読書倶楽部の文香先輩

くれは

先輩との読書体験

 墨絵すみえ文香あやかというのが、その先輩の名前だ。

 つややかに長い黒髪に縁取られたお人形のように白い顔という、まあ一般的に見ても名前の字面に負けない雰囲気の美少女だと思う。

 その文香あやか先輩が今、俺の目の前で焦点の合わない瞳でぼんやりと宙を見詰めている。白い頬は紅潮し、ふっくらとした桜色の唇は半開きで、艶やかに濡れ、そしてそこからほうっと溜息が漏れる。

 高校生活、放課後、ここは狭い部室、今は読書倶楽部の活動中。在籍者は俺と文香あやか先輩の二人だけ。そもそもが、文香あやか先輩が思う存分読書をしたいという欲求のために作ったクラブで、俺──筆染ふでそめつづるはそれに巻き込まれてここにいる。

 文香あやか先輩の白い指先が動く。その手には今読んでいる本が開かれていて、その頁に並んだ黒い文字を白い指先が、つ、と辿る。まるで、その指先に自分の背中をなぞられているような気分に陥って、俺は慌てて自分の本を置いて立ち上がる。

 文香あやか先輩のすぐ近くまで椅子を引っ張って、すぐ隣に座る。先輩は悩ましげに眉を寄せて、さらにその半開きの唇から、唾液が糸を引いた。俺は溜息をつくと先輩に体と顔を寄せて、その指先が差す頁を覗き込んだ。

 焼き鳥という文字が目に入ってすぐ、肉のあぶらが火に焼けてぱちぱちとはじける音、そのにおい、タレがあぶられた香ばしい匂い、そんなものに囲まれる。

 文香あやか先輩を追いかけて物語の中に入り込みながら、今日は焼き鳥か、と思った。




 本が好きな文系美少女の文香あやか先輩は、その楚々とした見た目からは想像しにくいけれど、実際はかなり口汚い。この場合の口汚いは、口や言葉遣いが悪い方の意味ではなく、食い意地が張っている方の意味だ。口卑くちいやしいと言ってもいい。

 文香あやか先輩の好きな本は脈絡がないようでいて、本当はとてもわかりやすい。美味しそうな食べ物、あるいは未知の食べ物が登場する本だ。

 文香あやか先輩は食欲で生きている──というのはさすがに言い過ぎ、ではないかと思うけれど。

 その文香あやか先輩が、今は雰囲気の良い焼き鳥屋のカウンター席で、これ以上なく幸せそうに焼き鳥の串を手にしている。串を横に構えて、その桜色の唇を開けて先頭のかたまりを口にくわえる。そのまま串を横にずらす。口の脇がタレで汚れている。

 今度は串を皿に戻す。そして香ばしいタレが絡んだモモ肉を口の中で転がしながら、白い指先で口の脇についたタレを拭って、舌を出してその指先を舐める。その舌の赤さ。

 こくりと喉が動いたと思えば、目の前のお猪口ちょこを持ち上げて、その中身を口に含んだ。それも飲み込んで、うるんだ瞳を細めてほうっと酒精しゅせいの匂いの息を吐き出す。

 俺は溜息をついて、文香あやか先輩に声をかけた。

「また呑んでるんですか、未成年なのに」

 文香あやか先輩はお猪口をカウンターに戻すと振り向いて、酒精に染まって赤くなった目元で俺を見上げた。

「それが本の良いところでしょ」

「いやまあ、否定はしませんけど」

 隣の椅子に座ると、俺の前にもお猪口が出てくる。文香あやか先輩は俺にもお猪口を持たせて、徳利の中の液体を注いだ。

「わたしたちは本を読んでいるだけで、なんにも悪いことはしてない、でしょ。それとも、未成年はお酒が出てくるお話を読んではいけないってことにする? ナンセンスじゃない?」

「そのうち規制されるかもですね、冗談じゃなく」

つづるくんはそういう規制に賛成なの?」

 俺は注がれたお猪口の中身をぐいっと煽った。くらりとするような酩酊感めいていかん。ああ、でもこの酩酊感は、本に描写されたものでしかない。俺は本物の酩酊を知らないから、きっとこんな風に心地良いものなんだろう、と想像したままに酔っ払うのだ。

「あくまで個人の意見ですけど、ナンセンスだとは思います」

 俺の言葉に、文香あやか先輩はふふっと笑って焼き鳥の串を持ち上げた。

「本を読んでいる間くらい自由で良いと思うんだよね。いろんな感情、考え方、本来なら体験し得ない出来事、自分のものではないそれを好きに感じ取って良いはず。わたしはただ、そうやって本を楽しんでいるだけ」

 俺の前にも焼き鳥が置かれる。タレのモモ肉。先輩が持っているのと同じもの。先輩が食べる姿を思い出して、口中にあふれた唾液を飲み込んでしまった。

「先輩のこれは自由すぎると思いますけどね」

つづるくんと会ってから読書がはかどって嬉しい」

 文香あやか先輩は上機嫌に、タレで艶々つやつやと輝くモモ肉をまた口に咥えた。




 これが、読書倶楽部──つまり文香あやか先輩と俺の読書だった。

 文香あやか先輩は、読書の時にその描写を体験することができる。普段はそうならないように、あまりのめり込まないように読書をしていると言っていた。

「そうなると周りが見えなくて危ないし、結構疲れるし、一人だと戻ってくるのも大変で。それに、体験するにはしんどいこともあるからね、本って」

 俺はなぜか、そんな文香あやか先輩と体験を共有することができる。自分でもどうしてかはわからない。先輩にもわからないらしい。

 そして、こっちの方が重要なのだけれど、俺は先輩と一緒に体験できるだけじゃなくて、体験に溺れて戻れなくなった先輩を現実に連れ戻すことができる。

 それが判明したとき、先輩はこう言ったのだ。

「じゃあ、あなたと一緒ならわたし、自由に本を楽しめるってことじゃない? 連れ戻してもらえるってことでしょ?」

 それが読書倶楽部の始まりだった。

 文香あやか先輩の読書体験が始まったら、俺が先輩と体験を共にして現実に連れ戻す。その役目をおおせつかって、断ることができなかった理由はわざわざ言わないけれど、そんな理由で俺は先輩と今日も読書にいそしんでいる。

 そして、口汚い先輩との読書体験はいつも、何かを食べるシーンがきっかけだった。




 白いささみ。薄く切られたささみ肉と紫蘇しその葉が重ねられ、くるりと巻かれて串に刺さっている。その上に、梅肉のソースが添えられていた。

 梅の匂いに刺激されて、口の中がきゅうっと絞られたようになる。溢れた唾液を飲み込んで、梅肉と紫蘇に飾られた白い身を口に含む。梅肉の酸っぱさ、紫蘇の香り。淡白なささみが口の中でほどけて、ぐずぐずとくずれた梅肉と絡む。

「美味しい」

 文香あやか先輩はそう言って、二口目を食べる。唇の端についた梅肉を、それよりも赤い舌がめとる。ほおが赤く色付いているのは、酒精のせいか、それとも美味しいものを食べた興奮のせいか。

「これ、どんな話なんですか」

 一口目を飲み込んで俺が聞くと、先輩はとろりと酔った目を俺に向けた。

「まだ戻らなくても大丈夫だよね? もう少し、こうしていたい」

 俺は先輩から目を逸らして、二口目。梅肉の酸っぱさで少し落ち着きを取り戻す。

「もうじゅうぶん楽しんだでしょう」

「でも……美味しくて……もっと食べたい」

「それでヤバくなったことが何度もあるでしょう。どんな話なんですか?」

 先輩は最後の一口を食べて、飲み込んで、日本酒をもう一口。それからようやく、俺の言葉に返事が返ってくる。

「まだ読み途中だからこの後どうなるかは知らないけど。あらすじによれば若い男が年上の女性におぼれて破滅する話らしいから、主人公がのめり込んで破滅する様子が書かれるんじゃないかな。こう、坂を転がり落ちるように。それほどにその女性が魅力的なのか、破滅するほどのそれは本当に愛と呼べるのか」

「先輩はそれ、体験したいんですか?」

 したくないという答えを期待していたけど、思いがけず先輩は悩む様子を見せた。

「なんかこう、そこまで激しく恋に溺れるとかって現実だと経験できなさそうだし、一度くらい体験してみたいなという好奇心もあるんだよね」

 そう言う先輩の目はぼんやりと夢を見ているみたいにふわふわとしていて、どうやらかなり酔っ払っているらしいと気付く。この酔いの理由は酒じゃない、読書体験だ。読書体験に集中しすぎて、先輩は溺れ始めている。早く現実に連れ戻さないと。

 慌てて先輩の腕をつかんで立ち上がった。

「とにかく一回戻りましょう」

つづるくんは体験してみたくない? 転げ落ちて溺れてこのまま沈んでも構わないって思うような激しい愛」

 先輩がすがるように抱えるように俺の腕を掴む。先輩の体の柔らかさを感じてしまうのは、きっと俺も読書体験に引っ張られているせいだ。きっとこの本はこの後、そういうシーンに移るんじゃないかと思う。だから、頭に浮かぶ官能的なあれこれも、全部、本の描写のはずだ。

 焼き鳥屋が焼き鳥屋の輪郭りんかくをなくす前に、先輩を引きずるようにして、俺はその店の扉を開けて外に出た。




 焼き鳥の匂いも、酒精の匂いも、全部が掻き消えた。すぐ目の前に先輩の顔があって、慌てて身を引いてから、息を吐き出す。いつもの狭い部室だった。

「先輩、よだれ垂れてますよ」

 俺の言葉に先輩は何度か瞬きをして、開いていた本を閉じて机の上に置いた。スカートのポケットから淡い水色のハンカチを出して上品な仕草で口元を押さえる。

 ついさっきまでぼんやりとよだれを垂らしていたとは思えない美少女ぶりだった。

 先輩はハンカチをしまってから、大きく息を吐き出した。

「ああ、美味しかった……」

 吐息交じりに呟かれたその声にぞくりとしてしまったのは、きっと読書体験の酔いがまだめてないせいだと思う。酔っ払った頭の片隅で、あのまま溺れてしまっていたらどうなっていただろうか、と想像して、俺は首を振ってその描写を頭から追い出した。

「戻れて良かった」

 俺の安堵の呟きは、文香あやか先輩に聞こえたのかどうか。先輩はまだ酔っ払っているように、ふふふっと笑った。

つづるくんのおかげでわたしは安心して読書ができて、美味しい思いができて、本当に幸せ」

 そのうっとりした表情に、俺は溜息をついた。

 文香あやか先輩と転げ落ちるような恋を体験するだなんて、そうなっていたらきっと、俺も溺れて戻れなくなっていただろうと思う。そんな体験、してみたいに決まっている、けど。

 それは現実で体験したいことなのだ、というのはまだ言えないままだ。




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