緊急避難フラグ

岡本紗矢子

緊急避難フラグ

 客室のふとん敷きを終えて厨房を覗くと、父の陽一は片付いた厨房で酒の用意をしていた。父と娘だけで運営する、小さな島の小さな旅館。いちばん多忙な時間がようやく終わる。

「おう美晴、おつかれ。もう飲んでもいいよな」

「いいんじゃないの」

 陽一がほっと笑みを見せて、家族用のテーブルにやってくる。仕事終わりに陽一は刺身と冷酒、美晴はティーバッグで大ざっぱに入れた紅茶とクッキーをたしなむのがいつもの決まり。

「忙しかったな、今日は。シーズンオフに満室なのは嬉しいが」

「ああ、予約は個別だったからわかんなかったけど、今日のお客さんみんな、仲間同士みたい」

「へえ。何の仲間?」

「ミステリ好きのオンラインサークルだって。リアルで会うのは今日がお初で、島で謎解きイベントをするとか……」

「美晴。それは本当か」

 美晴は紅茶に伸ばした手をとめ、言葉を切った。陽一の声と表情が、急に険しくなったように見えたからだ。

「え? そう言ってたけど、どうしたの」

「ひとつ聞きたいんだが、客の中に――」

 言いかけたときだった。厨房の勝手口を開ける音がして、「陽一さん、いるか!?」と声がかかった。

 すぐ立ち上がった陽一が、厨房に戻っていった。声を潜めて早口に話すのはお隣さんらしい。合間に、「うん」「ああ、やはり」、陽一の相槌が少しだけ聞き取れる。

 やがて戻ってきた陽一の表情は、見たこともないような厳格なものだった。

「美晴。非常事態だ。今すぐ島を脱出する」

「えっ? 何それ、どういうこと?」

 とっさに聞き返したが、陽一は表情を変えない。

「どうもこうもない。すぐ支度だ」

「え、でもお客さんどうすんの」

「もうそれはいい。美晴、良く聞け。さっきのそのサークル仲間の主催者が、隣に泊まってる。そして――そいつは本職の探偵だった」

「探偵?」

 探偵というと――ポアロとかホームズとか? 推理をして犯人を暴く人だよな、と美晴は考える。

「えっと、それで? 探偵が何なの?」

「なにぃっ!? 美晴お前、『探偵と名乗る奴が現れたら島民はすべてを捨てて全力で脱出すべし』という島の言い伝えを知らんのか! そいつが島に現れたが最後、早々に脱出しないと俺たちはやばいんだ。気づいたら天候が悪化して海が荒れ出し、外部への連絡手段は何ひとつ断たれ、そのうえ犠牲者がてんこもり出る惨劇に巻き込まれることになるんだ!」

「まさか、そんなことが」

「あるんだ! だからこの島は修学旅行も臨海学校も、とにかく団体様にはご遠慮いただいているんだ。どこに高校生探偵だの教師探偵だの混じっているかわからんからな。なのにお前、よりによってミステリーのオンラインサークルなんかを受け付けやがって」

「ちょ、何よ、私だって知らなかったんだよ!? それに探偵が来たからって惨劇とかそんな――」

 言いかけた美晴は、しかしその瞬間黙した。窓の外が白く光ったのだ。

「……雷だ。始まった」

 陽一がちらと窓に目を走らせた。

「うそ? さっきまで星空だったのに」

「だから言ったろ。探偵が来ているからだ!」


――さあ、わかったら脱出だ。10分で出るぞ――

 陽一が厳しく言う声が、遠くに聞こえた。


**


 最低限の持ち物だけをカバンに詰め込んで外に出る頃には、光と雷鳴の間隔は3秒程度になっていた。勝手口の扉はいつの間にか強まった風に押されており、陽一が力をこめて扉を外に押し開くと、飛び込んできた風が厨房全体を駆け巡った。

 旅館は高台の坂の途中に建っていて、下りていった先はすぐ海になる。美晴は沖を見た。黒々としていたが、白く波が立っているのが見て取れる。沖の風が強まっている証拠だ。

「本土行きの最終フェリー、出るかな?」

「このくらいならまだ出港停止にはならんだろう。ただ時間がない。急ぐぞ」

 陽一は小走りに坂道を下り出す。美晴も後に続いた。風が下から吹き上げてきて、身体が時々浮くような気がする。雷が光るたび、道が真っ白に浮かび上がる。

 周辺4kmしかない島だが、港はここから見える海とは背と腹の関係で、島の真ん中をつっきって逆側に出ないといけない。陽一と美晴はできるだけ足を速めて路地を抜けた。逆側に出て港を視認したとき、雨がポツリと肩に落ちてきた。

 フェリーはいた。発券所もまだ明るい。

「よし、間に合いそうだな」

 陽一が明るく言って荷物を持ち直し、小走りになる。ここからは岸壁の道一本。美晴も続こうとしたが、そのとき突然、雷光と雷音が頭上で同時にはじけ、衝撃が身体中を打った。続いて雨。ダムの放水のごとき雨がどっしゃと頭から降り注いでくる。

「わあ! 何これいきなり!」

「ほら、これだ! 探偵禍が本格的になってきやがったぞ!」

 ドシャドシャと落ちてくる水の攻撃。道にはあっという間に雨水があふれ、その上を別の雨水がひっきりなしに穿つ。そこに突風が襲いかかった。立っていられずよろめいた美晴をとっさに陽一が支えたが、その陽一は何かに足を取られたらしい。盛大な水音を立てて道路に倒れこんでしまった。

「ご、ごめん! 大丈夫!?」

「美晴……お前は?」

「私は何ともないよ」

「そうか……よかった。なら、美晴。俺のことはいいから先に行け」

 地面に伏した陽一は立ち上がろうとしなかった。運悪く、今転んだときに足をひねったのだ。

「そんな……だめだよ、私だけなんて」

「いいんだ、ここで倒れるならそれが俺の宿命だ……俺は諦めて惨劇の見届け人になるさ。心配するな、犯人だって無差別じゃない。うちの旅館を事故物件にされるのは迷惑だが、俺が被害者になることは、たぶんないさ……」

「そんなの、わかんないじゃない!」

 美晴は強く首を振って、ひざをついて父の手を取る。あふれてきた涙が雨の中に散った。

「犯人に無関係だからって、犠牲者にならないとは限らないよ。うっかり目撃者になったり、うっかり真犯人に気づいたり、うっかり犯人に目撃者と勘違いされたり、うっかり犯人と勘違いされてボコられたり、うっかり見立て殺人に利用されたりすることだってあるんだよ。ねえ、探偵はその場にいるだけで死者を作るんだよ!? 最初から居合わせているくせに、犠牲者を未然に防いだためしがないんだよ! そんな恐ろしい奴がいるところに、お父さんを残していけないよっ……!」

「お前、詳しいな……もしかしてお前が探偵なのか?」

「違うよ! なに変な冗談言ってんの!」

 陽一はうっすらと笑い、自分の手から美晴の手を引きはがした。

「ほら、もう時間がない。早く行け」

「でも――」

「行くんだっっ!」

 美晴は唇を噛み、立ち上がった。ここで行かなかったら、きっと父は一生、心の負担を抱えて生きていくことになるのだと気が付いたのだった。

「お父さん、大好き」

「ああ、分かってる」

「じゃあ――」

 美晴はそのまま二、三歩、港の方に走りかけて、だが立ち止まった。

 大雨にかき乱されてうねりながらもスピーカーから響いてくる、ピアノのメロディを聞き取ったからだった。奇妙に明るく弾んでいる、『もしもしカメよ♪ カメさんよ♪』。島の人間なら聞き慣れている、出港直前のお知らせメロディだった。


――本日もご乗船ありがとうございます。このフェリーは白御波しろごなみ島を出港し、二家田にげた岬まで参ります最終便でございます。まもなく出港いたします。ご乗船のお客様はお急ぎください――


「お父さん。だめだ。行っちゃうよもう」

「……そうか。間に合わなかったか……」

「まあいいよ。お父さんのこと置いていきたくなかったし」

 美晴は立てずにずぶ濡れになっている陽一の横に座り込むと、雨風に負けないように目を細めて、出港準備に入ったらしいフェリーの光を眺めた。

「あ。動き出した。あー、離岸した。ああ……あはは、さよなら安全圏」

「これでもうしばらくしたら、通信も全部遮断するんだろうな。お前、今のうちにSNSになんかあげとかなくていいのか」

「やめてよ。別に犠牲者になるって決まってないし。あー、でも、できれば旅館の中では事件起こらないでほしいねぇ。……ん?」

 ふと美晴は空を見上げた。

 雨が急に弱まったのだ。いつの間にか雷も光らなくなっている。雷鳴はまだ聞こえてくるが、そのゴロゴロ……という音は控えめに遠くから鳴るようになり、やがて、雲の合間に星がまたたくようになってきた。

「お父さん……天気が……」

「うん、回復してきてるな? どういうことだ……」

「おーい。おーい! そこにいるの陽一さんたちかー!?」

 まだ地面にわだかまる水を、ばしゃばしゃと蹴り飛ばす音がする。美晴と陽一が音のする方を振り向くと、あと数メートルのところまで走り寄ってきた男性が、膝に手をついてぜえはあと息を整え始めた。

「なんだ、隣の……あれ、船に乗ったんじゃなかったのか」

「い、いや、それがさ、」

 さっきも情報を持ってきてくれた隣の旅館の主人は、ひとつごくんと喉を鳴らすと、背筋を伸ばした。

「あの、探偵のお客さんな。なんか本土から事件の連絡があったから帰るって、最終便に――。それで、陽一さんたちのこと呼び戻しに来たんだよ」

「えっ、わざわざ走って……て、あ、そうか。俺ら隣過ぎて連絡先の交換してなかったな」

「そうなんだよ。いやー、良かった。乗ってなくて」

 陽一とお隣さんがあはははと笑いあう。美晴もほっとしたが、離れていく船の姿に、ふと何か引っ掛かりを覚えた。こちらはみるみる天候が良くなっていくにもかかわらず、沖に進んでいくフェリーの周りは何か暗雲に取り囲まれているように見える。

「お父さん」

「ん?」

「そのー、何か他に言い伝えとかあったりする? たとえば、探偵が乗っている船に一緒に乗ってはならないとか」

 美晴は船に関するミステリーもいくつか知っていた。ひとつの船に乗り合わせる人々。そこに居合わせる探偵。船という水上の密室には、やがて――。

 陽一もお隣さんも、しかし何も言わない。三人は押し黙ったまま、不穏なフラグをおったてて海にすべり出していくフェリーをじっと見送ったのだった。

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