【KAC20225】贖罪
和響
平和への祈り
「私の名前は、ルドルフ•ヒトラーです」
二〇二二年、三月。東京日本橋に本社を置く、大手出版社「KAMU」が企画した『戦争と平和への祈り』の取材は、出版社の二階にある会議室で始まった。取材しているのは、今年で四十二になる女性の編集者、小林である。どことなく小太りなこの女性記者は、ロシアがウクライナへ侵攻したことで新しく社内企画として発足した『文学から広げる平和への祈り』のプロジェクトチーフである。
「でも、今は、そのお名前はお使いではないのですよね? ルドルフさん」
小林が画面越しに日本語で尋ねると、画面の中の老人の横にいる通訳の女性が、すぐに耳打ちし、質問を伝える。画面の中の老人は、鼻に酸素を送るためのチューブをつけていて、ベッドを少し斜めに起こしている。そして、それを背もたれにして取材に応じているようだ。老人は画面の中で弱々しく微笑み、小さな声で、その通訳の女性へと言葉を呟く。
「そうです。私は今は、ルドルフ・シュタイナーと名乗っています。なぜなら、戦争後、私たちドイツ人は、ナチスが犯した罪の重さを決して忘れないために、ヒトラーや、それに深く関わった人と同じ名字の人々は、改名することを許されたのです。アドルフという名前をつける人も、それ以降はほとんどいません」
小林は、頷きながらその話を聞くと、画面の中の老人は、左手を少し動かして、通訳の女、ケイコ・イトウをそばに呼び寄せ、また小さな声で何かを話し始めた。ケイコ・イトウは、黒髪の二十代女性で、目鼻立ちがくっきりとしている、ルドルフという老人の曾孫にあたる女性である。今回の取材は、この女性がSNSでコンタクトできたことから実現した。
「私はあの年、この世に誕生しました。あのヒトラーが指導者兼国家宰相に就任したその年です。もう八十八年も前のことです」
画面の中で美しく若いケイコ・イトウがそう言うと、もう一度、曽祖父の口もとに耳を寄せた。そして、小さな声を聞き、老人の左手を握り、画面に向かい、続きを訳した。
「私が生まれたのは、ドイツの小さな街でしたが、父は軍人でした。この当時は、ヒトラーの国民的支持がとても高かったのです。誰もがヒトラーの演説に酔いしれ、何が正しいことなのかを、自分では判断できなくなっていきました。国外からの情報なんてものは、無い時代だったのです」
小林は、まさにプロバガンダ、と小さく呟き、どうぞお続けくださいと、メモを取りながら言った。彼女は今、会議テーブルに座り、ノートや資料を広げているのだが、その目は真剣そのもので、画面から目を離すことはほとんどないのであった。
「1930年代初頭のドイツ国民のムードは悲惨なものでした。世界的な経済不況が国を襲い、ドイツもその中で、何百万という人々が失業していたのです。そこに現れたヒトラーが唱えるナチスの思想は、農民や一般層の希望を失った国民に、生活の向上と、新たな栄光あるドイツを約束するものでした。国民は、そこに希望を抱き、魅了されていったのです。そう言う時代だったのです」
呼吸を整えながら、老人は、ゆっくりと目を閉じた。そしてまたその口が開くまで、画面のこちら側の編集者の小林も、通訳の女性も、ただ、その姿を心配しているように見つめていた。老人の口が小さく動き、通訳の女性が話す。
「そして、あの年、私が生まれた一九三四年、ついにヒトラーは、ドイツの全ての権限を手にしてしまったのです。そこから先は、あなたもよくご存じでしょう」
そう言うと、老人は、また、目を閉じた。取材をリモートで受けているこの老人は、世界的に流行している流行病を罹ってから、一時は回復したものの、最近になって体調が著しく悪くなり、今も病院のベッドの上で毎日を過ごしているのであった。呼吸をしながら話をすることもままならないほどに、その体力は落ちているようだ。通訳の曾孫の若い娘は、そんな曽祖父を気遣いながらも、過去からのメッセージを伝える使者として、その役割を果たそうとしている。
「私たちドイツ人がユダヤ人にした事や、第二次世界大戦の引き金を引いてしまったかもしれないことは、ヒトラーに陶酔した、その当時の我々の意識が引き起こした事かもしれないのです」
「そんな、ドイツの人がその当時、みんなそう思ってやってたわけではないですよ。ルドルフさん」
思わず小林が声をかけるが、それを離れた場所にいる弱々しい老人は、力強く右手をあげて制し、そして老人は、か細い声で曾孫に何かを伝えていた。それを頷きながら聞いた、曾孫であるケイコ・イトウは、画面の方に向きなおり、曽祖父の言葉を正確に通訳して話したのだった。
「いいえ。そう思っているからこそ、アドルフと言う名前は私たちはつけることがありません。そして、ヒトラーと言う性もほとんどの人が放棄をしています。忘れてはいけないことなのです。自分たちがしたことを。それが、この先の未来につないでいく平和な世界だからです。それを伝え続けるのが、私の贖罪です。子供たちに平和をつないでいくことが、贖罪なのです」
そこまで曽祖父の言葉を通訳として話したその美しい若い娘は、画面にむかい、小林に話し始めた。
「本当なんです。小林さん。私たちの国の街中には、そう言った歴史的事件の名称をつけている場所が多々あります。それは、その悲劇を二度と繰り返さないためにとつけた地名だったりするのです。日本は水に流すのが得意かもしれませんが、私たちは、それを決して忘れないと心に、意識に、刻んでいるのです」
それを聞いた、日本人の編集者である中年女性の小林は一瞬考え、
「確かに、日本人は縄文時代を見てもわかるように、融和の民です。長崎や広島に原子爆弾を落とされても、許してなるものかと、憎しみを呪いのように持ち続ける人は、そうそういません。おっしゃる通り、それはその時代背景がしたことだからと、水に流し、平和に暮らしている人が多いように思えます」
と伝えた。そして、
「ですが、それが本当にすごく良い事かは、私は今、とても考えます。確かに日本は平和です。個人レベルの貧困やいじめなど、様々な問題はありますが、大きく捉えてみれば、内戦のある中東の国々と比べても、本当に平和であると思います。でも、だからと言って、自分たちの先祖が実際に体験した戦争の悲劇を忘れて良いと言うことではありません。そして、今、まさに、ロシアがウクライナに侵攻して、多くの人々が被害にあわれ、亡くなっています。水に流す、と言う受容性を持ちながら、過去に学び、声を一人一人があげなければ、世界は平和へと向かっていけないような、そんな気が今とてもしています」
と言った。その言葉を受けた通訳の娘は、その美しい黒髪を揺らし、俯きながら、先ほどから優しく握りしめていた曽祖父の左手を、ベットの上にそっと置いて、また画面に顔を向け、
「私は、日本人とドイツ人のハーフです。でも、そのどこかには、ウクライナ人の血も入っています。そして、ロシア人の血も……。私が住んでいる場所は、日本のような島国ではなく、陸続きなのです。だから、何世代か遡ってみれば、今の私のように、国境を越えてルーツを持っている人たちが沢山います。私は、今、毎日とても悲しいです。毎日ニュースを見て、悲しいです。なぜ、同じ人間同士で争うのか、毎日それを考えています。ドイツの人々のように、同じ過ちを繰り返さないように、過去を胸に刻み、私のルーツの一つである日本のように、憎しみを恨み続け、呪いのように後世へ残さない、そんな平和な世界を望んでいます」
と、涙ながらに語った。それを受ける編集者の小林も、また、目に涙を溜めている。そして、仕事としての自分を思い出したかのように、彼女へと言葉をかける。
「ケイコさん、私も同じ思いです。過去に生きた人々の悲しみや苦しみを知る事、それを自分のように感じることは、この世界をどんな世界にしていきたいかの根っこだと思います」
そして、続けて、
「今は、ナチスドイツの時代とは違います。そうですよね? ケイコさん。それがルドルフさんが一番伝えたい事なんですよね? インターネットで、世界中がすぐに繋がれる時代。こうして、悲劇の時代を実際に生きたお話も、会えなくても聞ける。ルドルフさんが生きた、この八十八年の人生の中で、どんなことがあったのか、そして、そこから学ぶべきことはなんなのか、それをルドルフさんはお話してくださいました。ご自身のお身体がこんなに息絶えるくらいの大変な時にです」
と感情を抑えられないように一気に話した。その目からは涙が溢れ始めている。そして、抑え切れないのか椅子から立ち上がり、
「ケイコさん! あなたのお爺さまが伝えたい事、それはなんなのかを、もっと国境を越えて話し合っていきましょう。そして、それを無関心な、いいえ、それだけではなく、政府の歪んだ都合の良いプロバガンダを信じてしまう人々に、それは違うという情報が、どうしたら届けられるのかを一緒に考えていきましょう。何よりも、罪なき人を殺すなんてことは何があってもいけないことだと、未来は私たち一人一人の手によって創造できることを、沢山の人々に伝えていきましょう! 」
と言って、その後、インターネットでのリモート取材は終了したのであった。
***
昔とは違う。もうインターネットで世界中が繋がれる世界。
私たち大人は、平和な未来を子供たちへと渡す義務がある。
今まさにその転換期ではないか。
そう、想像できる大人が増えるほど、この世界はきっともっと優しい光に包まれる戦争のない世界になると信じている。
最後に、この戦争で命を落とされた方々に、これまでも戦争で犠牲に遭われてきた方々に、そして、戦争のない平和な世界になりますようにと祈りを込めて、
――黙祷。
世界が愛に包まれた平和な世界になりますように。
【KAC20225】贖罪 和響 @kazuchiai
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