心の狭間の、愛でも恋でも、そうじゃないとも言えない、話。

行枝ローザ

 

大丈夫………大丈夫………任せてくれれば、大丈夫………



男の人の唇がこんなに柔らかいものだったなんて、そう感じる余裕が嬉しかった。

そして久しぶりに感じる、自分より大きい存在の温もりに強張りが解けてもいく。

「……緊張、してた?」

「……それは、もう」

今だって緊張している。

きっとこれからも緊張し続けるだろう。

むしろこの緊張感が少しぐらい緩んだからといって、平常になるのは難しい。


むしろ──平常でいられなくなる場所にいるのだから。


もっと警戒しても過ぎなかったぐらいだと、心の襞を丁寧に剥がしていく長い指に、理性をまだ残しながら私は思った。

私の狭い世界の中で経験したことがすべてだったから、レディスコミックや官能小説で描かれる『めくるめく快楽』など、きっと私には夢物語、味わうことのない境地だと思っていたのに。



真綿でじわじわと首を絞められるような『幸せ』を『幸せ』と感じられなくなったのはいつからだろう──自分を無視して、ひたすら『他人』を『自分』に置き換えてしまって、『自分自身』を大切にすることを忘れていた。


「たまには化粧をして、お洒落をして、出掛けるのもいいものだと思いますよ」

「誰と…でしょう?」

「誰とでもなく。ひとりで」


そんなことをしたのはいつ振りだろう?

ドキドキしながら身軽になろうとあちこち手配をし、ワクワクしながらひとりで身軽に街に出た。



────つまらない。



『ひとり』というのは、こんなにもどうしていいかわからないものだったろうか。


本屋に行きたい。

服を見たい。

香水を試してみたい。

化粧品を手に取りたい。

新しい靴が欲しい。

行ったことがないところに行ってみたい──


そう思っていたのに、結局は行き慣れたショッピングモールに出かけ、以前通っていたコスメショップの前を知り合いの店員に見られないようにと知らん顔で通り過ぎ、昔好きだったブランドのアパレルショップも素通りした。

せめてひとりでランチでもしようと思ったのに、カップルや家族連れが案内されるのを待つのも恥ずかしく、フードコートも人がたくさんでひとり分の席を確保するのも難しいように思われてすごすごと後にする。

「……何をしていいか、わからないわ」

言葉に出してみれば、何と情けない。

私はすっかり世間から取り残され、浮き立った気分もすっかり沈んでしまった。

だから「ついでだから」と妹から気軽に請け負った子供の洋服を受け取って帰ってきたが、また束縛される前に届けに行くことすら億劫になってしまう。

そこはやっぱり約束だから──重い足を引きずるようにして妹の家に行ったが、結局自分が何をしたかったのかわからずに久しぶりの『自由時間』は少しの解放感と虚しい疲れだけ残して終了してしまった。



「一人だと、つまらなかったです」

「おやおや」

「友達が、いないから」

「ひとりも楽しいですよ」

「一人だと、何を楽しめばいいかわからなくて」


だから。


「じゃあ…一緒に出掛けましょうか?」



そこに意味なんかない。

ただ『出掛ける』だけ。

なのに『目的』ができただけでも、世界に色が戻ったように私にも色が戻った。



楽しい。

楽しい。

楽しい。


ああ、いつ振りぐらいに『他人』と話したんだろう。

ただ喋って、歩いて、一緒に食事をして──『デート』と言えば言えるもの。

ただ単に『散歩』と言えば言えるものだったかもしれない。

けれどショッピングに行くわけでもなく、公園を歩きながら景色を見て会話をし、自分が作ったものではない食事をする──しかも、私もちゃんと払うつもりだったのに「女性には出させられないから」と。


ああ………私は『女』だったんだ。


私の速度で連れがいる充実感。

さりげなく化粧直しができる時間をくれる。

私の知らない知識と、私が興味を持つ話題。

エスコートされる優越感と保護される安心感。

いつの間にか私の方が担ってきた役割が、あちらに手綱を握られるという解放感に、私はいつもより早く過ぎる時間を心から楽しんだ。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *




あの日は楽しかったね。


そんなことは一切触れず、また他愛のないやり取り。

お薦めの映画。

お薦めの本。

時には優しい慰めの言葉。

こんな扱いをされるなんて。

気持ちは募る。

けれどこちらからいうのは憚られる。

悶々とする日々だったが、それは思いがけず『私の毎日』にもたらされる潤いになった。


不思議なことである。


その潤いが彩りを添えて、息苦しさが少し減った気がした。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



「時間が取れるなら、一緒にいませんか」

それがどういう誘いか──心が鈍くなっていた私でも、言葉の裏の意味を読み解けた。

だからと言ってどうしたいというわけではない。

ただ『一緒にいる』だけ。

期待してはいけない。

期待すべきではない。

期待通りではないかもしれない。

それでも──触れられなかったあの手を、繋げるかもしれない。


だから『期待通り』に導かれるまま歩き、繋ぎたい手は繋がれないまま、触れようかどうしようかと迷っているうちに目的地に着いた。


人が、ヒトになる場所。

隠れる場所。

たぶん──私がいてはいけない場所。


「どうしたの?」

柔らかいソファの上。

ただ、横並びに座っているだけ。

チャンネルが回されて、壁に埋められたテレビの画面にはあられもない姿の男女が映し出される。

普通の家のテレビ番組ではとうてい映らない、煽情的であからさまなチョイスに、思わず顔を俯けてしまった。

「……あまり好きじゃない?」

俯いたまま頭を動かすと、部屋いっぱいに響いていた若い嬌声とモーター音が消えたが、画面の中では相変わらず薄い肉付きの裸体が大きく脚を広げられて、中心部分を男性器に模したいわゆる『オモチャ』で嬲られ、顔を歪めて聞こえない声で泣き喚いている。


………アレって、気持ち良くなるために使うのじゃないのかしら?


チラリと視線をやるが、やはりすぐに目を逸らしてしまう。

別に嫌悪しているわけじゃない──むしろ、興味がある。

好奇心がそそられる。

だけど──それを知られるのが、怖い。

だから、目を逸らした。

「あっ……」

「大丈夫だから」

身体をずらされ、頬が固定され、やや仰向けにされた私の目の中に、映ってはいけない顔が近付き──唇が重なった。



柔らかい。

こんなに柔らかいものだったろうか。

いや、もっと硬かったような。

硬かったのは、私が身構えていたからかもしれない。

それならば、緊張している今だって、硬いはずだ。

それなのに──それなのに───

唇だけじゃない。

指先が驚くほど優しく、羽根が触れるかのように軽く、そしていやらしくストッキングの上を滑っていく。

「ああ、これは邪魔だねぇ……脱いでしまおうか?」

脱がされるのではなく、私自身の手でスカートをまくり上げ、ゆっくりとナイロンの鎧が剥がされる。

違う。

この人は、『言葉』で私を脱がせていく。


ボタンを外して。

上着はそちらに置いて。

ああ、可愛らしい下着だけど、もうそろそろ暑くなってきたんじゃないのかい?


一枚。

また一枚。

そしてたった一枚、私の秘部を隠すショーツだけが残されて、私は手を引かれた。

「まずはお風呂に入らないかい?」

キョトンとした。

見事な肩透かしを食らい、いつの間に準備していたのか備え付けの入浴剤が入れられている香しい湯船へと誘導される。

互いの手にボディソープを取って、確かめるように洗い合った。

「うぁ……」

すでに滾る男性器に指を絡ませると、気持ちが逸ってゆっくりと扱いてしまい、微かな声が上がって私の身体が引き寄せられた。

「……見かけによらず、積極的だね。これはお返しだ」

耳元で色っぽく低い声が響いたかと思うと、ぬるりと襞の上を私のものではない指が滑る。

ボディーソープに頼らずとも潤み切っていた媚肉に潜り込み、難なく受け入れたナカでグチュグチュと音を立てて動かされ、私の方からも寄りかかった。

「ああ……欲情しているじゃないか……『できないかもしれない』なんて……大丈夫。ちゃんと君は、濡れているよ……」

シャワーで泡は流され、湯船の中で貫かれる。


我慢が、できなかった。


それは私の方だったのか、それとも二人ともなのか。

貪り合うように唇がまた重なり、場所を変えて、私の知らないやり方で、私の知らない啼かされ方で、私は声の限りに乱れた。


愛じゃない。

恋でもない。

だけど違うとも言えない。

好きだと言えない。

嫌だと言えない。


久しぶりの『初めて』で馴染み切らないまま、私たちは互いの身体を汗と愛液と白濁で汚して、静寂と冷静さを取り戻した。

音声の消えたままの画面の中では、さっきとは違う女優が、違うやり方で、穏やかに抱き合っている。

プツン、プツン、と画面が切り替わり、甲子園野球の試合が映し出された。


彼らもまた、違う汗を流している。


あの頃に戻りたいとは思わないし、知らなかった時間に戻りたくもない。

そう思いながら、私は慣れた手つきで備え付けのコーヒーを二人分淹れる。

「……美味いね。いつも飲むのより、美味い」

「よかった」

いつも飲むのは、誰と飲むのか。

誰に淹れてもらうのか。

自分で淹れるのか。

同じメーカーのものだろうか。

家にはインスタントコーヒーしかない。


汗で落ちてしまった化粧を直し、用を足し、ストッキングをたくし上げて足に馴染ませるとスカートを下ろす。

隠微な空気は入れ替えてもいないのに消え去り、まるでこれからまた『散歩』にでも行くような気楽な顔をしてコーヒーを飲み干すのを待った。

「少し遅くなったけれど、お腹が空かないかい?美味しいラーメンを食べさせる店があるんだけれど」

「いいですね。大好きです」


大好きです。

大好きです。

大好きです。


意味はない。

連れて行ってくれるラーメン屋が、楽しみなだけ。

気取きどられたくないし、気取けどられたくない、ただそれだけ。


愛じゃなく。

恋じゃなく。

でもそうでもない。



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心の狭間の、愛でも恋でも、そうじゃないとも言えない、話。 行枝ローザ @ikue-roza

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