後ろ頭で泳ぐ蛸

しらす

彼の後ろ頭には蛸がいる

 達樹たつきの頭が青白い光を受けて光っている。薄暗い廊下の両脇を照らすのは陽光ではなく、巨大な水槽を内側から照らしているライトだ。

 その通路の片側に腰を落とし、彼は窓のように開けられた三十センチ角ほどの穴にへばりついている。

 後ろに立つ私には、彼の綺麗にり上げられたつるつるの頭しか見えない。それでも彼の肩越しに、少しだけ水槽の中をうかがうことはできた。


 そこにいるのはスナメリと呼ばれる生き物だ。

 つるりとした白いイルカのような胴体に、ちょこんと突き出た短い口吻こうふん、ぽこんと丸っこい頭、そして黒くつぶらな二つの目。

 昔は漁師の船を追ってよく遊んでいたという、人懐っこいクジラの仲間だ。


「これが見たかったんだよなぁ」

 嬉しそうにニヤァと笑うと、達樹はガラス越しに明らかにこちらを見つめている生き物と視線を合わせていた。

 あちらが右に頭を傾ければ右に、左に傾ければ左に。窓の部分の両脇に手をついて、腰をひねりながら覗き込む。

 それを見てあちらも嬉しそうに、水槽にぐいぐいと頭がへこむほどくっついていた。

 目の前の同じつるつる頭の人間を、仲間か何かと勘違いしているのかも知れない。


 この小さな水族館は、水槽内で一匹だけ、いつもこの窓を覗くスナメリがいる事で有名だ。私たちの目的も当然この子だった。

 しかも今日は休日で、お客さんの数が多く廊下は人で埋まっている。

 だというのに、私と彼の周辺にはぽっかりと空間が空いていた。


 まぁ仕方ないだろうな、と私は周囲を見回して思った。

 遠巻きにこちらを見ながらも、別の水槽を見ている振りをしているカップルや家族連れがそこかしこに見えるが、明らかに達樹の後ろ頭が接近をはばんでいた。


 顔を照らされて逆光になっていてもはっきりと分かる、手入れの行き届いたスキンヘッド。

 その鏡面のような浅黒い頭に、更に赤々と浮かび上がっている、いやぺたりと張り付いているかのような、タコ刺青いれずみ

 触ればぬめりを感じそうな模様もあらわなその蛸は、達樹の頭のてっぺんに足を掛け、私の方を見上げている。


 どうせ暗い水族館の中を歩くのだからと、達樹は普段と違って帽子もかぶっていない。

 しかしいくら暗くても、こうも目立つ場所に立っていれば誰でも気づくというものだ。


「お母さん、あのひとハゲだ!」

「しっ!あっちに行くわよ」

 背後から子供の楽しそうな声が上がったが、振り返ると母親に手を引かれて走り去るのが見えた。

 当の達樹は気付いてもいない様子で、まだ水槽に夢中のままだ。



「ねぇ」

 私は達樹の肩を叩いた。

 せっかくお楽しみの様子だからと待っていたが、私もいい加減しびれを切らしていた。

「そろそろ移動しないとさすがに迷惑じゃない?」

「そうか?」

 ようやく振り返った達樹は、それでも未練がましく水槽に片手をついたままだ。


「そうだよ、もう十分はそこで粘ってるじゃん。そのうち水槽のシミになるわよ」

「なるわけないだろ、ミミズじゃあるまいし」

「ものの例えよ。っていうか、さっきからその子を見たくてこっち窺ってる人がいっぱい居るのよ」

「だったらそう言えよ」


 ほら、と言って達樹は勢いよく立ち上がった。そして場所を代わろうとしたのか、私の手を引っ張って窓の方へと誘導する。

 その瞬間、水槽の窓越しにスナメリの顔が見えた。

 どういうわけか、スナメリはかぱりと口を開けていた。


「えっ?」

「えっ?」


 思いの外、ギザギザとした歯が見える口の中を見て、私が思わず声を上げると、達樹も振り返ってもう一度水槽を見た。その途端だった。

 すっと尾鰭おびれを丸めるようにして後ろに下がったスナメリは、何を思ったか上へ向かって勢いよく泳ぎだすと、そのまますぽーんと水上へ飛び上がった。


「おおーっ!」

 たまたま通りかかった人たちと、水飛沫みずしぶきの音を聞いた人たちが、一斉にスナメリの水槽を見て声を上げた。

 着水の音はさほど大きく聞こえなかったものの、飛沫が水槽の向こうに飛び散る音が花火のように響いた。

 全身に気泡きほうをまといながらまた水の中へ潜っていくスナメリの姿で、何が起きたのかはみんな分かったらしい。


「なになに!? いきなりどうしたの」

「上でショーでもやってるのか?」

「スナメリのショーなんてあったっけ?」


 たちまちスナメリの水槽前は騒がしくなった。

 一人の少女が駆け寄って来て、その両親と思しき人が付いて来ると、みんな達樹の頭を気にする事も忘れて近寄って来た。


 けれど一番驚いていたのは達樹だったらしく、ぽかんと口を半開きにしたまま、青白く光る水の中を見つめていた。

「何だったんだ、あれ……?」

 直前までご機嫌で達樹の顔を見ていたスナメリが、いきなり歯をき出したかと思えば盛大なジャンプだ。私もかなり驚いていた。



 水槽の窓のところは、もう人だかりが出来ていて、その向こうのスナメリの顔は全く見えない。

 けれどもう一度ジャンプする様子はないようで、さっきまで達樹をじっと見つめていたように、やっぱりそこに引っ付いているようだった。

 私は何か原因がないかと辺りを見回して、ふと水槽の下の方に付けられたスナメリの解説板に目を留めた。


「これじゃないかな、達樹?」

 解説文の下の方に書かれている文面を指差すと、達樹はいそいそと覗き込んできた。

「えーと……スナメリの生息域は、じゃなくて……エサとなるのは魚、エビ、イカ、タコなどです?」

「ほら、タコだよ。さっきさ、達樹が後ろ向いてたじゃない」

「あっ……ああ!」


 ピンと来たのか、達樹は自分の後ろ頭をつるりと撫でた。

 そこには刺青の赤い蛸がうねうねと絡みついてる。

 窓に向かってこの後ろ頭を見せていた達樹が、急に立ち上がったのだ。

 あのスナメリはきっと、餌のタコを見つけて食べようとして、彼が立ち上がった事でそれが放り投げられたと思ったのだろう。


「水の中じゃなくて良かったね、一緒に泳いだりしたら頭に噛みつかれてたかもよ?」

 ふふっと笑いながらそう言うと、達樹は急に現実へ引き戻されたような顔になった。



 元々この水族館へ来たいと言い出したのは彼だった。

 頭はちょっと堅気カタギとは思えないヘアスタイルだが、彼はそもそも可愛いものが大好きだ。

 甘いものも女の私よりよほど好きで、けれど一人でケーキバイキングなどに行くと、文字通りのバイキングだと言われるから、と言ってちょくちょく私を付き合わせる。


 そんな達樹がどうしてスキンヘッドに刺青までしているのかと言えば、端的たんてきに言って禿げたからだ。


 幼い頃はむしろふさふさの髪だったが、大学受験の頃になって急に、頭頂部から髪が抜け始めてしまった。

 最初のうちは髪型やかつらで隠していた彼は、ある日突然全て剃ってしまった。

 更には大学入学と同時に「せっかくだから楽しんでやる」と言って頭に蛸の刺青を入れたのだ。


 今思えば、あれは受験のストレスが原因だったのだろう。

 その後は頭頂部まで髪が戻っているらしいが、今でも熱心に剃刀かみそりで剃ってスキンヘッドを維持している。

 せっかく伸びたのに、と私が言うと、せっかく蛸を入れてもらったのに、と彼は譲らなかった。

 本人はチャームポイントだと思っているらしい。


「はぁ……可愛かったのにな」

「可愛くても肉食だからね。さ、次いこ次!他にも可愛い魚はいくらでもいるわよ」


 軽く背中を叩いて促すと、ため息をついて名残惜しそうにしながらも、達樹は歩き出した。

 薄暗い海の底のような通路の中、頭の蛸もゆらゆらと泳いでいるようだ。

 その後ろ姿を改めて眺めてみれば、確かにこの蛸も可愛いものだと、私は不覚にも思ってしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

後ろ頭で泳ぐ蛸 しらす @toki_t

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ