桜が咲くのは誰のため

藤咲 沙久

ソメイヨシノ


 春の訪れと共に、祖父が亡くなった。若い頃の過度な喫煙が祟っての肺癌だった。幸い入院したのは息を引き取る直前であり、それまでは転んでも反射で手をつけるほど元気なご老体だったようだ。悲しいかな、幼少期以来祖父に会っていなかった私は、伝聞でしかその最期を振り返れない。

 一人で暮らすようになって十年以上が経つ。仕事は常に忙しい。自分の生家に帰りはしても、さらに遠くにいる祖父へ顔を見せに行くことはないままになってしまった。少し、申し訳なく思った。

「おお、八重やえちゃん。来てくれてありがとうなぁ。ここまで遠かったやろ」

 インターホンを押そうとしたところで、庭から声を掛けられた。記憶より些か歳を重ねた懐かしい顔だ。最後に会ったのも親族の不幸だったことを併せて思い出し、つい苦笑いを浮かべてしまった。

まさる伯父さん、久しぶり。お通夜もお葬式も間に合わなくてごめんね。本当に来ただけになっちゃって」

「いい、いい。親父、のんびりした人やったからな。一日二日遅かろうが、弔わせてくれるわ」

「それはありがたい。母さんたちは?」

吉野よしの博文ひろふみくんなら、ちょうど買い出しに行ってくれとるよ。八重ちゃんが着くまでには戻る言うて、あれも親父によう似とる」

 違いないと頷いて、ふと庭の方を見た。どうしてか違和感を覚える。慣れ親しんだ場所というわけではない。それでも、何かが足りなかった。

 私が怪訝な顔をしてしまったからか、伯父も庭を振り返る。そして「ああ」と納得したらしい声音で言った。

「桜が咲いとらんやろ。長生きしてくれたけんど、今年はついに枯れてまったみたいでな」

 ──桜。木だけで判断できるほどわかっていないのが本音だが、言われてみれば、子供の頃見た祖父はいつも桜の下に立っていた。だからそこにある木が桜なんだろう。春だというのに花もつけず、静かに佇んでいる。

 私が生まれるより早く、祖母は若くに他界した。独り身を貫いた祖父の唯一の楽しみが、庭で花見をすることだったと昔に母から聞いたことがある。

「……じいちゃん、寂しくなかったかな」

「親父が?」

「勝伯父さんは近くに住んでたし、母さんも時々様子見に帰ってたけどさ。私、唯一の孫なのに全然会いに来てあげられなかった」

 祖父は優しかった。人生の節目を喜んでくれた。なのに、私は何も返せていないのだ。もっとこうすればよかったという後悔が、胸をじわりと占めた。

「吉野も八重ちゃんも、名前は親父がつけたんや」

 突然の話に顔を上げる。伯父は桜を見ていた。私も倣って、咲かなかった花を見つめた。

「そうだったんだ」

「二人とも桜やろ。大事なもんから取った、大事な娘と孫の名前や。遠い場所でも、元気に咲いてくれとるならな、親父は満足やったと思うで」

 伯父は自身の涼しげな頭を撫で付けながら、照れくさそうに言ってくれた。伯父のそういう、ちょっとロマンチストなところが私は好きだ。元気づけようとしてるのが伝わってくる。

「うん。……ありがとう、勝伯父さん」

「それにな。親父、案外ひとりちゃうかってんで」

 ギュッと両目を瞑った後にますます恥ずかしそうにしたのは、ウインクがあまりに下手だったからだろうか。私は出来る限り笑わないよう気をつけてから、それでも震えた唇で「どういうこと?」と聞いてみた。

「その桜、お袋が生まれた年に植えたんやって」

「え? なんでそれがじいちゃん家にあるの?」

「なんでって、ここお袋の実家やから」

「じいちゃん婿養子だったのか……」

「まあな。親父がこの桜をいつも見とったんは、お袋を重ねてたんやろう。俺はそう思っとる。シャイやからなぁ、一度も言わんかったけど」

 祖母を見送ってから、長い間義理の両親と暮らしていたということになる。中々に気苦労が多かったんじゃないか。それが桜を愛でるためだとすれば、祖父にも意外と頑固な一面がありそうだ。

 だけど頑固さの分だけ愛情も深い。私はつい笑顔になった。もちろん、伯父のウインクもどきを笑ったわけではなかった。

「うん。なんか、いいね。そういうの」

 桜に近づき、古く太い枝に掛けられた札に触れてみる。“昭和九年 ソメイヨシノ”と書かれていた。この木は祖母の代わりに祖父を見守り続け、祖父の死と同じ春に枯れたのだ。

「ばあちゃんが、ずっとじいちゃんの傍にいてくれたんだね」

 もし祖父が寂しくなかったとしたら、それはあなたのお陰です。

 本人よりずっと長く生きて、八十八歳の生涯を終えた桜の幹を、私は感謝を込めてそっと撫でたのだった。

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桜が咲くのは誰のため 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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