オセロ

石濱ウミ

・・・



 「助けてください。お願いします」


 一陣の風が、花びらを舞い上がらせる。

「ええ、もちろん」

 花びらと共に静かな落ち着いた声が、俯く地面に、降り落ちた。




 ……『正しさ』とは、実にオセロとその駒のようなものだ。


 誰が見ても同じように道理に適っていて、倫理に則しているとした特徴を持つのが『正しさ』であるとするが、実のところ駒の種類は、ひとつしかないのに表と裏がある。

 というのも、正しいの反対は誤りであるが『正し』の反対は存在せず、そこには正しさがあるだけだとするのだから、表と裏と呼ばずして何と呼ぶのか。


 それを物語るように『正し』とは時に、白だったものが挟まれることで黒になり、そうかと思えば予期せぬ方向から多数にされるようにして、再び色目が変わってしまうことがある。またこの場合、盤上の四隅に予め駒が置かれることもあって――その四隅に置かれるものは、場合によって、時代であり人であり道徳観であり法規範や宗教観だったりするが――果たして我々がそれを知るのは、いつだって盤上が隙間なく埋まった後だ。

 

 

 一方で正義は正しさとは、違う。


 正義には裏も表もない代わりに反対の不義があり、それらは同時に、ひとつではない。

 人の数だけ異なった『正義』や『不義』があり、またそれが、必ずしも『正しさ』に即しているとは限らない。

 

 実に正しさとは欺瞞に満ち、正義とはことごとく、千態万状せんたいばんじょうである。


 

『誰だ? なんでこんなことを? お前、正気か? ふざけんなよッ……オイ、なんとか言えよ……や、やめろ……よせ、やめろッ』




 ――年間約八万人。



「一日に換算すれば約二百人。まあその大概は、こう言っちゃなんですが当日から一週間以内に見つかるんですけれどね」


 これは、日本全国の警察に届けられる行方不明者の数であると私の隣りに座る男は、そう言って、うっそりと笑った。


 春の日差しが、桜の樹々を縫うようにして地面にいく筋もの光を投げかける中、花見をする人に紛れ、私は男の次の言葉を待つ。



「さらにその行方不明者の中から、所在確認が出来た人を除いた後に残るのは年間にして約一千人。一日に換算すると約二人」


 つまり国内では毎日二人ずつ、見つけることの叶わない人が増えているとも言えるのだと、その男は続ける。


「彼らに何が起きたのかは、分かりようがありません。だって、そうでしょう? 見つからないのですから」


「助けてください。お願いします」


 私は、深々と頭を下げる。「アイツだけは、赦せない……赦せようもない」

「ええ、もちろん。その為に僕は、ここに居るんです。僕に全てを任せてくれて、良いんですよね?」


 私は顔を上げ、桜の樹々を仰ぐ男の横顔を見つめた。

 一見すると、どこにでもいるような男だった。年齢は三十代前半。眼鏡を掛けているが、度は入っていないようだ。その所為で目元の表情を読むことは出来ない。

 男が纏う空気は凪いだもので、そのことで安堵にも似た気持ちが込み上げた私は、再び視線を地面に戻す。


「出来るなら、忘れようと努力しました。それが無理なら、この手で直接……そう思っていました。今だって、そう思っています。でも……」


 私に代わって復讐をしてくれる誰かを探していた。

 それが、正しいことなのかは分からない。

 正しくは、ないだろう。

 だが、『正しさ』には誤りはない。

 見方によっては、どちらもまた正しさであるからだ。復讐するのも、しないのも、自分でするのも他人に任せるのも、どちらも『正しさ』なのだ。


 男は、また、うっそりと笑う。


「同じですよ。何をしたところで、その黒い感情が晴れることなんてないんです。いつか忘れる? いつか赦せる日が来る? ははッ。まさか……忘れるどころか、憎しみは日増しに大きくなるばかり。相手が憎いのは当たり前。何もしなかった自分が、憎い。何も出来ない自分さえもが、憎い。もしかしたら救えた筈だと考えてしまう自分以外の誰もが、憎い。……記憶というのは、おかしなものですよ。忘れたいことが忘れられず、覚えておきたい細やかなことは、まるで手のひらに乗せた砂粒のように零れ落ちる。そうでしょう?」


「……復讐は何も生まないと分かっているんです。娘は直接、生命を奪われたわけではない。でも……! だからといってあの判決では、到底納得出来ない。どうしても考えてしまう自分がいる。娘は、なぜあんなに酷いことをされなくてはいけなかったのか。知らない人に襲われる恐怖は、どれほどだったか。それを想像するだけではらわたが煮えくりかえる。同じ思いを味わわせてやりたい。この手で!! それなのに……怖くも、あるんです……自分が……アレと同じものに成り果てるのが」


「同じもの? そうですか? しかし、それは嘘だ。あなたが恐れているのは、同じものに成り果てることではなく、それによって自分が失うもの、誰かに失わせてしまうこと、ですよ。……ああ、すみません……非難しているわけではありません。それは当然のことです。あなたは真っ当に生きてきた。こよなく家族を愛し、充分に社会の規範を守り……それでも大切な人を、理不尽に失ってしまった。だからそれで、良いんです。失うこと……その心配は必要ありません。あなたは、もうこれ以上、何も失わなくて良いんです。その為に僕が居る」


「あなたは、何も恐れてはいない……?」


「いえ、僕にだって恐れているものはあります。あなたも、じきに分かるはずです。復讐を果たしてしまった後、憎むべき相手を失ったその後の感情ですよ。それでも自身の苦しみは何度だって蘇るし、憎しみは消えない、それから解放されることもない。僕はね、それを押さえつけるために、こんなことをしているんです。あなたの為じゃない。誰の為でもない。これは僕自身が、いっときでも楽になりたいが為にしている事なんです」


「ならば、あなたのしていることは正義ではない、と?」


「正義? 正義なんて、どこにあるんですか? そんなもの、どこにもありませんよ」


 その一言が、私は聞きたかった。

 視線を地面からゆっくりと持ち上げ、桜の樹々を見上げる。


『あ、あ、あ……なんでも、します……助けて……助けてください。お願いします』



 私は、立ち上がる。

 男はまだ、桜を見上げていた。

 前を通った時に、それとなく男の顔を盗み見たが、穏やかなその目は、何も見てはいないことに気づくのだった。

 

 



『ひいぃい……っ。どうっ、どうして? オ、オレ、あんたに何かした? なんで? うわぁッ。う、うあ、あ、ああああーーーっ!!』





 ……失うものさえ無くした僕は、誰かの代わりに終わりなき復讐を続けている。

僕に見えている顔は、同じ。いつだって僕が手を下しているのはアイツで、この両手に染まる血の色はどんな時も同じ色だ。


 遅かれ早かれ、いつか僕のしていることは、見つかるだろう。


 それで、良いのだ。

 




 ――冬の日の朝早くは、カチカチに凍ったバニラアイスクリームの蓋を開けたときの匂いがするの。



 じゃあ、夏は?


 ――夏は、笑いながら駆け回った草原の葉っぱを踏み潰したような匂いかな。



 ふうん、春は?


 ――初めて抱きしめられた時の、あなたの、匂い。



 僕は、空を見上げる。

 白い硝子を通して見るような、ぼんやりとした水色が広がっていた。


 抱きしめる君の居ない春が、ほらまた、ひとつ。







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オセロ 石濱ウミ @ashika21

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