晩年に、華やかな勝利の音楽を

白里りこ

晩年の時

 1971年、ニューヨークのエセックスハウスにて。


 ホテルの一室に老人が一人横たわっている。


 照明はやや暗い。


 空は曇っている。


 かかっているレコードは、ニューヨーク・フィルによるベートーヴェンの交響曲第五番「運命」。


 老人は曲に合わせて小さく手を震わせている。


 彼は作曲家であり指揮者でもあった。


 今や衰弱し、もう舞台には立てなくなっている。


 運命が扉を叩いているのを彼は感じている。


 死という逃れられない運命が。


 もう二ヶ月ほどで彼は八十九歳になるが、その前に彼は死ぬだろう。


 だが彼はそれを恐れてはいない。


 運命に立ち向かう心の備えはとうにできている。


 ベートーヴェンのように。


 交響曲第五番は、運命への恐怖などを描いたものでは決してない。


 襲いかかってくる過酷な運命に対して打ち勝つ様子を描いた、勝利の讃歌である。


 曲は進み、最終楽章へとアタッカでそのまま休みなく突入する。


 勝利のファンファーレが響き渡る。


 そう、彼の人生は、このように輝かしいものであった。


 旧ロシア出身の作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキー。


 初期の三大バレエ音楽『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』で大成功を収めて以降、彼の音楽家人生は順風満帆と言って良かった。


 もちろん、今は衰えて机に向かうこともできないし、舞台に立ってタクトを振ることもできない。


 それは哀しむべきことであり、寂しいことでもあった。


 しかし彼の名声は、彼の死後も衰えることなく轟き続けることだろう。


 ベートーヴェンの耳に届くことのなかった拍手のように、彼への賛辞は後世にも語り継がれるだろう。


 やがて「運命」の最後を彩る堂々たるドの音が鳴り響き、レコードは終わった。


 彼はふんっと満足したように息をついた。


 それから妻に頼んで、同じくニューヨーク・フィルによる自身の曲『火の鳥』をかけさせた。


 この曲も、最後は勝利を祝福するような、輝かしいメロディーとハーモニーに彩られている。


「そう、今日はそういう気分なんだ」


 彼は呟いた。


「今日はちょっと寂しいからね……」


 やがて、派手で華やかな調べが、老いた病人の部屋に、朗々と響き始めた。


 彼は安心したように、しばしの間目を閉じて曲に聞き入ると、外の景色を──少し晴れ間が見え始めたニューヨークの町並みを、ぼんやりと眺めた。


 齢八十八の彼の、最後の刻は、鮮やかに、緩やかに、過ぎゆく。



おわり

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晩年に、華やかな勝利の音楽を 白里りこ @Tomaten

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