玖応狸庵の日々

日向 しゃむろっく

ウナギモドキ

 今年の夏も暑いなと、僕は軒先から聞こえてくる風鈴の弱々しい音を聞きながら思う。

 勘定方のお役目を頂いている徒士かちたちの住居がひしめいているが、風が吹かないため空気が淀んでいる。首回りがじっとりと汗ばみ、襟が湿って気分が悪い。

 薬箱が重いが、ゆうを連れてこなくて良かった。女人にこの炎天下を歩かせるのはキツかろう

 どこかから野菜売りのかけ声が聞こえてくる。もう夕飯の支度をする時間か。

 そんなことで気を紛らわせ、やっと僕は目的の家へとたどり着くことができた。

「ごめんください」

 玄関前で声をあげる。すると家の奥から人がかけてくる音がする。そして履き物をつっかける音がして、扉が開いた。

「あ……。珠眼しゅがん先生、ご足労おかけします」

「お雪さん。清之助の具合は?」

 彼女は雪。清之助の新妻である。その清之助というのは僕の幼なじみで、昔は一緒に神田川で釣りなどをしたものだ。

 素っ裸で腰まで浸かって魚やエビを追い回していたのを、付き合わされて岸から眺めているのが雪……というのが日常だった。今から考えれば、婦女をなんてものに付き合わせていたのかと恥ずかしくなる。

「相変わらず疲れが抜けなくて……。食欲も落ちて、消耗していくばかりで」

「分かりました。診ましょう」

「あの、暑いですし先に湯冷ましでも……」

「いえ。病状は待ってはくれませんから」

 このあたりの同心屋敷は勘定所、つまりは幕府の財政その他を扱う部署に属する同心と、その家族が住んでいる。清之助は勘定所でお役目に励む身だったのだけれども、初夏から体調を崩してしまって床に伏せるようになってしまった。

「清之助さん。珠眼先生が来てくれましたよ」

 ふすまの向こうから、億劫そうに体を動かそうとする声が聞こえる。

「清之助。入るよ」

 シュッとふすまを引いて部屋に入る。目の前の布団には横たわる若い同心……清之助は、消耗しきった、覇気の無い顔をしている。まさか人生のこんな早い時期に面倒を見ることになるとは。

珠一郎しゅういちろう……」

「僕はもう珠一郎じゃないよ。名前変えたんだから……」

 僕の父親は長崎に縁のある武士だった。江戸でお役目についていたが、病に倒れて亡くなった。後家となった母親は僕をつれて長崎へ帰ることになる。

 その後僕は士分を捨てて長崎出島に勤める医者の下で丁稚をはじめ、医者になったというわけだ。

 まぁ、未だ前の名前で呼んでくれるというのは嬉しいけど。

「で? 清之助。具合は」

「見ればわかるだろ……」

 疲れと苛立ちがない交ぜになった声。夏に入るまでは勘定所でバリバリと算盤をはじいて仕事をこなしていたのだ。折角、幼なじみの雪とも結ばれた。それなのに、彼女に心配をさせている自分が許せないのだろう。

 僕は脈をとり、呼吸する肺の音を聞く。そして足の筋肉を触ってみてむくみを確認する。

 十中八九、アレだな。

珠眼しゅがん先生。どうですか……?」

 清之助の枕元で心配そうに、僕が診察する様子を見ていた雪がたずねてくる。

「休んでも疲れがとれず、手足先がしびれ、最近は歩きにくくなった。……江戸患い以外にないかな……」

「へっ。軽々しく言ってくれるな?」

 清之助の疲れ切った顔が歪む。八つ当たりするなよ。分かるけど。

「治るんですか?」

 雪がすがるように聞いてくる。

「よく聞くのは、江戸を離れて田舎で隠棲すると、けろっと治るという話があるね」

「じゃあなんだよ。役を降りて士分も捨てて、田舎で鋤でも持てってか?」

「別に今の勘定方の役を降りる必要はないよ」

「江戸の水が合わねえって言ってるんだろ?」

「まぁ僕の話をちゃんと聞けよ。江戸と田舎とで異なるものってのは意外と少ない。水も空気も田舎が清いというのなら、富士の氷室の氷でできた氷菓が特効薬だろう」

「そうなのか?」

「違うからバカな話をしているんだ。雪さん、今日の夕飯は?」

「? 白米と梅干しと菜っ葉のおつゆですが……」

「それだけ?」

「はい……」

 何も珍しいほど質素な献立ではない。江戸の多くの士分が、普段はこんな食事だ。白米が貴いともてはやされて久しいが、人間は白米だけでは生きていけないんだぞ。

 それにしても、と、僕は清之助に向き直った。

「清之助。江戸と田舎で顕著な違いが出ているものとは食事だよ」

「田舎じゃあ、白米なんて食えないからな……」

「そう。だから大根や栗、豆をまぜてかさ増ししたり麦を混ぜたりする。さらにそれだけで体力を回復できないから色々おかずを付ける。一度、そういう食事をしてみろよ」

「貧乏くさい。俺は勘定方だぞ! 面子がある」

「刀も振らずに、夏の昼間っから布団の上でヒキガエルみたいにしているのが士分かよ」

「何をぉ!」

 すっかり薄くなってしまった肌に青筋を立てて飛び起きようとした清之助だったが、僕はそれを手で制する。

 まだ一応、元気はあるな。

「雪さんは料理上手いだろ。毎日一汁一菜の献立は不本意なんじゃないか」

「副食を増やせばそれなりに家計を圧迫するだろ!」

「それで体を壊したら、薬代で家計を圧迫どころか破壊するぞ」

 そう伝えると、清之助はぐうの音も出ないようだった。別に彼は頭が悪いわけじゃない。締まり屋で計算高く、なおかつ江戸の一般市民なんだ。白米こそ至高で、あとは季節の魚と酒と塩っ辛いものが大好き。

「キミと同じ食生活をしていたら、そのうち雪さんまで倒れるぞ」

 広げた診療道具を薬箱に片付けはじめる。薬は出さない。あっても高いし、そもそも今の世の中で江戸患いに効く薬はない。

「あの、珠眼先生」

「はい」

「具体的に、どのようなお料理が良いのですか?」

「………」

 そういえば、何が良いんだ?

 僕は自分の無知に気づいてしまった瞬間、思考停止した。

「く、栗ご飯とか……」

「夏だぞ……」

 清之助のツッコミが痛い。そうだよまだ栗の花も咲いてないよ。

「あー、エンドウ豆……」

「もう旬が過ぎましたよ」

 そうだよ、もう蔓が伸びきってるだろうさ。

 急に額を汗が伝い出す。偉そうに講釈垂れたが、僕は何も知らない。

「なんだよ……」

 清之助が苦しそうな顔を歪めて笑う。

「薬も出さずにカネとりやがって。良い商売だな?」

 流石にカチンとくる。だけどこんな言葉でキレていたら医者はやっていけない。具合が悪くなると、動物はみんなイライラしだす。付き合って決裂させたら意味がない。

 じゃあどうするか。

「カネは要らない。足腰立たない怠け者から毟るモノなんてないからね」

 思いっきりの憎まれ口を叩いてやったので清之助は顔を紅潮させて怒り出した。だけどそれだけで、布団から抜け出せずに這いずるだけだった。

 まだ持ちそうだ。なんとかしないと。

 玄関を出て扉を閉め、道に出たところで背後の扉が開く音がした。

「先生……!」

 背後から声を掛けてきた雪を振り返る。

「すみません。あの人、仕事にもいけず自分で歩くこともできなくなって、日に日にイライラがつのって……」

「分かりますよ。まああれだけ怒れるなら、まだ大丈夫ですよ」

 雪は一つ年下なだけで、昔は結構遠慮のない関係だった。それと共に、若いなりに甘酸っぱい経験もしたのだが、長崎に移ることになってすべてが終わってしまった。

 雪を射止めたのが清之助だったのは幸いだった。怒りの沸点がわかるぐらいには良く知っているし。実際勘定所というのは実力主義の良い職場だ。お堅い清之助にもお似合いだし。

「お願いです先生。なにか、療養食を教えて頂けませんか」

 そうは言っても、僕は料理はからっきしなんだけどな……。

 いや、まてよ。

「多分、ゆうなら知ってるかもしれないから聞いてみますよ」

「お願いします。酉さんにも、なにとぞ……」

 そう言って雪はペコペコとお辞儀をする。

 医者になって、昔なじみのヒトがみんな、こうやって平身低頭してくる。頼むから今まで通りにしていてくれ。


 ***


 牛込御門前の勘定奉行石河土佐守屋敷を遠目に見て東へ。根津権現の近くが僕の今の住処。ここに玖応狸くおり庵という小さな医院を居抜きで買った。

 当然、借金をして。

 権現様の近くということもあり、それなりに人が頼ってきてくれているので食いっぱぐれはない。そういう評判があったから、雪の耳にも入って訪ねてきてくれた。いや、権現様のお導きだろうか?

「ただいまぁ」

 戸を開くと、嗅ぎ慣れた薬の匂いが鼻につく。家に帰ってきた気になる。

「酉ー? どこだあ」

「おかえりぃ、センセ」

 裏手の土間から声が聞こえてくる。夕飯の支度か。

 土間を覗くと、釜の火を見ながらまな板で魚をさばく酉の姿があった。

 薪がはじけ、かまどの飯釜から噴き出す蒸気から米の甘いにおいがする。

 人の腹というのは不思議なもので、特定の匂いや好物の姿形を見ると突然に空腹を自覚する。あるいは、満腹であってもさらに何かを食べられるようになる。

 先ほどまであれこれ考えたり心配していて胃袋が縮んでいたのだが、においによって僕の腹は急激に空っぽになった。

「今日は魚か」

「アジだよ。つみれにしますか、塩焼きにしますか」

「美味しいほうで」

「じゃあ塩焼きに」

 つみれのほうが美味しいのではないか……と思ったが、判断を彼女に委ねたのだから何も言うまい。僕は居間に戻って薬箱の補充や明日の準備を終え、書き物机の前にどっかりと座って一息をついた。

 酉はお手伝いの女性である。年頃の娘が、こんな独り身の医者の下で手伝いをしているのは……まあ色々と理由がある。

 初夜に夫を殴り飛ばしたとか、姑とつかみ合いの喧嘩の末投げ飛ばしただとか色々噂は耳に入ってきてはいるが興味はない。

 よく働いてくれるし、往診の帰途でお土産を買って帰ると喜んでくれる。何より、帰ると誰かが火の番をしてくれているというのが良い。

 報酬があるからかもしれないが、これだけの働き者はなかなかいない。殴られたり投げ飛ばされたりというのが本当なら、それは相手に瑕疵があったのだろう。

「センセー。できたよぉ」

 そう呼び出されて、土間の隣の居間へと向かう。膳が二つ向かい合わせで並び、塩焼きになったアジが横たわっている。そこに菜っ葉のおひたしと豆腐の味噌汁。なめ味噌と割った胡瓜。そして今しがた酉がよそっている炊きたての白米。

 揃ったところで挨拶をして箸をつけだす。これだけおかずが多いのも結構珍しいほうなのだろうか?

 良いアジだ。ゼイゴをつまんでひくと、パリパリの皮がベリベリと一気に剥がれる。骨からの身離れも良い。塩味もよく浸透している。

 こりゃ塩焼きのほうで良かったな。

「センセ、難しい顔してるけど往診ダメだったの?」

「んー。いや」

 どうしたものか。

 酉はこうやって、僕の表情の機微を察して話しかけてくれる。僕はなるべく、休んでいる間などに仕事を持ちこんだり、彼女にそれを伝えないようにしているのだが。

 だけど、僕は料理はからっきしだ。食って美味いと唸ることしかできない。それに、あのままなら清之助はあっというまに逝ってしまうだろう。

 そうなれば雪は未亡人だ。

 それだけはいけない。

「僕の古い友達なんだけど、江戸患いでね」

「ありゃー、じゃあ長くない?」

「勝手に殺してくれるな。経験的に、食事が治療のカギだと分かっているんだ」

「へえ」

「だけど僕は薬は出せても献立は出せない。だから、どうしたものかと」

「奥さんは?」

「献立がわかればすぐに作るだろうけど、患者であるダンナが無頓着でね……」

「フーン。奥さん大変そう」

「良いところはあるんだよ。僕より細かい所に気は配れるし、頭は良いし、性格は普段は朗々としているし……」

「………」

「僕に比べて実家の身分は高いし、貧乏町医の僕に比べれば勘定方は稼ぎが良いし、女性の扱いも丁寧だし、身のこなしだって……」

「センセ、悪い癖、出てるよ」

「ゴメン」

 そう。

 なるべくして、彼らは結ばれた。

 例え僕が長崎に帰らなかったとしても、彼らは一緒になったろう。

「何を食べさせたら良いの?」

「そうだなぁ……。かて飯って分かるかい?」

「お豆とか混ぜたご飯でしょ」

「そう。季節の豆と、それと一緒に簡単に食べられる旬のものかな……」

「なんで旬のもの?」

「旬だから、安くて新鮮だからさ。どこでも手に入るしね」

「フーン……」

 行灯の光りで照らされている部屋に箸と器の音が響く。

 そもそも旬の物を季節ごとに食べていれば家計を圧迫するようなことはないんだ。季節の移ろいに応じてそれらも変わるわけで、見目も楽しくはないか?

 そもそも、白米と梅干しと味噌汁だけを一年中食べるというのが、酉に餌付けされた今の僕には想像するだけで辛い。

「わかった。センセ。明日の昼は試食してね」

「ん?」

「朝イチで買い物してくるからサ」

「いやいや。誰もキミにお願いしては……」

「センセは献立を考えられるの?」

「無理です」

「じゃあ、わたししかいないでしょう」

「いや、どこぞの飯屋ででもお願いして……」

「同じことでしょ。あと、そんなに暇じゃないと思うよ」

 言われてみればそうだ。それに、酉にとっては手伝いの給金以外の収入になる。ここは甘えてしまおう。

 その翌日。

 酉は張り切って朝早くに出かけていった。

 そして午前の診察も落ち着いた頃、突然炊事場に呼び出された。

「さあセンセ。ちゃんと手順を書きとめておいてね」

「えっ。作るところからなのか……」

「センセはお薬嘗めただけで作り方わかるの?」

「分かりません。教えて下さい」

「でーわぁ……」

 そういって酉はかまどにかかる飯釜を指さす。

「お米は先に炊きます。白米と麦、そして枝豆を入れて出汁で味を付けたよ」

「かて飯の部分だね。枝豆が……そうか、旬の豆だな」

 酒をあまり飲まない僕としては盲点だった。

「最終的にはこの子を捌いてのせるよ」

 酉が手桶に手を突っ込んで見せてきたのは、黒く長い地物のウナギ。

「ははぁ……。その辺の屋台で扱ってるぐらいには安いしな。これも旬?」

「ううん。ウナギの旬は冬。今は脂が落ちててむしろ逆かな。だけど、食べ応えがあるし、安くて手に入りやすいしね。あとこのタレがね」

 うん。美味くて米にもよく絡むだろう。

「だけどサ。ウナギの脂が嫌な人もいるでしょ? お雪さんだっけ? 食べ物の好みはわからないけど、さらにアッサリとさせるために半量はそこの豆腐にする」

 指さした先には、まな板の上で布巾にくるまれ重りをのせられている豆腐が一丁。

「豆腐汁にでもするのかい?」

「違うよセンセ。豆腐はこうやって水を絞ると、硬く絞まるの。これを薄切りにして蒲焼きのタレを塗ってウナギと一緒に焼く」

「モドキ料理か。うん。ウナギも、いくら安いとはいえ豆腐には敵わないだろうし」

 言うが早いか、酉はウナギを空になったまな板に抑えつけ、素早く目打ちをした。すでに活け締めをされていて割れている首の部分から刃先を突っ込み、背骨に沿って滑らせるように背開きにしていく。ビリビリという音を響かせて出刃包丁がまな板を走り、次いで肝を除けて大骨を切り離す。鰭を切り落とし、頭を落として半分に。そして串を打って、炭火が熱い七輪へのせていく。

 惚れ惚れするぐらいの手際だ。

「すごいな酉。実家はウナギ屋か?」

「小料理屋で習うよ」

 そうか、としか僕は言わなかった。あまり実家や、婚姻していたころの話はされたくないだろうから。

「他に何を捌けるんだ?」

「スッポンとか、ナマズかな。あ、ウサギとか鶏も解体できるよ」

「何でも出来るな」

「むしろそれしか出来ないかなー」

 そんなことを話していると、じくじくとウナギの脂が煮えてくる。ひっくり返して皮の焦げ目を眺めながら、僕は自分がいつのまにか火の番をさせられていることに気づいた。

「センセ。焼けたらこっちにもってきて。一度蒸すから」

「ハイ」

 蒸し器にウナギを放り込んで蒸している間、トウフウナギを焼いていく。これは最初からタレを塗りながら焦げ目をつけなければ。

「っていうか、よくそのお雪さんっていう人、センセのこと呼びに来たね?」

「うん?」

「だって昨日、神田川の向こう側まで行ったでしょ? あんなクソ暑い日に」

「婦女がクソとか言うんじゃありません」

「センセの評判が江戸中に広まってるとは思えないし、どうしてさ」

 なんだか抗弁したいことを言っているが、それは置いておくか。

「雪さんは幼なじみなんだよ。僕が長崎に行く前はよく遊んでた」

「ふぅん。……それにしては、よくこんな所まで来るね」

「そうだな」

「………」

 しゅんしゅんと、蒸気が蒸し器から漏れる音が沈黙を許さない。

「来てくれて嬉しかったんでしょ? センセ。ちょっと期待しちゃった?」

「やめろ、酉」

「………」

「確かにキミが見抜いているとおり、僕は彼女に未練がある。だけど彼女はそういう気が一切ないことは確かだ。純粋に、馴染みが頼ってきてくれただけだ」

 僕の強い調子の言葉に、酉は口をとがらせてもごもごさせていた。

 女人は噂話やその類いが好きだ。詮索もしたくなるだろう。ただの好奇心から来た問いに、今の僕みたいな拒否を返されれば気分も悪くなろう。

 酉はやるせなく立ち尽くす僕を放って火の面倒を見だす。逃げる場所を常に用意できている人は強い。

 僕もなんだか女々しい自分がバカらしくなり、一度座敷へ上がって膳や箸などの準備をすることにした。

 やがてウナギが蒸し上がったころに酉が声をかけてきた。先のことは引きずっていないようで、こっちの気持ちが助かる。

 豆腐のウナギモドキとウナギを合流させ、一緒にタレを付けて焼く。

 どっちもよく焼けている。豆腐もタレがてりてりと光っている。こんな煩悩全開な豆腐料理では、坊主には出せないな。

「じゃあセンセ、これにご飯山盛りね」

 そういって酉がつきだしてきたのはかけそばの丼だった。そんなに食べるのかと思ったが、釜のフタを開けてみて見えた茶飯に映える枝豆の緑に腹が鳴る。

 こてこてと丼によそい、それを酉に渡す。酉はそれに脂とタレが滴るウナギとウナモドキをのせていく。これはすごい。

「あとコレ。裏庭に生えてた山椒。それと肝吸いね。はい、お膳に持っていって」

 焦げた脂とタレの匂いが、摂食本能を刺激する。早く食わねばと感じる。

「じゃあ味見しましょう、センセ」

「イタダキマス」

 ウナギは言わずもがなだ。よく蒸されて臭みも抜けている。そして本題の豆腐なのだが、これがまたウナギの脂を吸って味わい深い。木綿豆腐にしたのが正解か。

「うん。結構いけるね」

 酉は自分の味付けと発想力を自己評価している。

 僕はがふがふと、ウナモドキウナ丼をかっ込む。枝豆も、タレのくどい味で飽きてしまうのを防いでいて良い。ショウガが刻んで混ぜてあるらしい。爽やかだ。

「酉。これ、麦飯にしたのは正解だったね」

「でしょ。別に丼にしなくても、とろろかけても美味しいと思う。あるいは鶏のモツを味付けして具にしても良いかも」

「うんうん」

 腹にどんどん入っていく。合間に吸い物を啜ると爽やかさがまた違う。

 ああ、これなら偏食の清之助も食べるだろう。これだけ美味い、わがままの塊みたいな丼飯を拒否するなんてできるだろうか。いや、できまい。

「おかわりする?」

「うん。これは試食にならないなァ……」

「センセ。さっきは変なこと言って、ゴメンね」

「気にするなよ。キミの言うとおりだし。彼女が訪ねてきた当時は期待もしてしまった。そういう医者としてあるまじき不義の虫が、自分の腹の中で蠢いたのが許せなかっただけさ」

「今は?」

「僕の中に不義があるのは確かなこととして認識し、その不義がまた暴れないよう、適度な距離をとって接するよ」

「そう」

 酉が小さめの丼に軽くよそうのを眺める。しゃもじの動きが、心なしか軽いように見えた。変な心配をさせてしまったと思ったが、僕よりよほど切り替えが早い。

「お湯が沸いてるけど、ほうじ茶煎れようか。二杯目はお茶漬けに」

「天才だなァ」

 結局茶漬けもかっ込んでしまった。別の意味で健康に悪そうだ。


 ***


「ウナギなんて! 士分の食うものじゃないだろ!」

 翌日、試食を片手鍋に入れて清之助の家を訪ねると、案の定ごねられた。

「いや、患って腰が抜けてる状態で士分がどうとかいう問題じゃ」

「俺がウナギを喰らってるのが周りに広まったらどうする!」

「上品じゃないってかい? そんなに勘定方って偉いのか?」

「そうじゃなくて、幕府の財政健全化に取り組んでる勘定方が! 贅沢にもウナギを食べてるのが問題なんだよ!」

 布団に座って床を殴りつけ、「どうして察しない」と清之助が憤る。やがて怒鳴りすぎて咳き込み始めた。そんな弱々しい清之助の背中を、雪はかいがいしくさすっている。

 雪は僕と清之助の顔を交互に見てくる。僕へは「申し訳ない」という気持ちを表情で顕しているが、それは僕のほうこそ、だ。

 清之助にとっては僕は相変わらず珠一郎だし、「なんで察してくれない」という気持ちがあるだろう。

 だけど僕は医者なんだ。詰まるところ、キミが無事に健康になることしか頭にない。

「これは串焼きだし、調理からなにまで家でやるから何も贅沢じゃ……」

「噂ってのは尾ひれがつくっ! それで変な噂が立ったら、俺はヘタするとお役御免になるぞ!」

「考えすぎだろう……」

「お上の浮世離れの具合を知らないからそんなことを言えるんだ! 長崎の田舎者のお前に何が分かる!!」

「清之助さん! そんなことを言っては……!!」

 雪が割って入ってくれたものの、流石にその言葉に僕は我慢がならなかった。

 僕は医者だから、患者に求められれば助ける。だけど、患者自身に治るという意志や治療への同意がなければ治療を強制することはできないんだ。

 だから僕は、黙って薬箱を立ち上がって引き揚げることしかできない。

「せ、先生……」

「雪さん。僕はこれで」

 ふすまをひいて、玄関へと出て行こうとする。

「先生! 清之助さんを赦してください。お願いです。ずっと出仕していなくて、自分が要らなくなるのではないかと、心細いだけなんです……」

 雪は僕を留めるため、土下座をはじめた。

 いけない。

 今のキミはそんな姿勢をとってはいけない!!

 駆け寄って起こそうとしたが、雪はサッと清之助を睨み付けて、怒鳴り散らす。

「清之助さん!! 今すぐ謝って下さい! はやく!」

「何を怒ってるんだ……」

 清之助は完全に、雪の剣幕に圧倒されていた。こちらからは雪の形相が見えないが、般若よりも恐ろしい憤怒を見せつけているに違いない。

「幼なじみで、私たちのことを一番良く知っている人がお医者様になったのに! その人が駆けつけてくれて知恵を絞ってくれたのに! あなたは罵ってだだをこねるばかり!」

「ゆ、雪、怒るな。そんなに怒ったら……」

「怒ったらなんです!」

「体に……障るだろう……」

「そうですよ! 清之助さんが居なくなったら、七ヶ月後には産まれるこの子はどうなるんです!」

 雪の声は震えていた。時折声も裏返って、大きな声を出し慣れていないのがわかる。興奮して息が切れている。

 頼む。今はそんなに怒らないでくれ。本当に流れてしまう。

 清之助も雪も、僕も黙ってしまった。清之助は気まずさと後悔で押しつぶされそうだろうし、雪は契った人とその子供の先行きに暗い帷が降りかけているのが辛い。そして僕は誰の気持ちを尊重したら良いのか分からなくなっていた。

「雪……」

 清之助が声を絞り出した。

 気まずさと、覚悟のないまぜになった声。

「雪、悪かった。俺が悪かった……。だから機嫌を直してくれ……」

「じゃあ、先生の教えて下さったうな丼を食べて下さい。私たちと一緒に」

「いや、だから……」

 そこまで言いかけたところで、清之助は瞑目して逡巡した。

「そんなにウナギがお嫌なら、私がウナギを全部食べます。清之助さんはお豆腐だけで」

 すかさず畳みかける雪。

 やがて。

「分かった。分かったよ。食べるよ……」

 清之助は折れた。

 それを聞いた雪は立ち上がり、台所へとかけていった。床には雫が落ちたシミが見て取れる。

 台所のかまどに火が入る気配がする。鍋が動き回り、膳が出動しているようだ。

「医者いらず、かな」

 僕は患者の心を動かした雪に感謝し、それと同時に動かせなかった自分の未熟を恥じて言った。

 もう僕の出る幕はないだろう。

「いや……」

 清之助が僕を引き留める。

「雪にあそこまで言わせたのはお前のおかげ、だろ」

「……お大事に」

 去り際、飴色に照りつく豆腐のウナギモドキ丼とうな丼を持った雪とすれ違う。

 それまでずっと曇っていた表情だったのが晴れ上がっている。

 大丈夫だ。この家はすぐに賑やかになるだろうさ。

 玄関で草鞋をつっかけ、外へ出る。そして塀越しに、清之助が丼を箸でつつく音が聞こえてくる。

「味が濃いな……。もう元より食欲も減ってるからな……」

「お茶漬けも美味しいと、珠眼先生はおっしゃってましたよ」

「そっちのほうが好きかもしれない。次は茶漬けにしてくれ」

「はい」

 そう返事をする雪は嬉しそうだ。

 清之助。

 今はどんぶり一杯も食べられないかもしれないが、ゆっくり養生していってくれ。


 ***


 雪の体を張った説得により、清之助はウナギを頬張ることになった。

 おかげで、あの白米と梅干しと味噌汁だけの貧相な食事から脱した清之助はけろっとしだした。出仕もはじめて、勘定所で毎日ソロバンをはじいている日々に戻ったわけだ。

 後日、雪がわざわざやってきて、お礼といって軍鶏をくれた。ありがたく酉と一緒に鍋にしてつつかせてもらった。

 忙しくしている清之助だが、ちゃんと家に帰って雪の手料理を食べる習慣がついたらしい。最近は雪が元から覚えている料理も混ざりだしたと聞く。

 あまりに美味くて、今度は酒量が増えなければ良いが。

「センセ。何ニヤついてるの」

「んん? いや……なに。酉のおかげで、一つ家庭が救われたなって」

「謙虚だねぇ、センセ」

「手柄を自分のモノにすると、あとあとプレッシャーとかしがらみがうるさくてね」

「ぷれっ……しゃ?」

「ああ悪い。出島で医術を教えてくれた先生が喋っていた異国の言葉だよ」

「うーわ。そのお前にはまだ早いっていうカオ! うざ!」

「怒るな怒るな……」

 町を歩くと風が冷たいことに気づいた。

 雪のお腹も目立ってきている。年明けには子供が産まれるだろう。僕は産褥に立ち会うことは無いが、頼ってくれる人がこの江戸に一人増えるということだ。

 そうだ。

 何か滋養のあるものを見繕って教えてやるか。

「なあ酉。妊婦が摂りたい食事って……」


                                          了

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