彼女の名前

 その空は炎天と呼ぶにはあまりにも似つかわしくない青さだった。


 空気に含んだ水蒸気が魅せる青

 陽の光を吸い込んで

 それはみずみずしい空の艶

 油彩のように濃密で

 透き通るように虚空そらは高い


 その高みを目指すように立ち上る白い雲

 湧き上がる熱量を孕みつつ

 日差しを通さぬその白さは

 雪のごとく

 綿のように

 夏の空


 明暗のコントラストは際立つ夏空に

 入道雲

 何かの予感を含むように

 彼の眼前にそびえ立つ


 バイトを終えた彼は大学生

 早朝よりの一仕事

 それでも陽が昇るより早い

 炎暑に汗ばみ

 漕ぐペダルも緩慢に

 下宿先のアパートへの道を行く


 そこは運河の水辺

 人気も絶えた昼下がり

 河川敷の自転車道に

 その男は独り行く


 近道と選んだ道筋は

 川辺の日差しが足元から照り付け

 アスファルトも緩むかの熱気が

 陽炎に揺らぐ一本道

 そのひと漕ぎにも骨が折れる


 水気が欲しいが

 もう飲み干していたと

 さっきのこと

 空のボトルが恨めしい

 汗になった水分を取り戻せるわけもなく

 吐く息だけが湿気ていた


 ちくしょうと独りちる

 そんな彼をお日様は

 輝く笑顔でと見下ろしていた

 大きなお世話だ

 よしてくれ


 汗をぬぐう彼の耳には

 遠雷の響く空

 見る見るうちに

 空気の気配が変わるのが

 皮膚を通して察する男


 川向こうの遠い彼方に黒い雲

 夕立かと思うそばから

 不意に吹き込む湿気た匂い

 やばいぞ

 やばいじゃないかと

 男はあえぐ


 その黒雲は低くのたうつように

 這いながら

 近づく気配が雨の音

 聞こえぬふりと急ぐ帰り道


 もうじき降り出すだろう

 持ってくれよ

 あと少しなんだ

 そこの土手を登れば見えてくる

 見慣れた安アパートの屋根の色


 その川沿いの土手の上から

 駆け降りる人影が一つ

 スカートをひるがえすは女の姿

 しかし女と呼ぶには華奢な姿


 制服姿の女子高生か

 白いセーラー服が眩いばかりに

 黒いリボンが揺れて胸元

 白いソックスに白い靴

 それは絵に描いたような可憐な少女


 だが黒髪をポニーテールに括った彼女は

 アスリートを思わせる鋭敏な身のこなしで

 崖を下るカモシカのように

 あっという間に駆け下りる


 男の乗った自転車にちらりと目くばせ

 急停車する男を横目に

 川辺に立った少女は

 小気味よい動作で振り返る


 快活で利発な瞳は悪戯っぽく

 その端正で大人びた顔立ちをクシャっと

 ほころばせる無邪気な笑みは

 たちまち男のこころを魅了した


 男は言葉が出ない

 唐突すぎた出会いに躊躇したせいだ

 それもあるが何と言う?

 通りすがりの女子高生にかける言葉も…


 男を制するように彼女からの声

「素敵な自転車ね」

 あたしも欲しいわ、そんなの、と早口な軽口

 その陽気な声音をひどく場違いに感じる男

 だが、戸惑いつつもありがとうと

 言おうとした瞬間

 携帯の着信音が響く

 無機質な音


 それは彼女の胸元だ

 すかさず口元に指先を当てて

 シーっとかすかに首を傾けてみせる彼女

 手慣れたしぐさにかすかな違和感

 いつもこうなのか?


「大丈夫、何とか間に合ったわ」

 携帯を耳にあてがい彼女が答える

 見えない相手にクスリと笑う

 もう男のことは眼中にない素振り

「ええ、ここで迎え撃つの」

 今すぐここで、と。不意に真顔になった。


 迎え撃つ?誰を?いや何を、だ。

 その時黒雲が辺りを覆うように日差しを遮る

 いつの間に?さっきまでのはちがう空気の気配

 消え失せた日常の、それは不穏な匂い…

 ただの夕立ではないことが男にもわかる


 ここで何が起こるんだ?そして君は

「誰なんだ?」

 男は迷う

 彼女に近づくか、離れるべきか

 それを見透かすような少女の声

「離れてて、ここからすぐに」


 その声で携帯の声が彼女に尋ねる

「そばに誰かいるの?」

 女の声がする年配の女性ヒト

 大人の声が気遣う気配


 男にはその声は聞こえないが

 少女の素振りで察することはできる

 男は自転車を降りた

 マズイことになる

 直感が叫ぶ

 醜怪な風の音


「知らない人よ、さっき出会ったばかり」

 でも守れると思う、と

 微かに眉を寄せ男の方を見る

 目くばせであっち行ってと再び男に促す

 考える余地はないと

 その瞳は無言で語る


 情けないと思いつつ男はハンドルを握りしめ

 後ずさると頷く少女

 急いでと念じつつその瞳は天を仰ぐ

 薄暮の空間が拡がっている

 小雨が徐々に勢いを増す

 頬を濡らす雫


 閃光と落雷の音が合図だった

 膨張する破裂音が鼓膜を打つ

 男はその光に目がくらむ

 衝撃に腰が抜けたが

 その目は少女を探す

 大丈夫か?


 少女はそこにいた

 川辺にたたずむその後ろ姿

 よかった、というより

 平気なのか?


 男に背中を見せたまま

 その手を後頭部に添え

 束ねた紐を解き放つ

 その黒髪は荒れ狂う風に舞う


 降りしきる雨の中でも

 彼女は濡れない

 柔らかな光に包まれ

 そこだけが静かに調和を保っている

 そして男は見た


 背中から純白の翼をはやした少女の姿を


 左右に拡がるその翼は縦に四対

 八枚の翼が、あるものは

 飛び立つかのように左右に延び

 またいくつかは彼女の身体を覆うかのように

 まとい付くそれは

「天使」なのか…?男は惑う


 なぜならその翼にはクジャクの様に

 眼のような幾つもの文様が…

 いや、それは男の目には

 文字通りの”生きている”瞳だった


 幾つものそれは静かに”瞬き”をしている

 あたかも禍々しい「怪物」のように

 そしてそれは同時に神々しくもあったのだ

 それをして男は「畏怖の念」と呼ぶしかない


 異界の神もかくやと言わんばかりの少女は

 上空の黒雲の中にいる”それ”と対峙する

 それもまた少女と同じ

 黒い翼をもったの姿をした

 全裸にして一対の存在


 お互いに手を差し伸べる二人の姿

 互いの名を呼び合うように

 その翼を絡み合わせながら

 二人の姿は徐々に虚空そらの中へと溶け込んでゆく

 迎え撃つと彼女は言っていたが

 男の目には互いに愛し合いむつみ合う姿にも見えた


 それは人智を超える異能の闘いに違いない…

 男はそこで意識を失った


 男の意識がそこで途絶えたのも無理はない

 彼が再び目を覚ましたのは救急車に乗せられて

 病院へ搬送中だったのだから


 激しく衰弱はしていたものの意識は明瞭としていて

 その体には何の損傷も異常もない

 つまり少女は少年と闘いつつも男を守り切ったのだ

 と、言うよりほかはないだろう


 男のいた河川敷に突発性の竜巻が発生したというのが

 一応の説明だった

 何の説明にもなっていないと男は思ったが

 それ以上は尋ねなかった

 何を聞いても意味がないと男は思うことにした

 男もあのについては何も語らない

 語れるはずもなかった


 男が退院したころには

 もう夏も終わろうとしていた

 残暑は相変わらずだったが

 日が暮れると草むらからは虫の声がする

 それは平穏な日々なのだろう


 あのあと例の河川敷を訪れる機会もあったが

 何かがあったわけもない

 ありきたりな風景の中で

 ただ暇をつぶしただけだった


 何が本当のことだったのか

 今では確信をもおぼつかないありさまだったが…


「何してるの?」

 不意に尋ねる声がする

 少女の声で我に返る

 彼女は…誰だっけ?

 ああ、親戚のいとこの一人だった、と思う

 今日は学校を休んで

 わたしの付き添いの相手をしてくれたのだ

 いい娘だが何かが引っかかる

 一度尋ねてみよう


 思い出せないの名前を


















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独りの夜に 真砂 郭 @masa_78656

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