【KAC88歳】米寿のお祝い

結月 花

第1話

「じいちゃんお誕生日おめでとう!」


 家族そろってテーブルを囲み、じいちゃんの誕生祝いをする。じいちゃんは今年88歳。いわゆる米寿というやつだ。親戚からはじいちゃんの長生きを願って続々とお祝いの品が贈られてくる。

 机の上にはたくさんの小包たち。母さんが贈られてきた包を開け、目を輝かせた。


「わあ見て! 大吟醸じゃない。さすが姉さんね! はいお父さん。姉さんからのプレゼントよ」


 そう言って母さんがじいちゃんの前に大きな酒瓶をドンと置く。だが、じいちゃんは虚ろな目でぼんやりとそれを見つめていただけだった。

 じいちゃんは認知症だ。一年前に倒れて生死を彷徨ってからは、あれよあれよと言う間に母さんや僕達のことも忘れてしまった。その時は僕も母さんもたくさん泣いたけど、一説によると認知症はこれから死んでいく恐怖を和らげる為にあるらしい。じいちゃんがきっともう長くないことは皆もわかっていたし、安らかに逝けるならきっとそれが一番だ。苦しいけれど、僕もそれなりに覚悟を決めている。

 じいちゃんが顔を上げ、仏壇の方を見やる。仏壇の上には、若い頃に亡くなった僕のばあちゃんの遺影が微笑みながら僕達を見ていた。


「じいちゃん、またばあちゃんのことを見てる」

「あら本当? 最近多くなったわねぇ。多分おじいちゃんも寂しいんでしょうね」


 母さんがじいちゃんの世話をしながらポツリと言う。ばあちゃんは母さんが赤ちゃんの頃に亡くなったから僕は会ったことがない。だけど、伯母や親戚がたくさんばあちゃんのことを教えてくれた。


 写真でしか見たことがないけど、ばあちゃんはとても綺麗な人だった。じいちゃんの一目惚れだったようで、当時は軍人のくせに女の尻を追いかけて、なんて周りから揶揄されたらしいけど、二人はいつも一緒で本当に仲が良かったらしい。意外にも結婚した後はばあちゃんの方が寂しがり屋で、いつも良治さん良治さんとじいちゃんの側にいたがったようだ。

 だけど、そんな幸せは長くは続かなかった。元々あまり体が強くなかったばあちゃんは僕の伯母を産み、そして僕の母さんを産んだ直後に病で亡くなったらしい。だから、母さんもばあちゃんのことは親戚からの話でしか知らない。

 ばあちゃんが死んだのは26歳の時。じいちゃんが28の時だ。大好きな人と結婚したのに、その後再婚することなくたった一人で60年間も生きてきたじいちゃんを思うと、米寿の祝いもめでたい気持ちになんかならなくなってしまった。 




※※※


 じいちゃんの認知症が進み、仕事と介護の両立が難しくなった母さんは、ヘルパーさんを雇うことにした。今日はそのヘルパーさんが初めてうちに来る日だ。母さんはバタバタと忙しくしていたけど、じいちゃんは家で何が起こっているかまるで関心が無いように、ボーっと机の上を見つめていた。

 やがてチャイムの音が響き、母さんがはぁいと返事をして出迎える。母に連れられて部屋に入ってきたのは若い女性だった。


「今日からお世話になります。デイ・ケアひまわりから参りました。白井春子と申します」

 

 ペコリと挨拶をし、顔をあげた春子さんはとても可愛らしい人だった。長くて黒い艷やかな髪とクリクリした大きな目。社会人なのだから大学生の僕より年上だと思うけど、少し幼さの残るような笑顔が人懐っこくて僕は思わずポーッと見惚れてしまった。

 春子さんがじいちゃんの前で屈み、手を取りながらにこりと笑う。


「前川良治さんですね。本日より宜しくお願いいたします」


 春子さんの声につられて、じいちゃんがゆっくりと顔をあげる。普段はぼんやりしているじいちゃんの目が、春子さんの姿を見た途端に微かに大きくなった。


「静子……」

「お父さん、名前を間違っちゃ失礼よ。この人は春子さん。白井春子さん。ごめんなさいね、母と間違えているみたい」

「あ、大丈夫です。よくあることですから」


 春子さんが慌てて手を振って微笑む。


「認知症の方は、最近のことを忘れていても昔のことを覚えていることが多いですから。良治さんが私を奥様だと思っているのであればそうさせてあげてください」

「白井さん……すみません、お気遣いありがとうございます」

「それも私達の仕事ですから。では早速ですがお風呂を使わせていただきますね。さぁ、良治さん、お風呂に入れてあげますよ」

 

 そう言って春子さんが優しい手付きでじいちゃんの車椅子を引いていく。二人が奥に消えていくのを、僕は黙って眺めていた。



 春子さんはまだ若いのに、とても丁寧に介護をしてくれるヘルパーさんだった。じいちゃんに沢山声をかけてくれるし、体に触れる時の手付きもすごく優しい。本当に心のこもった介護という感じだった。

 母さんも安心したのか、介護の大部分は春子さんに任せていた。じいちゃんも相変わらず無反応だったけど、どことなく表情が穏やかになった気がして僕も嬉しかった。

 だけど、日に日にじいちゃんが春子さんのことをばあちゃんだと思い込み始めているのが気になった。じいちゃんはどうしても春子さんのことを静子と呼ぶ。今まではボーッとすることが多かったのに、最近では何かにつけて春子さんを側に置いておきたがる。春子さんも「はいはい」なんて付き合ってあげてくれるから、じいちゃんの勘違いはますます加速していた。


 事件が起こったのは春子さんが来てちょうど一年後くらいの出来事だった。

 大学が休みの僕はその日リビングで本を読んでいた。ふと耳を澄ませると、じいちゃんの部屋から綺麗な声が聞こえてきた。部屋を覗くと、春子さんがじいちゃんの隣に座って寄り添いながら本を読んであげていた。じいちゃんは無反応だったが、春子さんは聞きやすいように音節を区切って優しく読んでくれる。

 僕が黙って見守っていると、じいちゃんが突然ゆっくりと手を伸ばした。そしてそのままシワだらけの骨のような手で春子さんのふっくらした白い手に触れる。


「静子……愛してる」


 いつもの虚ろなじいちゃんとは違い、力強くてハッキリした言葉だった。後ろを向いているから表情はわからないが、春子さんは返事をしなかった。僕はなんだか無性に悲しくなって、思わず部屋の中へ駆け込んだ。


「じいちゃん、やめてくれよ。この人は春子さんだ。ばあちゃんじゃない。ばあちゃんはもう死んだんだろ」

「涼君、良いのよ。そう思っていて落ち着くならそうしておいたほうがいいの」


 春子さんが慌てて僕を制してくれる。じいちゃんは返事をしなかった。ただ黙って空を見つめているだけだった。

 多分じいちゃんは寂しいんだ。もうすぐこの世を去ることを知っていて、最後にきっとばあちゃんに会いたくてたまらないんだろう。そう思うと、悲しくて悔しくてたまらなかった。仲良い二人を引き離した神様を呪った。二人を引き離して、じいちゃんを60年も一人ぼっちにさせていたなんて、神様なんてクソクラエだ。


 じいちゃんはその後何に対しても反応しなくなった。じいちゃんが倒れたのはその日の晩だった。








 



 じいちゃんはもう病院へは連れて行かなかった。部屋に布団を敷き、急遽親戚を呼んでそれぞれじいちゃんとの別れを済ませた。

 じいちゃんは目を覚まさない。きっとじいちゃんは今晩、ばあちゃんの元へ行くんだ。そう思うと涙が出てくるが、僕はグッと歯を食いしばって耐えた。


「春子さんも良かったらお父さんに挨拶してあげてください」


 母さんが涙ぐみながら言うと、春子さんが頷いてじいちゃんの手を取る。すると昏睡状態だったじいちゃんがうっすら目を開けた。 


「なんだお前……まだこんな所にいたのか」

「ちょっとお父さん、お世話になった人にその言い方はないでしょう」


 母さんが慌てるが、春子さんは人差し指を口元に立てて首を振る。そしてじいちゃんの手を両手で握ると優しく微笑んだ。


「ええ、ずっと見ていましたから」


 お別れの言葉にしては意味深な言葉だった。だが、じいちゃんにはその意味がわかったみたいだ。もうずっと固く結ばれていた口元が緩められ、じいちゃんが微かに笑った。そしてそのまま静かに目を閉じた。


 その夜、じいちゃんは88年の人生に幕をおろした。






 



「涼、聞いて」


 僕が仏壇の側でじいちゃんとばあちゃんの位牌をぼうっと眺めていると、母さんが慌てながら僕を呼んだ。


「今ね、お世話になったから春子さんにお礼を言いたくてデイ・ケアひまわりに電話したの。ほら、お焼香には来なかったじゃない? そしたらね、うちに白井春子ってケアワーカーはいないって言われたわ」

「え? なんだよそれ、やめろよそんな話」


 春子さんがいないってどういうことだ。じゃあじいちゃんを介護してくれたあの人は誰だったんだろう。思わず仏壇の遺影に視線をやり、僕はアッと声を上げた。


「ねぇ母さん、母さんの名前は夏子だろ。伯母さんの名前は冬子じゃないか。春子ってさ、まさかだとは思うけど……ばあちゃん?」

「ええっウソ! そんなことってある?」


 母さんが驚くが、僕はなんとなく確信していた。だって彼女がばあちゃんだったら、最後にじいちゃんにかけた言葉の意味もしっくりくる。

 多分寂しがり屋のばあちゃんは、ずっとじいちゃんの側にいたんだ。きっと母さんが成人した時も、結婚した時も、僕を産んだ時もじいちゃんの隣で全部見ている。

 そしてじいちゃんは多分、それに気付いたんだ。「まだここにいたのか」という言葉は、そういうことだったのだ。

 焼香に来られないはずだ。だってばあちゃんはあの夜じいちゃんと一緒に旅立ったんだから。にわかには信じられない話だけど、もしかするとこれは米寿のお祝いに神様が起こしてくれた奇跡なのかもしれない。


「良かったな、じいちゃん。最後の一年はばあちゃんが一緒にいてくれたんだから。最高の米寿祝いじゃないか」


 窓の向こうに見える青空を見ながら、心の中で呟く。きっとあの雲の上からは、じいちゃんとばあちゃんが仲良く手を繋ぎながら僕達を見ているに違いなかった。

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