僕は人魚に恋をする【KAC20227:出会いと別れ】

冬野ゆな

第1話 僕は人魚に恋をした

 にぎやかな祭りの中心を、のろのろと人に逆らうように歩く。

 ひとびとの頭の上には色とりどりののぼり旗があり、あちこちから呼び込みの声が聞こえている。


「サァサァ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。これなるは密林の奥地より発見された蛇女だよ。お代は見てのお帰りだ」


 蛇女、人間ポンプ、やもり女に生人形――。

 おどろおどろしい看板が踊り、呼び込みの声が人々を怪しげなテントの闇へと引きずり込んでいく。

 終戦から数年の時が経ち、人々は活気を取り戻しつつある。かつてさも当然のように軍人になるのだと思っていた僕は、唐突に目標を失ってからの数年だった。おかげで僕は呆然と生きている。そんな僕に生気を注いでくれるのが、悍ましくも妖艶な賑わいだった。


 ほとんどの見世物は、蛇女と言いながら蛇の入れ墨を入れているだけだったり、大イタチなどと宣伝しながら大きな板に血をつけているだけだったりと、ジョークの類も多い。

 だが、軟体生物のごとき動きをするタコ女や、飲み込んだ金魚を再び吐き出すポンプ芸などは、純粋に凄いとも思った。なんにせよ僕は、このいかがわしくて悍ましい世界に心を掴まれ、癒やされていた。この闇の世界こそが、僕の


 代金を支払って、蛇の生食いをしていた女の見世物小屋から外へ出る。

 暗いテントの中から出ると、外は相変わらず賑やかだった。


 めぼしい見世物はないかと歩いていると、いつの間にかするすると歩いていることに気がついた。すでに祭りの中心地から外れたところへと出てしまったらしい。灯りもほの暗く、陰鬱で不気味ささえ漂う。それでもそこには見世物小屋があった。ヤクザ崩れのような、暗い親父が一人で座っている。


「兄さん、どうだい。世にも珍しい人魚だよ」


 人魚か。

 どうせ金魚食いのようなポンプ芸か何かだろう。

 だがはじめて見るテントだったし、僕は足を向けた。これが目当てなのだ。小遣い程度の金額を無駄にしたとて、僕は一向に構わなかった。

 薄汚れてすり切れたカーテンの向こうへと入ると、地下のような暗さがあった。むっとするような湿気が渦巻いていて、僕は思わず手で仰ぐ。妙に暑かった。小屋の中にはぱらぱらと人がいたが、薄暗くてよくわからない。みな、ステージの小汚い赤い幕のかけられたものを見ている。ぶつぶつと、張りの無い声が響く。


 ――可哀想はこの子でござい。親の因果が子に報い、生まれいでたるこの姿――


 いつもの知られた口上だ。

 

 ――あな痛ましや――


 ごぼりと何かが蠢いた。赤い幕が引かれ、その向こう側の巨大な水槽があらわになった。そこには、灰色のぬらぬらとしたものが蠢いていた。心の奥底から、なにか得体の知れないものがこみあげてくる。灰色の魚の尾から、つなぎ目がわからぬほどに精巧さで、ガラスで曇った白い肌に続いていた。こちらと向くと、水の中でゆらゆらと揺れる髪の毛の間から、発育の良い柔らかな乳房が覗く。

 駄目だ。

 この先を見ては駄目だ。

 縦に伸びた瞳孔と、目が合った。


 それから僕がどうやって見世物小屋から出てきたのか、とんと覚えていない。

 心臓が止まるかと思った。

 いや、もしかしたら一度止まってしまったのかもしれない。

 人魚は確かにいるのだと強く僕の心に刻みつけた。いったいさっきのあれはなんだったのかと、自分の中の常識が、現実と幻想の間で揺れ動く。頭が揺れるようだった。がつんと横から殴られたような衝撃は、まだ僕の中にくすぶっていた。

 祭りから命からがら逃げ出すと、僕はほうほうのていで家に逃げ帰った。

 そうして、ようやく現実を受け止めたときには、布団の上で呆然と天井を眺めるばかりだった。


 僕はたびたびその見世物小屋に足を運んだ。

 彼女の腰から下はつなぎ目が見つからず、果たして口上通りなのではないかと思えてきた。海の掟を破った親から生まれた可哀想な子供。そういう口上だった。よくあるものだ。

 さらに不思議なのは、どうしてこれほどの見世物がいつも人が少ないのか、ということだった。たとえ灰色の尾が偽物であったとしても、長時間水の中で泳ぎ続けるなどとうてい無理な話だ。客はいつもぱらぱらとしかおらず、僕は彼女をじっと見つめていた。


 彼女も僕を見ているようだった。

 視線が合うといえばいいのだろうか。


 僕たちの不思議な逢瀬はそれからも続いた。だが、祭りはいつか終わるものだ。そうなれば彼女に二度と会うことは叶わないだろう。

 どうしようもない焦燥感が僕を襲った。


 だからその日、僕は見世物小屋の裏手に回り込んだのである。


 夕暮れ時のことだった。

 まだ祭りが始まる前。僕はこそこそと裏手側を回り、見世物小屋のアルバイトのような顔で走り抜けた。目的の小屋にたどり着くまで、多くの芸人と見世物小屋の主たちがいた。夜に向けての準備に勤しんでいるようだった。一度など、蛇を運んでいた女とぶつかりそうになった。後ろからどやす声が聞こえたが、構っているヒマはなかった。向こうだって構っているヒマはあるまい。

 ようよう目的地にたどり着くと、見世物小屋の親父がいないことを確認してから、そっと小屋のカーテンを開けた。薄暗いテントと違って、裏手はちゃんと灯りがあった。あたりを見回すと、奥の方に巨大な水槽が置かれていた。

 はやる気持ちと心臓をおさえ、ゆっくりと近づいていく。

 果たして彼女はいた。

 彼女は薄暗い水槽の中で、じっと僕のことを見つめていた。

 ざばりと水槽の中から顔を出した。ぬらりとした髪の毛がぺったりと彼女の頭を覆う。青く、縦長の瞳孔が僕を見た。しなやかな肌を、水が伝っていく。喉の両側には魚のエラのような器官があり、それぞれ二つずつ並んで、どれもこれも内側から赤い肉がひらひらと動いて呼吸をしているのが見えた。そのくせ並んだ乳房は人間そのものだ。

 彼女はじっと僕の顔を見つめていた。

 まばたきのしない目で。


「あ……」


 思わず、右手を差し出す。その頬に向け、ゆっくりと右手が近づいていく。永遠に思える時間だった。

 唐突に、人差し指と中指に痛みが走った。


「うっ!」


 右手の人差し指と中指が、引きちぎられていた。

 思わず彼女に目をやると、彼女の口からは血が伝っていた。いましがた僕からかじりとった二本の指が、その口の中に食われていく。


「あっ……がっ……!」


 思わず痛みにもだえ、僕は右手をおさえたままなんとか後ずさる。

 がたんと音がした。後ろにあったテーブルにぶつかり、そのままバランスを崩した。彼女は水槽の上から身を乗り出し、唇をぬらした血を長い舌で舐めとった。血のにおいに誘われるように、僕へと近づいてくる。


「なにしてる!」


 騒ぎに気がついたのか、見世物小屋の親父が戻ってきたらしい。右手をおさえる僕の姿を見て、いまにもつかみかからんばかりの勢いだった。

 だが、僕の右手から流れる血に気がつくと、ハッとしたように青くなった。


「お、おめぇ、まさか血を――」


 その横から、あぎとを大きく開いた美しい化け物の顔が迫った。

 まばたきをしない目が、親父の首へと噛みついていく。途端に親父は後ろへひっくり返った。無造作に置かれた椅子が一緒に倒れ、僕は息を吐きながら小屋の出入り口へと後ずさる。


「ううっ、ぐっ」


 巨体が水槽から飛び出し、親父の上に覆い重なってのたうった。魚というよりも蛇のようにぬらぬらとした尾が、銀色に輝きながら親父を覆い隠す。


 ごくん、ごくん、ごくん――。


 巨体の下でばたばたと動いていた親父の足が、やがてびくんびくんと震えるだけになり、やがて水に濡れた地面に投げ出されて動かなくなった。

 僕はその光景を背に、やっとの思いで逃げ出した。

 走って、走って、走って、ようやく明るい闇から抜け出すと、不意に右手に走る激痛で我に返った。


 唐突な別れは、僕たちを引き裂いた。

 見世物小屋の店主が死んだという話も聞かないし、世にも美しい化け物が発見されたという話も聞かない。僕はしばらく新聞を見て過ごしたが、これといった情報は無かった。

 ただ、僕の右手の人差し指と中指は見るも無惨に無くなってしまった。うっかり野良犬にかみちぎられたのだというと、案外信じてもらえた。確かに僕の指は、獣のようなものにかみちぎられた跡で相違なかったからだ。


 あれ以来、僕はどうしようもできない恋を引きずったままだ。あのとき僕に生まれた恐怖が、僕の足を闇から永遠に切り離した。それを思うと。彼女に食われた見世物小屋の親父に、どうしようもない嫉妬を抱いてしまう。代わりに、永劫に消えることのない小さな痛みと喪失を抱え、僕は人の世で生きていくしかなくなってしまった。

 窓の外へと目線を向ける。

 太陽は傾き、夕暮れの光が街をオレンジ色に染めていた。

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