あなたがいなくなってから、私はお墓のことばかり考えている

加藤伊織

あなたがいなくなってから、私はお墓のことばかり考えている

 愛猫を2匹、立て続けに亡くした。

 昨年11月13日に8歳のこだま。今年1月19日に10歳の千代。

 ツイッターでも頻繁に写真をあげていて、こだまは「巨猫」として知られていた。太り過ぎなのは明らかだったし長生きはできないだろうと思っていたけれども、その死は突然すぎた。病院の診察室でも鳴いていたのにその十数分後に私が見たのは、自発呼吸が止まり、先生たちが必死に蘇生処置をしているこだまの姿だった。


 そして、1月に最愛の猫である千代が亡くなった。

 千代は東日本大震災の時に被災して飼い主と離ればなれになった動物を思って泣き、預かりとして受け入れたいと家族に泣いて訴えた結果「まず近くの子を助けなさい」と母に諭され、市内のシェルターから引き取った子猫だった。

 当時私は妊娠中で、千代と娘は半年違いの姉妹として我が家では扱っていた。生まれたばかりの娘に対して、千代自身もまだ子猫だったくせに側で見守り、一緒になっていたずらをし、娘が大きくなってからは叱られているときには鳴きながら私に手をかけてきて必死にかばったりと、本当に「お姉ちゃん」という立場にいた。



 こだまを亡くした傷が癒える前に最愛の千代まで亡くし、元々うつ病を患っている私は本格的に寝込んでしまった。

 毎晩涙が止まらず、千代の骨壺を抱きかかえて嗚咽する日々が続いた。

 そもそも私は、「自分が好きで飼っているのだから、猫がいるうちは死ねない」と思って生きているのだ。突発的に私が死んでも娘はなんとかなる。夫もいるし祖父母もいる。けれど猫は「私の猫」で、夫が私のように猫に接してくれる保証はない。

 猫が私の生きる理由。3匹の猫を飼っているうち2匹を思っていたよりずっと早く喪い、私が寝込んだのは当たり前のことだった。



 そんな中で思ったのは、「どうしたらこの子たちと同じお墓に入れるだろう」ということだ。


 正直、私は死んだ後のことはどうでもよくて、婚家の墓に入るのも別に嫌ではなかった。

 そう思っていたのに、今は死んでしまった後までこの子たちを手放したくないのだ。

 母の愛猫であった「たま」は父も眠る私の実家の墓地のペット合同墓所に眠っているが、今になって母はよく遺骨を手放せたものだと思う。


 たまは老衰で亡くなった。ゆっくりと弱り、虚弱体質で長生きできないだろうと言われていたのに猫の平均寿命である15歳まで生きた。生き抜いてくれた。

 だから悲しくともその死は納得のできるものであり、覚悟のできていた別れだったのだ。


 私にとって千代とこだまの死は突然すぎて受け入れられるものではなく、「もっと早く異変に気づいてあげられたら」と自分を責める気持ちばかりがある。

 母にとっての「たまの死」と、私にとっての「千代とこだまの死」は、大きく異なるものなのだろう。



 ロッカー式の墓地なら、自分が死ぬまでにお金を貯めて買えて、猫たちの遺骨と一緒に入ることができるだろうか。――ある日ふと、私はそんなことを思った。

 婚家の墓に猫の遺骨まで一緒に入れてくれというのはまず無理だろう。墓にも容量というものがあるのは、実家の墓でよく知っている。



 私は「お墓」に対して、今まで嫌悪感と「どうせ自分の思い通りにはならない」という諦念を抱えて生きてきた。

 それは私が幼い頃から、「一族の総領娘」「跡取り」「墓守」として育てられたことに起因する。



 疑問を持つこともできない幼い頃から「加藤家の墓はおまえが守っていくんだよ」などと言われていたら、それが根底に刷り込まれてしまう。(「加藤」は私のペンネームであるが旧姓でもある)

 私は長男の一人娘として加藤の家を継ぎ、一族の墓を継いでいくのが役目なのだと当たり前に受け入れて成長した。男に生まれていたら、とかも当然ながら何度も言われた。


 今思うと、別に加藤家自体はたいした家でもなんでもないのに、そういう風に言われて育ったのは時代錯誤も酷すぎてちゃんちゃらおかしい。実際に私は嫁に行って「加藤」という名字ではなくなり、離婚しなければそのまま婚家の墓に入るだろう。


 加藤の墓は私が継ぐことなく、叔父が継ぐことになった。叔父には息子がふたりいるから、その従兄弟が彼らの代までは墓を守ってくれるだろう。今となってはどうでもいいけど。

 母は祖母と父が亡くなったときのごたごたで「あの墓には入りたくない」と言っているので、近くに自分だけの墓を買うかもしれない。


 墓というものは、私にとって重責の象徴だった。

 それが、猫という「愛する娘たち」を喪って考え方が変わった。


 白い陶器の骨壺に入った小さな遺骨は、思い出以外に唯一あの子たちが残してくれた「生きていた証」で、毎晩泣くことはさすがになくなってきた私でも、それは手放せそうにない。

 母と夫はその辺りはわかってくれていて、「気が済むまで近くに置いておきなさい」と言ってくれている。


 では、私が死んだ後は?

 私には娘がひとりいるが、「墓」の重責を娘に負わせたいとは思わない。

 ただ、猫たちと一緒にいたい。それだけを思っている。


 数十年後に骨を混ぜられて合同墓地に入ることになっても、しばらくは愛する猫たちと一緒の墓に入れるなら、私はきっと死の間際でもそれは安心していられるだろう。

 ただ、そのためには「自分の墓」を持たなければならない。


 一緒に入るお墓が用意できなかったらどうしようか。

 私の骨壺に猫たちの遺骨を一緒に入れてもらうことはできるだろうか。

「そのときは私の骨壺にこだまや千代の骨も一緒に入れて」と言ったら娘が半泣きになってしまった……。


 

 私は墓を買うような年齢ではないけども、自分の墓を探している。

 今まで一緒に暮らしてきたペットという家族のことを、一匹たりとも忘れられないまま。死別の悲しみにいくら涙を流しても、一緒に過ごす幸せは損なわれるものではないから。


 これからもたくさん泣くだろう。こうして書きながら泣いたので、きっと今夜も泣くだろう。

 一緒のお墓に入るというのはただの私の自己満足だけども、そう思わないと堪えられないような悲しみを、今も私は抱えている。


  

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