過去の自分にメッセージ ~多鶴子の場合~

飯田太朗

くそっ、何でこんなのと……。

 結婚は人生の墓場というが、マジでそんな感じ。結婚してから人生灰色でしかない。

 そもそも三十まで売れ残ってしまったのが悪かった。仕事が楽しいからと男に関わることを疎かにしていたらあっという間に取り残され、やばいやばいと焦ってもいい男は軒並み既婚者で、どうしようもなくなって婚活支援サービスに頼った。それで一旦スペックだけ見て(収入だとか、勤め先だとかその辺)、まぁ妥協できるだろうという人と結婚した結果がこれ。この灰色の日常。


 確かに夫の忠司はスペックはよかった。収入は高いとは言えなくても安定しているし、家事もしてくれるし趣味にお金をかけすぎるタイプでもなければ酒も飲まないしタバコも吸わないし、猿みたいに性欲をぶつけてくるタイプでもないし、ファッションセンスだって悪くないというか……本当にただ、私のことを愛でてくれる感じ。でも何だかなぁ、トータルで見ると百点満点中四十点くらいなんだよな。


 欠点を挙げてみよう。顔が好みじゃない。別に醜男ってわけじゃないけどイケメンではない。イケメンを十として醜男を一としたら三か四くらいのところ。髪型もスキンケアもしっかりやっててこれなので、多分私の中の価値観の問題なのだと思う。実際友達に紹介するといいじゃんと言われる。


 次。隙がない。プライベートでも毎日きっちり服を着替えてお洒落をする。別に悪くはない。悪くはないんだけど、そっちがそんな格好してると一日中パジャマの私がだらけて見えるというか、何かムカつく。後おならとかげっぷとかそういうのも一切しない。トイレでしているらしいがそうなると私の方もしにくくなって何となく窮屈。家なのに生理現象我慢しないといけないって何なの。夫が見せる唯一の隙と言えば鼻唄を歌うこと。Aimerの『カタオモイ』を歌う。ちょっと気持ち悪い。


 次。過剰なレディファースト。戸は開けて待っていてくれるし重たいものは持ってくれるしコートの脱ぎ着でさえ助けてくれる。段差では手を貸してくれるし車に乗る時はわざわざ私の方のドアを開けて乗せてから運転席に行く。まぁ、いいんだけどさ。そこまでされるとこっちも畏まっちゃってよぉ。それに何だか私が尻に敷いてるみたいじゃん。


 次。執拗な愛情表現。ほぼ毎日「多鶴子、愛してるよ」って言ってくる。「好き」って言葉は一日に三回は言う。誕生日には花束かケーキを買ってくる(どっちも買ってきたこともある)。「生まれ変わっても多鶴子と夫婦になりたい」なんて言ってくる。こっちは生まれ変わったらもっと若い内に人生設計ちゃんとして他のイケメンと結婚するっつーの。


 一応共働き。朝、私の方が家を出る時間が早い。なのに夫は私よりも早起きして先に二人分の朝食を作って待っていてくれる。二人で朝食を食べるのだけれど、夫はやれ天気がいいだの帰ってきたら何が食べたいだの訊いてくる。私は「そうだね」とか「生姜焼き」とか言って適当にそれらを受け流してさっさと会社に行く。会社に行くとイケメン(既婚者)がいる。


 あーあ、何でこいつらとじゃなくてあんな男と結婚しちゃったんだろう。私の人生何を間違えたかな。

 どこでしくじったのか振り返る意味も込めて、昼休みに自分のスマホに入ってる過去の写真を漁る。と、まぁ当たり前と言えば当たり前なのだが、夫の写真も出てくる。くそっ、何でこんなのと……。


 やめだやめだ、と思いながら画面をスクロールして一気に昔の画像へ。そこで目に留まる、白い画像。


 何だこれ。大量の風景写真の中にぽつんとあった白い画像が気になって指を止める。よく見ると真っ白な背景の前に一人の老女が。全く身に覚えがないデータでしばし考える。


 白いものを背景におばあちゃんを撮るような経験。そんな思い出欠片もない。気になったので触れてみると、何と動画ファイルだった。職場で音声流すのも……と思ったので慌ててイヤホンを繋いでみる。少しのノイズ。その後に音声が入っていた。


〈こんにちは、三十三歳の多鶴子。八十八歳になったあなたです〉

 えっ。変な声が出そうになる。何これ。いたずら? しかし動画ファイルは続く。


〈あなたは今、結婚してからちょうど二年。退屈な結婚生活を送っていますね〉

 ちくりと胸を刺す内容で、私は身構える。何これ。どういうこと? 


〈婚活サービスで出会った男性だから、収入が安定しているか、とか、変な価値観じゃないか、とかそういうところばかり見て愛情がどうかという問題は後回しにしていましたね〉

 何も言えなくなる。そのままずばりだからだ。


〈『生まれ変わっても夫婦でいたい』。忠司さんにそう言われても『他のイケメンと結婚するわ』なんてことを思っていましたね〉

 何このファイル? 何なのこれ? 私は慌ててファイルの情報を見ようとあちこち触ってみるが、ファイルの情報を参照することは愚か、一時停止も早送りも巻き戻しもできない。ならばとホームボタンを押してもホーム画面にすらならない。完全にこの動画に乗っ取られている。何これ。何これ。


 電源ボタンを長押しする。しかし切れる気配がない。イヤホンの中で、八十八歳の私を名乗る老女の話は淡々と続く。


〈あなたに子供はできません。多嚢胞性卵巣症候群という病態が確認されて、子供ができにくい体になっているのです〉

 ヒヤっと何かが胸の中に落ちる。子供ができない。嘘でしょ。義理の両親も私の両親も、すっごく孫を欲しがってるのに……。


〈そのことであなたは悩みます。両家から色々言われて傷ついて、自分を責めます。苦しんで苦しんで苦しみ抜きますが、忠司さんが『大丈夫だよ。子供の分も傍にいるから』と言ってくれます。でも精神が不安定なあなたはその言葉にも激昂して、『結婚なんてしなきゃよかった!』という心無い一言を言ってしまいます〉

 言葉が出てこなくなる。思考が回らなくなる。


〈でも、そんなことがあっても忠司さんは優しくしてくれます。あなたを何より大切に、大事にしてくれます。でも別れは突然やってきます〉

 呼吸が止まる。


〈忠司さんが六十歳になったある日、散歩に出かけた忠司さんは心臓発作であっさり死んでしまいます。忠司さんに対してそれほど気持ちのなかったあなたは淡々と葬儀を済ませて、自由を謳歌しようとしますが上手くいきません。何故だか分かりますか〉

 分からなかった。動画の中の私は続けた。


〈女性は花だとよく言いますね。けれど花には水やりが必要です。忠司さんは毎日水をくれました。でもいなくなると、あなたに……私に水をくれる人はいませんでした。いなくなって気づくのです。あの人がどれだけ私を愛してくれていたか。あの人がどれだけ私を大切にしてくれていたか〉

 どうしてだろう。

 胸が詰まる。


〈今、私は毎日後悔しています。後悔しながら毎朝夫の仏壇の前に座ってAimerの『カタオモイ』を口ずさみます。忠司さんの好きな曲ですね。すごくいい歌です〉

 だから、お願いです。

 動画の中の老女は頭を下げる。


〈三十三歳の私へ。私の分も忠司さんを大切にしてください。八十八歳の私は……私の毎日は、どうしてもあの人でいっぱいです。いっぱいなのに、もういないんです。お願いします。今のあなたにとって忠司さんがそれほど大事じゃないのは分かります。でもせめて、せめてでいいんです。『ありがとう』を言うとか、笑顔を向けてあげるとか、そういうことをしてください。そして思い出もいっぱい作ってください。あなたは、忠司さんからもらった花やプレゼントはさっさと捨てたり片付けてしまったりしちゃいましたね。ちゃんと取っておいてあげてください。花は写真を撮って残しておいてください。それだけで八十八歳のあなたの人生は、本当に明るく、温かいものになるでしょうから。お願いします。愛する人といられる時間は限られています。いなくなってから気づいても遅いのです。今この瞬間を大切に。向けてくれた愛には答えてあげてください。八十八歳の私からの、たったひとつのお願い。どうかよろしくお願いします〉


 動画ファイルはそれで終わった。と、電源ボタンに触れたことに今更気づいたかのように、画面が暗転して動かなくなった。私は慌てて電源を入れ直してすぐさっきの動画ファイルを探したがどこにもなかった。昼休み。私はしばし唖然とした。



「ただいま」

 夫が帰ってきた。待ちわびていたように私は玄関の方に行く。するとあの人が立っていた。手にはちょっとした……かわいらしい花束を持って。

「おや、出迎えてくれるなんて珍しいね」

 そう言われるとちょっと言葉に困る。

「いや、その、別に……」

 すると夫はすっと花束を私に差し出してくれた。それから笑う。

「僕と結婚してくれてありがとう。結婚記念日だね。待っててね。今日は生姜焼きにするよ」

 ピンクの濃淡が美しい薔薇の花束だった。私はそれを受け取って、でも真っ直ぐ彼の顔を見られなくて、それでも言うって決めていたことを真っ直ぐに彼に伝えようとした。八十八歳の私が言えなくて悔やんでいたことを、真っ直ぐに、丁寧に。


「あの……ありがとう」


 了

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