわんと揺らす衝撃とともに暗転した。

「まだもなにも、お前らの狙いは俺だろうが」

 声の主は仕立てのよい服に身を包んだ青年。強い蹴りを繰り出した勢いを回ることで殺し、気を失い倒れた男に音もなく近づく。懐から取り出した小刀を躊躇いなく喉もとに滑らせた。それからようやく、大広間の入り口でがたがたと震えるユノに目をやる。

「生き残りはお前だけか? ……ったく」

「……若旦那、さま」

 ユノがなんとか絞り出せたのはそれだけだった。この屋敷の持ち主である商家の跡取り息子に礼をとる余裕などまったくなく、しかし当の青年もそれを気にしていないといったようすで張り詰めた空気を緩めるように頭を掻いた。

「俺はここを出る。ここにいても同じだからな。お前はどうする?」

 青年は少しのあいだ返事を待っていたが、恐怖心がまだユノを支配していることに気づいて質問を変える。

「お前は死にたいのか?」

「……いいえ」

「なら生きたいか?」

「…………いい、え」

 ユノにとって世界はこの屋敷だ。世界がこの有り様で、生きたいと思えるはずがなかった。

「じゃあどうしたいんだ」

 青年は苛立つこともなくユノの返事を待っている。

(わたし、わたしは……)

 ぐるぐると体内をかき乱すような恐怖心が引いていき、代わりに小さな石のような、それでいて強い力を秘めたような恐怖心が生まれた。

「…………死にたく、ない……!」

 ユノの返事を聞き、青年は愉しそうに笑う。「ちょっと待て」と言い残し、大広間を出ていく。

 すぐ戻ってきた青年の手にあったのは、妙な形の武器だった。鎖で繋がれた二本の柄と、その先端に光る刃。小さなユノの手に不釣り合いなそれを持たせ、しかし「似合ってるぞ」と青年は笑った。

「これ……」

「ヌルという武器だ。なにもない、ひねくれ者のお前にはぴったりだな、ユノ」

 名前を呼ばれた驚きに目を見開くと、青年は悪戯が成功したかのように口の端を持ち上げた。

「屋敷の前に捨てられていた赤子を見つけたのは俺だし、そいつにユノと名付けたのも俺だ。……ま、そもそも屋敷で働く者の顔と名前くらい、覚えているけどな」

 僅かに目を伏せた青年の瞳に、息絶えた人びとの姿が映る。

「若旦那さま――」

「行くぞ、ユノ。……屋敷の外へ出たら、俺のことはソウジュと呼べ」


 それから十年と少しの時間、ユノとソウジュは二人で流れ暮らした。あらゆる場所へ行き、あらゆるものを見て、あらゆる命を切り捨てた。武具商であるソウジュの実家は恨みを買うことも多く、ソウジュもその筋の者から幾度となく命を狙われる。

 皮肉なことに武具商の跡取りであったソウジュは武芸に秀でていた。剣も弓も使いこなし、ユノを守りながら確実に返り討ちにする。その合間にユノは戦いかたを学び、強かな女武人として成長した。

「死を望まぬなら個を捨てろ。意思を持つな。心臓が吐く血の音だけを聞け」

 恐怖にユノが動けなくなったとき、ソウジュは必ずそう言った。脈打つ身体だけに集中していれば、本当に恐怖心は消えていく。ただソウジュと自分に死をもたらす人間を排除するために動けるようになる。

 しかし、ユノが争いごとに慣れ、彼女ひとりでも武人として生きていけるほどになった頃、ソウジュは唐突にユノを放り出そうとした。

「ソウジュ、どういう意味ですか!」

「お前の根底にある恐怖は死だ。だから武器を手放せない」

「そうあるように教えたのはあなたです」

「ああ。だが人は老いる。戦えなくなる日が必ずくる。そうなる前に、武器を手放す時を自分で決めておけ」

 ユノはうつむく。自分を死の恐怖から守ってくれるもの。それを手放すことなど考えられなかった。

「お前に死をもたらすものすべてを屠るつもりか? そうでもしなければ、お前は生きられぬのか?」

「そんなこと――」

「とにかく、俺はお前が武器を手放す時を決めるまで、もう会わない」

 その言葉を聞いて、ユノは初めてソウジュに対する怒りを覚えた。

(勝手に武器を与えて、勝手に武人に育てて、あげく、武器を手放せと……?)

 天地がひっくり返ったとしても力ではソウジュに敵わない。ならば、今にもユノを置いていこうとする彼を引き留める理由が欲しかった。

「ソウジュは決めているのですか。武器を手放す時を」 

 しかし、運命は残酷だ。

「当然。……だが、自分のそれも決められないような奴に教えるつもりはない」

 そう言い残し、ソウジュはユノの前から消えた。


       *


 冷え切った手を温めようと口の前に持ち上げると、ヌルの鎖ががちゃりと音を立てる。

 二本の柄は丈夫なもので、何度も換えた刃や鎖と違い二十年前から同じままだ。ユノの手脂が染み込んで滑らかになったそれは月の光すら反射する。夜に慣れた目には眩しく、ユノはそっと目を閉じた。

(……ソウジュが「似合ってる」と言ったのに)

 ふと、そんな思いがユノの心をかすめた。

「なら、もう似合わないからヌルを捨てろ、って言ってよ」

 口にしてみるとそれはとてもいい考えのように思えた。自分と武器を出会わせたのがソウジュなら、自分と武器を別れさせるのもソウジュであるべきではないか。

(そうだ、会いに行こう)

 ユノが目を開けると、藍色をした双眸には強い意志が宿っていた。

 どのくらい時間がかかるかわからない。しかし、ユノにはソウジュが生きているという自信があった。

「ソウジュ、待っていてください」

 足取り軽く立ち去るユノ。残された死体を、月明かりが冷たく照らしている。

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