黒翼のあやかし、女教師に逆プロポーズされる

依月さかな

八十八歳のお祝いの話と鴉天狗父娘の過去

 その日はよく晴れた、週末の昼頃だった。

 一度食事を作ってから家事のいっさいを取り仕切るようになった俺様は、昼飯の準備に取りかかろうと、同居人に声をかけたのだ。


「おい、彩。昼飯何食いたい?」


 いつもなら返事がすぐに返ってくるのに、今日はやけに静かだった。

 声が聞こえなかったわけじゃ、ねえよな。そんな広い部屋でもない。


 居間をのぞいてみると、彩はノートパソコンを操作していた。画面を覗き込んだまま、細い眉を寄せて「うーん」と唸っている。かなり集中して考え込んでいるようだ。どうりで俺様の声が届かねえはずだよな。


「どうしたの、お姉ちゃん」


 操作していたスマートフォンを放り出して、俺様の娘が彩のパソコンの画面をのぞきはじめた。

 何回か会話したあと、どういうわけか二人して画面を凝視する。何やってんだ、こいつら。

 あまりに真剣な目つきでいるからめちゃくちゃ気になった。そっと足音を立てず、彩と娘、二人の背後に近づいていく。


 俺様は数ヶ月前は京の山に棲んでいたからす天狗だった。数十人もの同胞を従えていたのは過去の話で、今はこうして娘と共に河野かわのあやという人間の女と同居生活を送っている。

 人間の扱う機械とか、大事にしている文化とか、これでも色々頭に入ってきている。見れば大抵のことは分かるようにはなったんだが。


 二人が見ているのはどうやら通販サイトのようだった。

 「贈り物」やら「お祝い」という文字と金色の絵がやたら目立つページだ。プレゼントでも考えているのか。だから唸るほど悩んでんのか。


「誰かの祝い事か?」


 声をかけてから、俺様は後悔した。

 案の定、彩はピシリと石のように固まってしまったからだ。


「きゃぁああああっ、びっくりしました! いきなりそんな、イケボイスで声かけないでくださいっ!」


 公園で逆ナンされ、同居生活を始めてからずいぶん経つが、いまだにこの妙なハイテンションがわからねえ。

 いけぼいすってなんなんだ。たぶん褒められてるんだよな……?


「悪かったな、驚かせて。声はかけたんだぜ?」

「——あっ、そうなんですね。すみません、気付かなくって」

「別にそれは構わねえけど、何悩んでたんだ?」


 俺様の疑問に答えてくれたのは娘だった。


「お姉ちゃんのおばあちゃんのお祝い事なんだって」

「遠くにいる私の祖母が今年八十八歳で米寿を迎えるんですよ。普段滅多に会えないから、せめてプレゼントを贈ろうと思って」


 なるほど。要するに身内への贈り物を選んでいたらしい。

 そう思うと、どういうわけか内心ほっとして胸を撫で下ろした。いや、ちょっと待て。なんで俺様はほっとしたんだ。

 彩が誰に何を贈ろうが俺様には関係のないことだろ。ましてや彼女の身内でも友人でもない俺様が気にするにもおかしな話だ。


「お姉ちゃん、べいじゅってなに?」

「数え年の88歳のことよ。「米」の字を分解すると「八十八」になるから、「米寿」っていうの。わたしたちは、いつまでも元気に長く生きられますようにという願いを込めてお祝いするのよ」


 やわらかい微笑んで、彩はゆっくりとした口調で娘に話していく。こういうなにかを教える時って、こいつは先生の顔になるんだよな。実際、彩の本業は教師で、近くの学校で子どもらに音楽を教えているんだとか。


「いつまでも長く、元気に?」

「うん、そうよ。八十八歳まで生きるのはすごいことだもの。だからおばあちゃんにいつまでも元気でいてほしいの。私もなるべく病気せず、長く生きたいなあ」


 天井を仰いで彩は思いを馳せているようだ。そういや、人間の寿命って短いもんな。

 時たま百年以上生きるやつもいるし、今は長生きになったんじゃねえかな。前の時代に生きていた人間たちはもっと早く死んでいたように思う。少しずつ寿命が伸びてきてんのは、日々技術を磨いてきた努力の成果なんだろう。


 俺様はあやかしだ。悠久の時を生き、寿命がない人外の存在。

 永遠に近い時を生きるなんて逆に退屈なんじゃないかと人間たちには思われることが多いが、今の俺様には生きる目的がある。たった一人の娘を独り立ちするまで守り育てなければならない。だから、こうして人間たちに混じって生活していて退屈には感じてねえんだよな。その果てに、こんな面白い女とも知り合えたわけだし。


「ええっ、お姉ちゃんはそんな短い間しか生きられないの!? パパなんか百年以上生きてるのにっ」


 娘よ、さりげなく他人ひとの歳をバラすんじゃねえ。


 そういや俺様としたことがすっかり失念していた。娘はまだ世界のことをなにも知らない。人間とあやかしが生きる時の流れがまったく違うということも。

 嫌な予感がする、と思った矢先、案の定娘が叫び始めた。


「やだやだ、お姉ちゃん死なないで!」

「だ、大丈夫だよ、娘ちゃん! 私元気だから! 今すぐどうにかなるってわけじゃないんだから」


 青い瞳いっぱいに涙をためて、娘が彩にすがっている。

 月夜見つくよみというこの辺境の町に来てから、まだ一年も経っていない。心の傷だって癒えていないだろう。

 俺様たちの事情を彩には言ってないから、彼女は知るはずもない。戸惑った表情でなんとかなだめようと必死だ。

 ため息をつきつつ、俺様は助けてやることにした。ぐずる娘の小さな頭をそっとなでる。


「泣くな。俺様が近くにいる限り、今すぐどうにかなるってことはねえだろ?」

「う、うん……」


 脇の下に手を差し入れて、娘を膝の上に抱きかかえる。まだ娘はぐすぐす泣き続けている。背中をぽんぽんと軽く叩いてやっていると、彩は細い眉を下げ、不安げに見守っていた。完全に困り果ててるよな、これは。

 そう感じたから、俺は簡単に教えることにした。


「彩、悪いな。実はこいつの母親が亡くなってから一年も経ってなくてな」

「……そう、だったんですね。ごめんなさい、私ったらまた余計なこと言っちゃったみたいで。天狗さん、奥さんを亡くされてたんですね。辛かったでしょう?」


 困惑だった彩の表情が気遣うような顔になった。

 反応はおおよそ予想していたものの、今にも泣き出しそうな目で見つめられて少し驚いた。どんな時だって冷静だったのに、今はひどく動揺している。激しい鼓動を打つ心臓の音が身体に響く。悟られぬよう娘を強く抱いて、目をそらした。


「別に。寿命があるにしろないにしろ、不測の事態にはどうしようもないのは人だってあやかしだって同じだ。なにも感じないわけじゃなかったけど、今俺様がすべきことは決まってる。こいつを一人前になるまで守り育てることだ」

「それが終わったら天狗さんはどうするんですか?」


 彩の質問にはすぐに答えられなかった。


 子育てが終わったあとのことなんて、そんなこと考えてもみなかった。

 娘が独り立ちしたら、俺様はどうするんだろうか。

 独りで生きていく道なんて想像すらしていない。群れの首魁としてのいっさいを引き継いで出てきた以上、今さら山になんて帰れねえし。


 長い沈黙が続く。

 言葉に詰まっていると、ふいに彩が動いた。俺様の向かいに回って座り直すと、とび色の瞳をまっすぐに向け、真剣に表情でこう言った。


「天狗さん、なにも決まっていないなら、私をお嫁にもらってくれませんか!?」

「――は?」


 やっべ。こいつ、予想の斜め上すぎる。百年以上生きてきて、女にプロポーズされるなんて思ってもみなかったぞ。いや、そうじゃなく。落ち着け。この俺様ともあろうものがなに動揺してんだ。

 いや、そもそも彩とは付き合っていたんだっけ。


「あっ、やっぱり今のなし!」

「どっちなんだ!?」

「だって、ほら! なんかロマンチックじゃないし! 勢いとノリもいいところですしっ」


 どさくさに紛れて抜けきってた敬語をなんで戻してんだよ、こいつ。プロポーズしてきたくせに。

 ばくばくと激しく波打っていた心臓が別の意味で暴れ回っていた。塞ぎそうだった鉛の固まりはもう身体の中に残っていない。その代わり、もやもやとしたものが満ちていく。やがてそれが激しい感情になってあふれ出す前に、俺様は空いている方の手で彩の白い手首をつかんだ。


「いいぜ、俺様の嫁になるか?」

「ええっ、うそぉ!? 本気じゃない、ですよね……?」


 額に冷や汗をにじませる彼女に、俺様はにやりと笑ってみせる。


「彩、俺様の嫁になるなら今すぐ敬語をやめろ」

「え!? ため口でいいの?」

「なんで俺様にだけ敬語なんだ。よそよそしいだろ」

「だって、俺様だから……」


 何言ってんだ、こいつ。俺様だから敬語で話すってなんなんだ。訳がわからねえ。

 再び胃のあたりをむかむかさせていたら、いつの間にか泣き止んでいた娘が腕の中でもぞもぞと動き出した。


「お姉ちゃんがパパのお嫁さんになるの!? やったー!」


 泣き止んだ娘はなぜかめちゃくちゃ喜んでた。

 そのあと、彩は頭を抱えながらああとかううとか言って唸っていたが、一度口から出した言葉はそう簡単に撤回はできない。


 こうして俺様は人間の女に逆プロポーズされたのだった。

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