「俺は八十八歳で死ぬからよ」
姫路 りしゅう
第1話
八十六歳で死んだ爺さんは、天寿を全うしたと言えるだろうか。
「俺は八十八歳で死ぬからよ」
八十を越えたあたりから、マサキの祖父は口癖のようにそう繰り返した。
マサキはそれを聞くたびに「またそんなこと言って」と宥めていたが、実際のところ八十八歳まで生きたらもう十分なのではないか、という気持ちも少しはあった。
人間、いつ死ぬのが一番幸せなのだろうか。
中学生の頃は、死ぬことを考えるだけで夜も眠れなくなっていた。
正直に言うと二十を越えた今でも時折死が怖くなってしまうが、死なない永遠を想像しても、それはそうとして怖い。
だからまあ、人間は米寿の区切りまで生きるくらいがちょうどいいのかもしれないな、なんて結論付けていた。
「俺は八十八歳で死ぬからよ」
ある夜、いつものように祖父がそう言ったとき、少しお酒が入っていたマサキはふと「どうしてちょうど八十八歳なんだ?」と聞いた。
それは常日頃から抱いていた疑問でもあった。
百歳まで生きるというぴったりの目標宣言でもなければ、近いうちに死ぬという老人のよくある自虐ネタでもない。
どうして、八十八歳で死ぬという宣言をするのか。
そう聞くと、マサキの祖父は少しだけ黙って、ゆっくりと口を開いた。
ぽつり、ぽつりと昔話が紡がれていく。
**
「あれは、俺がまだ十代だったころの話だ」
祖父は河原で女性が倒れているのを発見した。
当時はそんな光景も、頻繁にあったわけではないものの珍しいものではなく、彼はスルーしようとした。
しかし、倒れている女性の横顔を見た瞬間、思わず足を止めてしまう。
その顔が、とても美しかったのだ。
「……」
美は、暴力だ。
その姿に打ちのめされた祖父は、女性に手を差し伸べた。
「大丈夫ですか」
「……」
女性は少しだけ首を傾げて、祖父の手を取った。
そこからしばらく女性は一言も話さなかったが、祖父は特に気にしなかった。
河原で倒れるくらいだ、言葉くらい失ってもおかしくないだろう。そう思った。
「あんた、どうしたんだいその女の人は」
女性を家に連れ帰った祖父を見て、彼の母親は絶句した。
「母さん。この人は……」
祖父は言いよどんだ。
彼は、自分の家が見ず知らずの女性をもてなせるほど裕福ではないことを知っていた。
「この人は俺の恋人。今日は驚かせようと思って連れて来たんだ」
そう言うと母親は一瞬だけ顔を険しくして「そう言うのは事前に言いなさい」と目で訴えた後、「いらっしゃい、よく来たわね」と外交モードに切り替わった。
一連のやり取りを見ていた女性は驚いた顔で祖父を見たという。
結局その女性は一言も言葉を発しなかったが、祖父の機転もあり誤魔化すことができた。
そして夜、その女性と別れる間際、想像を絶する出来事が起こった。
(―ありがとうございました)
突然、祖父の脳内に言葉が振ってきたのだ。
「……え?」
あたりを見まわしても、声の主は見つからない。
そもそも近くには助けた女性以外いなかった。
祖父は恐る恐る女性を見る。
(―そうです。わたしです。訳あって言葉を話せないので、こうしてあなたの脳内に直接語り掛けています)
当時はまだ、(力が、ほしいか)や(チキンください)と言ったスラングもなく、直接脳内に語り掛けるというシチュエーションを空想上でも知らなかった祖父は、大変驚いたという。
しばらくして我に返った祖父は、頭を掻きながら「お礼を言われるほどではないですよ」と言った。
「あなたは、人ではないのですか?」
(―はい。ただ助けていただいた以上何かお礼がしたいのですが……わたしにできることはひとつしかないのです)
「一体、なにができるんですか」
女性は少しだけ俯いて、また脳内に声を届けた。
(何でも三つまで願いを叶えられます。ただし、あなたの寿命と引き換えに)
「っ……。寿命って言うのはどういう」
(わたしと契約した人間は、必ず八十八歳で、死にます。八十八歳の誕生日を迎えた時、迎えが来るのです)
当時の平均寿命は男性で六十五歳前後であった。
「それは……俺にとって悪いことがひとつもないですね…………」
そして、祖父は女性と契約をした。
その恩恵で、暮らしが裕福になり。
その恩恵で、子宝にも恵まれたそうだ。
最後の一つの願いは教えてくれなかったが、そう言った理由で、八十八歳で死ぬと信じていたらしい。
その後はもう、ひたすらその女性が如何に綺麗だったかを延々と語られ続けてしまった。
そんな祖父が、八十六歳で死んだ。
訃報が届いたのは、新年早々のことだった。
**
「なあ、岩崎」
長い話を終えたマサキは、コーヒーカップを置いた。
「俺の爺さんは、なんで八十六歳で死んだんだと思う?」
「いや、俺に聞かれても困るんだが……」
岩崎は呆れた表情で返した。
「考えてくれよ、お前こういう面白い話、好きだろ」
マサキの言う通り岩崎はオカルトや都市伝説の類が大好きだったが、別に謎解きが得意な名探偵というわけではない。
それでもコーヒーを奢ってもらっている手前、努力をするフリをした。
「その女性は、本当に人ならざるものだったのか?」
「そうらしい。貧乏だった実家が突然潤ったって言っていたし、子どもができないと医者に言われていた婆ちゃんが無事に俺の父さんを孕んだらしいからな」
ふうん、と岩崎は相槌を打った。
三つの願い事を叶える存在はかなりポピュラーな都市伝説である。
「なるほどな。まあ、そういう怪異がいることに関しては不思議ではない。ただ、ルールは絶対のはずなんだよな」
「ルール?」
そう、と岩崎は頷いた。
「今回で言うと、願いを三つ叶える代わりに八十八歳で殺す。これがそいつのルールになる。それは不可侵で、怪異本人にも解くことはできない……っていうのが通例なんだよな」
「だったらやっぱり八十八歳じゃなく、八十六歳で死んだのはおかしくないか?」
「ああ、おかしい」
顎に手を当てて俯く。
そして岩崎は顔をあげた。
「米寿ってなんで米寿って言うか知ってるか?」
マサキは、その話関係あるのか? と思いながらも相槌を打つ。
「そういえば知らないな」
「ITの分野にはカラーコードっていう、色を一定の形式の符号で表したコードがあるんだ。その88番が、ちょっと薄目の茶色。まあつまり、ベージュって呼ばれる色でな」
「……」
「そこから転じて、八十八歳のことを米寿って言う流れになったらしい」
「岩崎、お前って息を吐くように嘘つくよな」
だいたいカラーコードは単純な数字ではなく、アルファベットも混じっている。
前提からして嘘なのに、岩崎の語り口は少しだけ信じてしまいそうな説得力を持っていた。
「米寿って言葉が生まれたころってまだ外国語もそこまで浸透していなかっただろうに」
「そうだ……ん?」
岩崎は、何かに気付いたような顔をした。
そのまま人差し指をたてる。
「ちょっと待て、繋がりそうだ」
「何がだ?」
「一つ教えてくれ。お前の爺さんは、女性の名前を聞いたりしていないか?」
マサキは記憶を手繰った。
ええと、言っていた気がする。おおよそ名前とは呼べないような……
「たしか、とっけび様、って呼んでいたような」
とっけび様。
その意味の分からない文字の羅列を聞いた瞬間、岩崎は深く息を吐いた。
「繋がった」
**
「結論から言おう。とっけび様はルールを犯していない」
「は、でも爺さんは、八十六歳で死んだぞ」
「ああ、そうだ。そうだよな。ちなみにお前の爺さんが死んだのは、正確には何日だ?」
「……元旦だな」
一月一日。新年のはじまりを祝うその年に、爺さんは亡くなった。
「ちなみに誕生日はいつだ?」
「ええと、七月の」
岩崎は続きの言葉を手で制した。
「そこまででいい。早生まれかどうかを知りたかっただけだ」
「……」
「ということで察したと思うが、八十八歳っていうのは満年齢だよな。じゃあ数え年では何歳になると思う?」
「……」
数え年とは、生まれた瞬間を一歳とする歳の数え方だっただろうか。
「だとしたら、八十七歳?」
しかし探偵役は、首を横に振った。
「正確には、八十六歳になる。数え年っていうのは、生まれた瞬間を一歳とし、かつ、全員が一月一日に歳を取る。という考え方なんだ」
「あ」
その年齢の数え方は聞いたことがあった。
そして、それを今でも使用している国があるということも、なんとなく知識として持っていた。
「とっけび様は、トッケビ……朝鮮の妖怪のような存在のものだよ」
祖父の出会った女性は、朝鮮由来の怪異だったのだ。
未だにその地域では数え年を採用しているという。そもそも日本でも、その時代あたりから満年齢を使用するようになってきただけで、昔は数え年を使っていた。
怪異はルールを破っていない。
マサキたちを取り巻くルールの方が、かわっていたのだ。
彼は想定よりも早く祖父が亡くなったことに対して、納得のいく理由が見つかり満足した。
**
「ありがとよ、岩崎」
「いやいや、礼を言われるほどじゃねえよ」
「ちなみにもうひとつ。爺さんの三つ目の願い事って何だったと思う?」
岩崎は苦笑いをした。
「知るかよ、しょうもないことに使ったんじゃないのか」
「……かもな」
マサキは、岩崎ならあるいはそこも解き明かしてくれるかもしれない、と思いつつも、曖昧に笑った。
「ただまあ、俺の予想でよければ話すよ」
「……聞かせてくれ」
「お前の爺さんがとっけび様と出会ったのは十代の頃なんだろ?」
「ああ」
「それなのに出会いをかなり詳細に覚えていて、お前が呆れるくらい美貌についても語られたんだろう?」
頷く。
「だったらたぶん、願いはさ。この不思議な出会いを、一生忘れないでいたい。だったりするんじゃないかな」
「俺は八十八歳で死ぬからよ」 姫路 りしゅう @uselesstimegs
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