ベージュの贈り物

御角

ベージュの贈り物

 いつの時代も、人は長寿をめでたいものとして扱う。60歳での還暦。70歳での古希。77歳、喜寿。80歳、傘寿さんじゅ。そして88歳、米寿べいじゅ


 私にとって今日はそのお祝いの日だった。数十年前までは、まだちゃんちゃんこなんて早いと思っていた。周りが妙に気を使うのも年寄り扱いされているようでしゃくに障った。でも、その気持ちとは裏腹に体は急速に衰えていった。

 歩道橋の階段を踏み外して思いっきり転けた時、私はようやく現実から目を逸らすことが出来なくなった。周りの生温かい視線が、アスファルトの冷たさよりも、何よりも身に沁みた。

 それから何度も祝いの席があって、その度に私は老けていった。しわと白髪しらがを数えるのが嫌で段々鏡も見なくなった。若々しくありたいという気持ちもいつの間にか薄れて消えていた。

 みんなが自分の長生きを望めば望むほど、私の心の隙間から何かが抜け落ちていく感覚がした。


 だから今日、私は自分の誕生日から逃げ出した。祝ってくれる沢山の人には申し訳ないと思う。しかし、これ以上自覚してしまうのは、ただ老いて、生きる屍となってしまうのは嫌だった。

 思うように動かない足で、あてもなく、ただフラフラと歩き続ける。心配させてしまっただろうか。それとも面倒だと思われているのだろうか。わからない。自分のことさえまるでわかっていないのに。

 街のショーウィンドウに、ふと自分の姿が映る。腰の曲がった、ヨボヨボの、醜い私。誕生日なんて、米寿のお祝いなんてちっとも嬉しくない。泣きたい気分だったが、涙はとうの昔に枯れ果ててしまった。こんなに心が痛いのに涙一つ出ない自分が情けなくてその場にうずくまる。

「おばあちゃん」

 ずっと探していたのだろうか。頬を上気させ息を切らして、孫が、私の目の前に同じようにうずくまっていた。

「探したんだけど……」

「……ごめんね」

 必死に探してくれたことが申し訳なくて、上手く言い訳することが出来なかった。

「いいよ、別に。一緒に出かける手間省けたし」

『一緒に、出かける』

 その意味がわからず私は思わず聞き返してしまう。

「あれ、聞こえなかった?」

 孫よ、そういう意味で聞いたわけではない。

「まぁいいや、とりあえずこっち!」

 そう言うと孫は私の手をとってゆっくりと歩き出した。大きくはないが柔らかくて、綺麗なその手が、やけに頼もしかった。


 孫に連れられるがまま、私達は街中まちなかの洒落た建物に入った。パチパチと小気味よいハサミの音が響く。ここは……おそらく美容院だ。

「今日のために予約しといたんだー。ここ、人気で取るの超大変なんだからね!」

 受付を済ませた孫と一緒に奥まで進む。

「いらっしゃいませ、今日はどのようにされますか?」

 若い女の美容師が孫に話しかける。

「今日は私じゃなくて……おばあちゃんのカットとカラーお願いしたいんだけど、いける?」

 私の背中を押す孫の表情は見えない。一体何を考えているのだろうか。

「勿論です! ではこちらの席にどうぞ」

 訳もわからぬまま座らせられる。目の前の鏡を直視するのが怖くて、私は思わず目を瞑ってしまった。

「大丈夫だよ、おばあちゃん。ここ私のいきつけなんだから。腕は保証する」

 その的外れな指摘がなんだか可笑しくて、不思議と肩の力も抜けてしまった。

「あ、でも目は瞑ったままでいいよ。びっくりさせたいから!」


 水の流れる音が心地良い。さっきまであんなに鬱屈とした気分だったのが嘘のようだ。泡と共に、心に蓄積されたヘドロのようなものも、洗い流されていく。


「私ね、ちょっとわかるよ。逃げたおばあちゃんの気持ち」

 シャンプー中で、孫の顔は見えない。

「昔は私も誕生日が大好きだった。ケーキもプレゼントも当たる最高の日。早く大人になりたいって、そう思ってた。でも今は逆。大人になったらケーキもプレゼントもない。ただ年齢が増えるだけ」

 そんなことを考えていたのか。いつまでも可愛い子供だと思っていたが、私の知らない間に孫は心も体も成長していたようだ。

「だから、いつも誕生日プレゼントをくれるおばあちゃんに恩返ししたいってずっと思ってた。これは、私なりのお返しだから」

 だから遠慮せずに受け取って。聞き取れなかったが、孫はそう言っているような気がした。


 髪を乾かすドライヤーの音が、周りの全てを遮断する。私は気にし過ぎていたのかもしれない。年齢をあれこれ気にする周囲の人がたまらなく嫌だったのに、一番それに縛られていたのは他でもない、自分だった。いつの間にか、老いを受け入れるしかないと諦め不貞腐れていた。受け入れた先にあるものを見ようとしなかった。

 歳をとったって素敵な人はいっぱいいる。自分が格好良くないのを歳のせいにすることが、最も格好悪いという事実に今日まで気がつくことが出来なかった。

「はい、終わりましたよー」

 そっと、目を開ける。

「素敵です、お客さま! この髪色、良くお似合いですよ」

「やっぱりね、家族だもん。絶対似合うと思った!」

 輝く、ベージュの髪色。

 シワの数も白髪も、数える必要のないほど眩しい、金茶色。

「お揃いだね」

 鏡に映る孫は、その髪以上に明るい笑顔で、私の側にいた。もう枯れたはずのしずくが、僅かに私の頬を濡らした。

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