アリはキリギリスに憧れる
悠井すみれ
第1話
彼らの前菜が片付けられるころには、僕の食事は終わっていた。三〇〇CCの経口栄養液。「ここ」では消費カロリーも大きいだろうから、いつもよりも少し栄養価を高く設定していた。赤い着色も、乾杯のワインに紛れても違和感がないようにと考えたからだった。まあ、栄養液の細長い容器はどう見てもワイングラスには見えないのだけど。
僕の正面に座っていた赤毛の男性が、空になった容器に目を留めた。ワインのボトルを掲げて、微笑みかけてくる。
「手持ち無沙汰になってしまいましたね。ワインはいかがですか」
「お気遣いなく。僕らは必要なカロリーと栄養を計算しているので」
もう結構、と。言葉だけでなく態度で示すために、僕は
「たまには暴飲暴食も良いでしょうに……郷に入れば、と言うでしょう」
僕の隣に座った彼女が、困ったような微笑を浮かべながら口を挟む。ホスト側からの申し出を断るのは無作法だ。でも、それを口に出して咎めても場の空気が悪くなるから、やんわりと窘めるのにとどめている、といったところか。
彼女は僕の本音が分かっているのだ。僕は太り過ぎや、塩分や脂質やアルコールの過剰摂取による健康被害を心配しているのではないということを。もっと単純に、栄養液以外のものを身体に取り入れるのが、気持ち悪くておぞましくてしかたないのだということを。
「そうですよ。せっかくですから『ここ』の流儀を満喫していただきたいものです」
「せめて見た目や香りを楽しむだけでも──」
口々に上がる声に応えて、配膳ロボットが僕の隣にやって来た。いささか年季が入ってはいても、彼らも意外と機械を使っているのだ。丸っこいフォルムのロボットは、腹部の保温ケースからポタージュスープの皿を取り出して、僕の前に置こうとするが──
「まあ、無理強いはしないように。アリとキリギリスでは食性も違うでしょう」
農場主の苦笑で、皿を持った伸縮アームはしゅるしゅると元の位置に戻っていった。屋敷の主で共同体のリーダーでもある彼の声は、命令の優先順位の最上位に登録されているのだろう。音声認識なんて、僕らにとっては時代遅れにもほどがあるシステムだけど。
とにかく、農場主の比喩は「彼ら」の気に入ったようだった。
「『我々』が遊び暮らしているように言われるのは心外ですが──」
「いや、確かにどちらかというならキリギリスでしょう」
「『アリ』の方々から見れば耐えがたいところもあるんでしょうね?」
笑い声と共に交わされる彼らの言葉は、なまじ的を射ているだけに質の悪いものでもあった。僕の内心を、見事に言い当てているようで。
例えば、この屋敷が様式を模している十九世紀くらいの西洋では、紳士淑女は喜んで「未開の地」を訪ねたり、「先住民」と呼ばれる人々を面白がって見せ物にしたりしたらしい。大自然の中で生きる自由民! 法に捕らわれない、のんびりとした牧歌的な暮らし! 一方で、文明の外の野蛮人を見る目は厳しくもあっただろう。怠惰だとか、無作法だとか、不潔だとか。物語としてもてはやしはしても、交わって暮らすなんてとんでもない。
僕が彼らに抱く想いは、多分そんなものに近いと思う。童話のアリがキリギリスに向ける感情と、似ているというなら似ているのかもしれない。
もちろん彼らはれっきとした現代人で、彼らなりのやり方で生計を立てている。僕も礼儀を知っている。だから、笑いづらい冗談、皮肉すれすれの
彼らは哀れな働きアリめ、なんて言ったりしないし、僕もキリギリスは無駄なことばかりして、なんて言わないのだ。たとえ心の中で思っていたとしても。
「『アリ』は融通が効かないのでしょうね。休暇の時ぐらい、もっと楽しめば良いのでしょうが……」
「勤勉でいらっしゃる。『我々』とは違うのですね」
「乾杯しましょう。貴重なお時間を割いていだたけた、この一夜に──」
彼らは各々ワイングラスを掲げ、僕は空の容器を掲げた。彼らの中に混ざり切れないことは別に良い。異なる文化が支配する地をわざわざ訪ねていることを、承知しているのだから。
でも、彼女もグラスを手にしているという事実が胸に刺さった。隣同士に座っているのに。彼女は、かつては僕と将来を共にするはずだったのに。今では「彼ら」の側に行ってしまったのだ。幾つものグラスが触れ合う軽やかな音は、説得できるかもしれない──取り返せるかもしれないと、縋るように抱いた望みが砕ける音のようだった。
* * *
二時間も耐えれば、ディナーも終わるだろうと計算していた。栄養液なら何をしながらでも食事ができるのに、カロリーの摂取のためだけに貴重な個人の時間を拘束するなんて狂気の沙汰だが、それが彼らの流儀なのだ。あえて批判を口にするような無礼を犯さなくても、当たり障りのない話題のストックは、十分に用意して臨んでいた。その、はずだったのだが──
「失礼、ちょっと、外の空気を吸ってきます」
彼らも彼女も、デザートを平らげた後も席を立つ気配を見せなかった。配膳ロボットは、空いた皿やグラスを回収しては、新たなボトルをテーブルに並べて行った。彼らの胃とかいう臓器もさすがに満杯なのだろうが、ロボットの腹からは小粒のチョコレートやナッツやチーズの切れ端などが奇術のように次々と吐き出されている。おつまみ、とカテゴリーされる小品らしいが、フルコースを平らげた後なのに飲食を止めない彼らの食への執着は、僕の目には異様に映った。
「おや、『食べ過ぎ』ですか?」
「そうですね、見ているだけなのに変な話ですが」
彼らの冗談に笑顔で応じるのは──この場にいるのは、限界だった。隣の彼女がどんな顔をしているかはできるだけ見ないようにして、僕はできるだけそっと立ち上がる。農場主は中座する無礼を咎めることもなく、笑顔で送り出してくれた。
「それならバルコニーに行くと良い。ここでは星が綺麗ですよ。天の川は見たことがないでしょう?」
「ええ……肉眼では」
映像記録での視聴はもちろんのこと、VRで体験したこともあるのだ。彼らが誇る青空も草原も水のせせらぎも、それに満天の星空も。自分自身の五感を、最新の技術よりも優れていると信じられるというのは、非常に奇妙なことだった。もちろん、わざわざ声に出して言ったりはしなかったが。
* * *
バルコニーから見上げる夜空には、確かに砂金をこぼしたように星が煌めいていた。美しいのは認めよう。だが、映像で見るのとは違って、星が輝くのは視界のせいぜい半分だけ、残りの半分を占めるのはひたすらの闇だ。果樹園とか小麦畑とか黒々とした森とか──昼間なら、それなりの景色も見えるのだろうが。生身で体験する大自然なんて、やっぱりこのていどのものだった。
草木や夜露の臭いを含んだ風も、心地良いとは思えなかった。でも、室内に立ち込めた脂や煙草やアルコールの臭いよりはだいぶマシだった。
それに、細かな彫刻が施された手すりに凭れる僕の背中に、近づいてくる足音がある。ヒールが刻む踊るようなリズムは、聞き間違えようのない、彼女のものだ。彼らを置いて、追いかけてきてくれたのだ。そう思うと、僕の機嫌は少しだけ上向いた。
振り向いて、彼女の姿を確かめて、微笑む。
「……感じが悪かったかな、僕は?」
「まあ、あんなものでしょう。観光客にはもっと失礼な人もいるわ」
僕は観光客ではない、だろう。だが、彼女を──身内を訪ねて来たのだとしたら、好奇心丸出しの観光客よりも褒められたものじゃない態度だったかもしれない。「ここ」に金を落とすでもなく、内輪の席に招かれておいて団欒に加わろうとしないだなんて。
僕の顔が曇ったのには構わず、彼女はグラスを差し出した。中を満たす液体は、無色透明のようだった。夜空の闇と煌めく星、彼女が纏う赤いドレスがガラスの曲面に映り込んでいる。
「水を飲む? 湧き水なんかじゃないわよ、ちゃんと濾過して殺菌処理してある。清潔なものよ」
彼女が、僕のことを気遣ってくれたのは嬉しかった。彼らとの席でストレスを抱えていたことについても、水そのものについても。何より、彼女の微笑みは星明りに負けず劣らず眩しかった。先ほど感じたよりも、彼女は遠くに行ってしまったのではないのかもしれない。でも──
「いいや……給液管を使わないで飲むのは苦手なんだ。こぼしたりしたくない」
それでも、僕は首を振った。水に余計なカロリーはないことは承知しているし、彼らの衛生観念も信じてはいる。つまり、客にも出すグラスは十分に殺菌消毒されているだろうと。にもかかわらず彼女の厚意を拒絶したのは、単純に「ここ」で口を使いたくなかったからだ。彼らの食事に度肝を抜かれて、意地でもいつものやり方を通したくなってしまった。まともな人間は人前で口を開いたり、給液管なしでものを飲んだりしないものだ。そうじゃないか?
「そう」
僕の幼稚な対抗心めいたものはお見通しだっただろう。そしてそれは、彼女に対する無言の非難にもなり得た。だが、彼女は鷹揚に頷いてくれた。僕を見つめる彼女の目は、自らをキリギリスと揶揄した時の農場主のそれと似ていた。あなたには随分野蛮に見えるんでしょうね、でも、これが「ここ」での普通です。人間は、本来は「こう」だったんですよ。そう、暗に告げる眼差しだ。
彼女が追いかけてきてくれた喜びに水を差された気がして、僕は眼下の闇に目を向けた。何も見えやしないのに、無意味なことだが。そして、呟く。
「君はそんな声だったんだな」
「ええ。私も驚いた。自分で聞くのと人のを聞くのでは、違ったように聞こえるそうだけど。頭蓋に響くから」
「そうなんだ……」
先ほどの席で彼女が僕の隣に座っていたのは、彼らの気遣いだろう。それも、単に友人同士をくっつけてやれ、というだけではない。非常に親しい相手が、口を開けて笑い、音を立ててものを咀嚼する──そんな光景は、ひどくショッキングなものなのだ、僕らにとっては。たとえ視界の端に映るだけでも、心が削られていくほどに。異なる文化の「彼ら」と談笑する気力が、擦り減っていくほどに。
「貴方の声も聞きたかったけど、そうもいかないんでしょうね」
彼女が寂しげな笑顔で、しゃべる。口をぱくぱくと開閉させて、舌を動かして、喉を震わせて。彼女自身の声を紡ぐ。記憶にあるものより高いその声が少し掠れているのは、きっとまだ慣れていないからだ。新しく形成された「口」に、それを使っての発声に。
* * *
給液管を使っての栄養補給が一般化すると、「口」というのは非常に効率の悪い器官ではないか、という考えも広まっていった。口というか、それに関連する口腔とか歯とか、さらにはそこから繋がる胃とか腸とか。さらには、「食べる」ことから生じる食事という時間も、まったく無駄ではないだろうか、と。
栄養液なら、手や周囲を汚す心配なく手早く「食事」を済ませられる。仕事を中断する必要もない。咀嚼という行為がなくなれば、口腔ケアにかかる時間や医療費が節約できる。液体だけを摂取すれば、不快な排泄物も大幅に減らすことができる。個人にとっても社会にとっても、地球にとっても朗報だ。食感? 歯ごたえ? 味わい? どうしても恋しいならVRの体験で間に合うだろう。実際、現代では味に関する楽しみは非常にマニアックな趣味のひとつとして細々と愛好されているに過ぎない。そんなものがなくても、現代にはほかの娯楽も溢れている。
使わない機能が退化するのは、自然の摂理だ。さらには、遺伝的・外科的な治療も手伝って、現代の人間の姿は旧い時代とは大幅に異なっている。歯を失ってほっそりとした顎。口は、給液管を咥えられれば良いから、無駄のないごく小さな切れ目に落ち着いた。消化器官の容量もだいぶ減ったから、身体つき自体もだいぶスリムになった。
無論、今の「口」では声を発することはできないが、それも問題ない。各人の脳に埋め込まれたチップが思考を読み取り、同じく身体に埋め込まれた音声機器が「声」にしてくれるのだから。どんな響きの声にするか、しゃべる速さやトーンも思いのままに設定できる。機械的な声、だなんて懐古主義者の的外れな非難に過ぎない。天然の声帯ではあり得ない高音や低音、鳥の囀りのような、猫の鳴き声のような──現代に生きる人々が、どれほど多様な「声」で語り合っていることか!
* * *
僕の「声」は、それほど奇をてらったものではない。だが、まったくこだわりがないんはずもない。自分の考えを乗せるツールは、ある意味ではメイクや髪型や服装よりもその人を表すものなんだから。
だから、僕の声が聞きたい、だなんて彼女の呟きがひどく不当なものに思えて、僕は声を荒げていた。あるいは、脳波の揺れを読み取らせて、音声機器にそのようにしゃべらせた。
「僕だって自分の声でしゃべっている。僕が選んだ声で、言葉で。君だってまったく好みを反映していないはずがない」
「ここ」は、頑なに進化を拒んだ変わった人々の集まるコミュニティだ。ちょっとした国ほどの面積に、前時代の生活様式や、貴重な生態系を保存しているということで、観光地や青少年の研修先として人気が高い。現代社会の素晴らしさを理解するために、あえて不便を味わうという、ある種マゾヒスティックな需要があると言われているが──ごくまれに、「彼ら」の生活に惹かれてしまう者が現れるのだ。
彼女も、そのひとりだった。
「そうなんだけど──」
僕を見る彼女の目に宿っているのは、紛れもない哀れみの色だった。巣のためにあくせくと這いまわる働きアリを見下ろす目だ。
僕と参加したツアーで「ここ」を訪ねた時は、彼女も同じ群れにいたと思っていたのに。キリギリスたちに対して、批判の目を向けていたと思っていたのに。いや、もしかしたらそれは僕だけだったのか? 彼女は目を輝かせていたのに、気付かなかっただけなのだろうか。彼女は初めから自分も混ざるつもりで、移住先として、真剣に彼らを観察していたのだろうか。
僕が気付いた時には、多分すべてが遅かったのだ。彼女は、真実に目覚めたとか、自然に回帰するとか言い出して、身体を傷つけて、改造して作り変えた。「彼ら」と同じように。そうして、「ここ」に移住した。僕は置き去りにされた。僕がこんなところを訪ねたのは──
「君に、帰って来て欲しかったんだ」
機械が紡いだ悲しげな声は、僕の心をしっかりと表してくれていた。僕の未練、仄かな期待、けれどそれが打ち砕かれたこと。彼女の──文字通りの──変貌を、彼らの文化の相容れなさを目の当たりにして、違う世界に行ってしまったのだと突き付けられた。
「どういうことだか、分かっていなかった。いや、知ってはいたはずなんだけど。君が……その、こんなに変わってしまうなんて」
「口」を作るだけじゃない、彼女の変化は内臓にも及んでいる。またもとに戻す、なんて身体への負担を考えればあり得ない選択だ。いや、今どき身体的特徴を理由に迫害されることこそあり得ない。極端に懐古的な思想や嗜好だって同じこと。だからそれは問題ではない。単純に、彼女はもう帰らないのだ。僕のもとへ、僕らの世界へ。
「君は、『こちら側』の人間なんだな、もう」
食卓を囲んでの団欒は、僕には時間の無駄としか思えない。彼らは常識もマナーも身につけているけれど、それでも「口」の隙間から咀嚼しかけの食物が見えてしまう瞬間は皆無ではなかった。くちゃくちゃという音、様々な料理の、混ざり合う臭い。触れ合うカトラリーが立てる騒音。どれもが気持ち悪くて落ち着かないはずなのに──彼女は、楽しそうに「彼ら」の輪に混ざっていた。僕を置き去りにして。
ほんの二時間ばかりのディナーの間に、嫌というほどわかってしまった。助けにきたつもりで、僕は怪物と楽しそうに暮らしている姫君を見てしまったという訳だ。彼女は攫われた訳じゃない。自分の意志で、自分の人生を選んだというだけ。彼女は間違えてアリの巣に紛れていたキリギリス。そして僕は、どこまでも働きアリだった。
「私は、貴方に来て欲しいと思っていたわ。少しだけ、ね。無理だと分かっていたから」
「え──」
僕は、ほぼ諦めていたのだ。だから、彼女の言葉に、彼女が自ら紡いだ声に、目を瞠った。
ああ、僕が「こちら」に来るという選択肢もあったのか。彼女や、彼らのように身体を改造して──あるいは、しなくても。文明を捨てて、けれど精神的な豊かさを取る? 彼らの文化は無駄と理不尽に満ちていて、気持ち悪い。でも、彼女がいるなら? 僕に、耐えられるだろうか。
「僕、は」
静謐な星空の下に、無粋な機械音が響き渡る。僕に埋め込まれたチップと、連動している音声機器が僕の感情を処理し切れなくてエラー音を吐いているのだ。激しい感情の動きは、言うべきでない言葉に繋がりがちだから。無用のトラブルを避けるため、公序良俗を守るため、言葉にならない感情は言葉にしないように、安全装置がかかっているのだ。
「それが、貴方の答えだものね」
彼女の眼差しは、やはり不本意極まりなかった。「彼ら」の思想に染まった君は、機械に操られた哀れな存在だとでも思うのだろう。アリは勤勉の象徴ではなく、隷属や盲信の権化なのだろう。
だが、君だって以前は「こう」だったじゃないか。言いたいことが言えない、って訳でもないのを知っているだろう。管理社会だなんて、古臭いフィクションの中だけの存在だ。僕らは何も禁じられていない。わざと不謹慎な考えを浮かべて、エラー音を出して笑い合うことだってあっただろうに。
言いたいことは、山ほどあったはずなのに。僕の「声」は言葉にはならなかった。無味乾燥な機械音は、彼女を繋ぎ止めるにはとうてい足りない。
僕は、彼女が背を向けて遠ざかるのを、見送るしかなかった。
* * *
その朝、僕の目覚めは悪く、頭はやけに重かった。昨晩、彼らの酒席に夜遅くまで付き合ったからだ。アリとキリギリスでは、きっと活動時間も違うのだろう。
「これは……二日酔いってやつか……?」
機械の声にぼやかせながら、ゆっくりと起き上がる。そう、僕はグラスから直接ワインを飲みさえしたのだ。ごく少量のナッツやチーズなら、僕らの消化器官でも処理できなくはないそうだが、それはさすがに怖かった。僕らの味覚は退化しているから、味を楽しむこともできないし。
僕の蛮勇に、彼らは大喜びだった。初めて味わうアルコールに
「美味しかった。楽しかった。二日酔いも、良い体験だ。これが人間の生活、人間の感覚なんだ……」
洗面台に立って顔を洗い、鏡の中の自分に言い聞かせる。自分自身が発した言葉を信じることは、とうていできそうになかったが。これは、しょせん機械の声だから、なのか? 僕自身の声じゃないから説得力がないんだろうか?
「──くそ……っ」
無性に腹が立って、鏡を殴る。僕は、僕こそが人間なんだ。おかしいのは彼らのほうだろうに。彼女のようにわざわざ肉体を傷つけるのも、「進化」を拒んで古い姿を延々と受け継ぐのも。享楽的なキリギリスどもめ、なのにどうして悔しいだなんて思わせる? アリでいるのが惨めだなんて思わせる?
僕なりに、努力はしたのだ。彼女への説得も、彼らへの歩みよりも。せめて、彼女の選択を心から祝福できれば良いと思った。でも、何も分からなかった。食べることの楽しさも、酒の美味さも、喉を震わせてのおしゃべりも。分かるのは、「ここ」では僕こそが異物だということだけ。
「分からない……分かりたい……」
つるりとした冷たい鏡面を、そこに映った僕の顔を、撫でる。彼らと違う形の顎の線を、口元を。何も分からないのは、やはり種族が違うからだろうか。彼らと同じになれば、彼らがいうところの「本当の口」があれば、分かるようになるだろうか。
洗面台には、古式ゆかしい剃刀というものが用意されていた。無論、「外」からの客人のためにシェーバーもあるし、今までは僕もそちらを使っていた。刃物なんて、ハサミでさえも持つことは稀だ。でも、使い方は簡単だろう。当てて、引く。それだけのはずだ。
僕は、鏡を覗き込みながら口元に触れた。指先で線を描いて、イメージを膨らませる。彼女の口は、どれくらいの大きさだっけ。どれくらい切り開けば彼女と同じになるだろう。表面を切るだけでは駄目だ。頬を切り裂いて、完全に「口」を作らなければ。
「痛──っ」
剃刀の刃を口の端に当てると、痛みは思いのほかに鋭かった。熱い液体が口の中に流れ込むのは、血だろうか。そういえば、僕は怪我をした経験も稀だった。
血は瞬く間に僕の狭い口内を満たした。血の成分は何だったか、ひどく呑み込みづらい。堪らず吐き出すと、洗面台が赤く染まった。気持ち悪い。二日酔いもまだ醒めていないのに。でも、止める訳にはいかない。早く早く、彼女の気持ちが分かりたいんだ。
血と冷や汗でぬめる手で、僕は剃刀を持ち直す──そこへ、甲高い悲鳴が耳を刺した。
「何をしているの!? 血だらけじゃない!」
彼女が、寝坊を心配して来てくれたのか。それとも、何か変な物音でも立てていたのかな。彼女が悲鳴を上げるとこんな声になるのか。新鮮だな。
心配いらない。すぐ終わるから、ちょっと待ってて。
そう言おうとしたのに、聞こえたのはエラー音だけだった。どうしてだろう。音声機器の故障なんて聞いたことがないのに。僕の思考は明晰で、伝えたいことははっきりしているはずなのに。
どうして、彼女が遠くに見えるんだろう。僕のほうへ駆け寄ってくれているのに。どうして、僕は──
* * *
気が付くと、僕は白い部屋の白いベッドに横たわっていた。つんと鼻をつく消毒液の匂いで病院にいるのだろうと分かる。「あちら」ではない、「こちら」側の、ちゃんとした近代的な病院だ。清潔なシーツのぱりっとした張りは、よそよそしいと同時にこの上なく安心でるものだった。
「ああ、目を覚ましましたね」
漂白したような白い世界は「あちら」の世界の猥雑なグラデーションに慣れた目には眩しすぎた。しきりに瞬きする僕を覗き込んで、看護師らしい女性が微笑んでいた。
「『あちら』に行かれてたんでしょう。たまにいるんですよ、剃刀とかナイフで怪我をしてしまう人が」
「僕は──」
看護師の顔の下部に走った小さな切れ目は、口。その口が描くほんの微かな弧は、笑み。そう認識できたことに、僕は少し戸惑った。これこそが人間の顔で、これこそが人間の笑みのはずなのに。ほんの数日「あちら」にいただけで、僕の感覚はすっかり狂ってしまったようで──怖かった。
「慣れないことはするもんじゃないです。ええ、特別な空気に触れると自分でもやってみたくなるんでしょうが」
看護師の女性の「声」は柔らかいアルトで、優しく、落ち着かせるようなトーンだった。白衣の天使に相応しい、彼女のプロ意識を窺わせる調整だ。リラックスして身を委ねれば良いはずなのに、どうして機械的だ、なんて思ってしまうのだろう。
それに、この女性はたぶん勘違いしている。
「あの、そうじゃなくて」
僕は、「あちら」のワイルドな生活にテンションが上がって刃物を振り回したくなったんじゃない。そんな、子供っぽいことじゃない。この看護師が担当してきたという怪我人も、きっと全員が全員、そうだった訳じゃないんじゃないか? キリギリスに憧れてしまうアリも、意外といるってことなんじゃないか?
「あちら」で思ったこと感じたこと、僕らと彼らの違い。人間とは何か。剃刀を握った瞬間の、どうしようもない焦り。吐き出したいと、思うのに。
エラー音。僕の胸に渦巻く想いは、はっきりとした文章にならない。だから、合成音声に乗せることはできない。
無様に言い淀む──エラー音を響かせる僕に、看護師はあくまでも優しかった。腕白で勇敢で、幼稚な少年を扱うかのように。
「しばらく、『食事』の時は痛みますよ。耐えられないなら痛み止めを処方してもらいますが。──まったく、深く切っちゃって」
エラー音。給液管を咥えさせられるのだと知った時の僕の心の乱れも、味気ない機械の鳴き声にしかならなかった。どうして口の端を裂くような傷になったのか、この看護師も、「こちら」側の知人も友人も誰も、分からない。分かってくれないだろう。いいや、「あちら」の彼女たちにだって分かるかどうか。
「馬鹿なことを、しました」
ああ、やっと「声」に出せた。失態を恥じて苦笑する大人の「声」では、僕の想いはとても伝えられなかったけれど。本当に、馬鹿なことだった。意味のないことだった。単に口を切り裂いただけで、彼らの仲間に入れるはずもないだろうに。彼女のように、肉体を改造する覚悟なんてない癖に。彼らの生活を、どうしても野蛮としか思えない癖に。
給液管に嫌悪を覚えて何になる? 僕は他の「食事」は受け付けない。パンやチーズ、肉汁滴るステーキ、バター香るケーキ──どうだ、気分が悪くなるじゃないか。思い出すだけでもむかついてくるじゃないか。
ああ、なのになんて羨ましい。でも、限りなく遠い。
僕はしがない働きアリ。キリギリスの宴には、どうやっても混ざれないのだ。
アリはキリギリスに憧れる 悠井すみれ @Veilchen
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