夜の畦道

石濱ウミ

・・・




 まあまあ、遠いところ良くいらっしゃいましたわね。


 どうぞお入り下さいな。

 あら、そんなに恐縮なさらないで。

 ご覧の通りのただの年寄りですから、若い方とお話出来るのを楽しみにしていましたのよ。


 ……まあ、お上手ですこと。


 椅子に掛けて楽になさってね。

 お飲み物はいかが?

 あら遠慮しないでくださいな。

 まぁ……わたしが飲みたいもので良いの?

 それじゃあ、お紅茶を淹れましょう。


 …………。


 ……不思議? 器用ですって?


 初めてご覧になる方は、みなさんそうおっしゃるのよ。ふふふ。手妻みたいでしょう。あら、手妻が分からないの? そうそう。手品。知ってらっしゃるじゃないの。

 これは器用でも何でもないのよ。

 必要に駆られれば、誰にでも出来ること。


 ……お口汚しですが、遠慮なさらずにどうぞ。


 お嫌いじゃなかったかしら?

 この、お紅茶?

 そう。なら、良かった。

 苦手な方もいらっしゃるのよね。

 わたしね、このベルガモットの香りを嗅ぐと、しゃんとした気持ちになるんですのよ。

 頭の奥に響くというか……。

 そう、目の醒めるような。

 背筋をぴんと伸ばしたくなるような。

 そして、いつだってあの頃を思い出してしまう。この香りは、胸を締め付けるのよ。

 ですから、わたし。あのときの話を聞いて下さる今日のこの日に相応しい飲み物は、これしかないと思ったの。


 ……そうそう。香りといえば、あなたは煙草はお吸いになって?


 いえ、ね? あなたが入って来られたときに、外の空気と一緒にふっと微かに匂いがしたんですよ。きっと何処からか移ってしまったのね。


 あら、謝らないで下さいな。


 耳が遠くなって、目が見えづらくなってから不思議なことに鼻が効くようになってしまって……。

 煙草の匂いは、苦手ですけれど嫌いじゃないのよ。

 昔まだ、わたしが若い頃には煙草をむ大人の方々は今よりもうんと沢山おりましてね。咥え煙草で煙を燻らせながら、街を歩いていたものですよ。

 両切りの煙草をぎりぎりまで吸って、器用に指に挟んでいたそれを足元にさりげなく落とすの。そして靴のつま先でねググッと踏み潰してたわね。

 吸い殻? そこを歩く人に巻き上げられてそのうち消えてしまうわ。

 あら、そうよ。

 その頃は煙管きせると区別をつけるために紙煙草なんて言ったりもしたわね。

 煙草を紙で巻いて吸うから紙煙草。

 フィルター?

 両切りというのはフィルターなんて、そんなものはないのよ。

 だから地面に残るのは細かな煙草の葉と巻いていた紙だけ……そのうちみんな風に持っていかれてしまったわ。


 まあ? ふふ。そうよね、いまはもうそんな人はいないのですってね?


 時々、わたしの様子を見に来て下さる方の中には、吸う場所まで決められていてはたから見たらまるで動物園の展示物のようだとか、嘆くようにそうおっしゃっている方もおりますわ。

 街が綺麗になるのは素晴らしいけれど、規則ばかりで随分と不自由な世の中になっているように思えてならないのは、わたしが年寄りだからでしょうね。


 ……あら、そうですとも。


 もちろん秩序は必要だわ。

 何ごとにおいても、ね?

 まあ、なんにせよ望ましい状態を保つために規則規制が増えるのは、それほど常識のない方々が増えてしまったということなのかもしれないわね。


 ……え? 逆かもしれないですって?

 …………。

 ……そうね。

 ええ、あなたのおっしゃる通りよ。

 そうかもしれないわ。

 わたし達は自身でというものを作り出して、自らを雁字搦めにしているのかもしれないわね。

 

 歳を取るって不自由ね。

 自由でいるようで、不自由なのね。


 ………………。 

 ……。


 ……あの事件のことを尋ねにいらしたんでしたわね。


 覚えているかって、お聞きになるの?

 ええ。もちろん。

 ありがたいことに、うんと歳を取ってあちこちがたが来ていても、頭だけはこうしてしゃんとしている。

 それに……あのことを忘れられるわけなんて、ありませんよ。

 あの頃は遺体なき殺人事件として史実に残る大事件だなんて騒いだものですけれど、時が過ぎてしまえば他の恐ろしい事件に紛れてしまって、滅多なことでは引き合いに出されることも無くなりましたわね。

 今になって、こうしてお話を聞きに来られる方がいらっしゃるのが不思議なくらい。

 わたしを探すのも大変でしたでしょう。


 ……まあ。そうなの?


 便利なのだか、何なのか……この世の中の変わり具合には、驚くばかりですわ。


 ………………。


 ……いいえ。大丈夫ですとも。


 そうでなければ、あなたがこうしてわたしのところになぞいらっしゃる理由なんてないのに、おかしなことを言ってしまったわね。

 気を悪くしたりなんて、していませんわ。

 

 ……ゆくゆくは本にして出版なさりたいの? あら。違って?

 さいと? それって……? うぇぶ……?

 ああ、コンピュータ。

 コンピュータ内に記事を書いて皆さんに読んでもらうってことかしら?

 そう……ふふふ。

 あら、ごめんなさい。

 あなたを笑ったんじゃありませんよ。

 子供の頃に見せて頂いた雑誌には未来図が描かれておりましてね。

 それはもう盛んに。

 あの頃は誰しもが素晴らしい未来を夢見ていたんでしょうね。


 その絵を、ご覧になったことが?


 そう。ならお分かりよね。ふふふ。

 今になると、その滑稽で奇妙なことったらないわね。

 その絵を一緒に見ていたお嬢さまが言ったものですよ。

 実際に未来を、この目で見ることが出来たらどんなに良いでしょうって。

 この時は、あの様な事件が起きるとも思っておりませんのにそんなことを言うなんて、変ですって? 

 まあ、そうね。まるで長くは生きられないと覚悟をしているようですけれど、違います。

 

 ……ええ。そうです。

 その噂は、事実ですよ。


 お嬢さまは、目があまり良く見えておりませんでした。

 誰から見ても羨ましいくらいに睫毛も長く、たいそう美しい大きな瞳でね。

 その絵をご覧になる時も、もう紙に目をつけるようにして……こんなふうに。

 あの綺麗で美しい目で物が良く見えないなんて、そんな不思議があるものだといつも驚く思いでしたわ。

 その時お嬢さまは、わたしの顔を覗き込むようにして言ったんですよ。

 


『ねえ、千代チヨ。本当にこんな未来が来るのかしら? 見てみたいものだわ』ってね。

 

 

 ある筈だった未来とは、何処にいったんでしょう。

 

 ……あの日から、ずっと考えているの。

 


 ……………………。

 …………。


 ……ええ、忘れもしません。


 お嬢さまに初めてお目にかかったのは、柔らかな風に揺れる菜の花に、ひらりひらりと蝶が舞う麗かな春の日でしたよ。

 温められた空気に、菜の花の独特な鼻につんとくる匂いが立ち昇り、その中を蜜蜂や蝶々が働く様を見るともなしに見ながら、緩やかな丘の上にあるお屋敷を見上げるようにして菜の花の広がる川堤を父さまと二人で歩いて行く道すがら、わたしはお屋敷に上がってお相手をすることになるお嬢さまの何度目かになる話を聞いておりました。


 今でも、父さまの声が遠くから聞こえてくるようです。


「いいかい。お嬢さまは目があまり良く見えないことを忘れてはいけないよ。だから千代とは違ってあまり外へは出たことがないんだ。そのせいで少し風変わりなところもあるかもしれない。もちろん、お友達なぞいらっしゃりはしないのだからね」


 わたしが、お嬢さまの話し相手に選ばれたのは、遠縁にあたる歳の近い女の子であったという以外に理由はありません。


 ……嗚呼、わたしの大好きだった風変わりで、お可哀想な、お嬢さま。


 とても不思議なのですけれど、お嬢さまのことを思い出すときにはいつも、麗かな春の中、河川沿いの長く続く土手の斜面に咲く一面の黄色い菜の花を見ながら共に歩いている風景が頭に浮かぶのです。


 実際には、二人でお屋敷から外へ出たのはの一度しかございませんのに。


 そう……事件が明るみになる前の日の夜。

 

 村の夏祭りでした。

 一度でも良いから、お祭りに行って夜店を覗いてみたいと言うお嬢さまの願いを、わたしが拒める筈はありません。

 ……お屋敷の皆さんが反対する中で、わたしだけは、お嬢さまの味方でいたいと思ってしまったのね。


 陽が落ちてからお屋敷に行き、こっそりとお嬢さまを連れ出しました。


 月の、明るい晩でした。

 遠く森の中にある御社から祭囃子の音が聞こえ、白く浮かび上がる畦道あぜみちを、お嬢さまの手を引いて歩いたあの夜。


 御社についてからのことは、覚えていないのに、行き帰りに繋いだお嬢さまの、ひやりと冷たく柔い手の感触は、今でも鮮明に覚えいるのは何故かしらね。

 

 あの夜が、わたし達の永遠の別れになると知っていたら、何かが違ったのでしょうか。


 わたしがお嬢さまのお願いを拒んでいたら、こんなことは起こらなかったのかもしれません。あるいは春のあの日、お嬢さまの話し相手になることを断われば良かったのでしょうか。

 きっと、無理でしたわね。

 何故ならわたしは、一目お会いしてすぐに絡め取られてしまった。

 ……ええ、そうです。

 あの美しい瞳の奥に覗く、危ういまでの複雑な模様を描く細い糸に……。


 このような恐ろしい別れが訪れることを、春の眩しく暖かな日差しの中、柔らかな風に混じって、ときおり首筋にすっと入り込む冷たい風のように誰かがわたしに教えてくれていたら。


 けれども、あの日のわたしに、それを囁いてくれる誰かはおりませんでした。

 それに誰かが何かを言ったところで到底、わたしには信じることは出来なかったのだろうと思うのです。

 

 ………………。

 ……。


 夏祭りの翌日いつもと同じように、お屋敷へ伺ったわたしが目にしたもの……。


 お屋敷の中は人の争った跡も顕に、それぞれの居室は沢山の血で汚れていました。

 廊下には身体を引き摺ったような跡も残されておりましたが、どれだけ探しても誰一人として見つかりはしませんでした。


 もちろん、お嬢さまも。



 あの夜お屋敷で、何が起きたのでしょうね?


 …………。

 ……。


 ……まぁ? ふふ。

 あなたは、そう思うのね?


 そうだったら、どれほどよいかしら。


 ……ねぇ?






 



 




 

 

 

 


 



 

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